第22話 見えない境界線
履修届を提出した翌朝、教室へ入ったカサンドラは、自分の席へ向かう途中で何気なく前方へ目を向けた。
窓際ではジェイクが男子生徒と話しており、その少し手前でリゼが教本を机の上に並べている。
手を動かしながらも、リゼの視線は時折ジェイクの方へ向かっていた。
見ている時間はほんの僅かで、ジェイクがこちらを向きそうになると、何事もなかったように手元へ戻る。
昨日はあれほど剣術の講義を増やすことに意欲を見せていたというのに、本人を前にすると近づくことさえ難しいらしい。
好きだから話したいのに、好きだからこそ嫌われるのが怖い。
その気持ちは、カサンドラにもよく分かった。
鞄を置いた頃、教室の扉が開いた。
入ってきたシリウスを見て、リナの顔が自然にそちらを向く。
一方のリゼは一度だけ顔を上げると、すぐに教本へ視線を戻した。
昨日、履修届を見られたことをまだ気にしているのだろう。
けれど、シリウスは自分の席へ鞄を置いた後、まっすぐリゼのところへ向かった。
後方にいるカサンドラには細かな表情までは見えないが、シリウスが何かを告げ、リゼが少し困ったように答えている。
「昨日のことだが、気を悪くしたのならすまない」
静かな教室だったため、その言葉だけはカサンドラの耳にも届いてしまう。
当然、他のクラスメイトも何事かと思ったことだろう。
一瞬硬直したリゼが何かを返すと、シリウスは短く頷いて自分の席へ戻っていく。
その背中を、今度はリナがしばらく目で追っているのだ。
リゼが気にしているのはジェイクで、リナが気にしているのはシリウスなのは分かっている。
それなのに、ゲームで相性の良かった組み合わせだけは、本人達の気持ちとは関係なく勝手に接点を作っていく…
その光景を眺めていたカサンドラは、少し離れた席にいる令嬢達も同じ方向を見ていることに気づいた。
一人が隣の令嬢へ何かを囁き、二人揃ってリゼとシリウスへ視線を向けている。
すぐに講師が入ってきたため、それ以上気に留める暇はなかったがど、その視線だけは何となく頭に残った。
一時限目を終えた後にも、似たようなことがあったのだ。
休憩に入り、生徒達が席を立ち始めた頃、ラルフの机の端に置かれていた教本が二冊滑り落ちた。
すぐ近くにいたリタが咄嗟に手を伸ばし、床へ落ちる寸前で二冊とも受け止める。
「セーフ!」
思わず上がった声に、近くにいたジェイクが振り返った。
「お前、反応早いなー」
ジェイクは笑いながらリタの腕から一冊を取り、元の机へ戻した。
そのまま反射神経がどうとか話し始めているのだが…?
細かな内容までは聞き取れなかったが、友人に話しかけるような口調と何も変わらない。
正直、それだけで目立つ。
基本的にジェイクは女生徒に自分から話しかけるタイプではないので、めちゃくちゃ目立つ。
戸惑いながら受け答えをするリタの向こうでは、リゼがジェイクの背中を目で追っている。
そしてジェイクが離れた後、今度はリタがそっとラルフの机へ視線を落とした。
――ややこしい。
昨日と同じ感想が頭を過ぎる。
けれど、朝と同じ令嬢達は、今度はリタとジェイクを見ていた。
ジェイクが自分から声を掛け、笑いながら話していたところまで、しっかり目に入っていたらしい。
うーん……
昼前には、さらにもう一度。
午前最後の講義を終え、皆が食堂へ向かう支度を始めた頃、ラルフがリナの席へ寄った。
「リナ嬢」
呼ばれたリナが顔を上げる。
ラルフは王都には慣れたか、何か困ったことはないかといった話をしているようだった。
リナが笑うと、ラルフも穏やかに微笑み、ほんの短いやり取りを終えて教室を出ていった。
その隣では、リタが随分と羨ましそうな顔でリナを見ている。
当のリナは理由が分からないらしく、首を傾げていた。
リゼにはシリウスが、リタにはジェイクが、リナにはラルフが向こうからやって来る。
本人達が好きな相手とは、見事なくらい一人ずつずれていた。
なるほど、ゲームで相性の良い相手ほど攻略しやすかったわけだ。
こちらから必死に接点を作らなくても、向こうが先に興味を持ってくれる。
それだけでも、恋の始まりとしては随分大きな差になる。
これが初期値ブーストというものか、と。
一歩離れたところで眺めた結果、納得せざるを得ない。
――とはいえ、現実では好意まで自動的についてくるわけではない。
誰を好きになるのかは、本人次第だ。
主人公が誰を選ぶのかは、神のみぞ知る領域である。
そして、カサンドラ以外にもその三組を見ていた者はいた。
朝から何度もこちらへ視線を向けていた令嬢達が、今度は互いに顔を見合わせている。
どれも、それだけなら何でもない短いやり取りだった。
けれど、一日のうちに御三家の三人が、それぞれ特待生の三つ子へ自分から声を掛けている。
周囲から見れば、目立たないはずがなかった。
昼食の時間になり、カサンドラはいつもの指定席で食事を済ませた。
食堂は今日も賑やかというほどではなく、各席で交わされる会話も控えめだ。
特に王子と話ができるわけでもなかったが、一緒に空間に堂々と存在出来ることが嬉しかった。
食後の紅茶を飲み終え、午後の選択講義へ向かうために食堂を出ようと歩き出した時だった。
少し離れた場所にいた女生徒達から声を掛けられたのである。
「カサンドラ様、少しよろしいでしょうか」
振り返ると、午前中から何度か視線が合っていたクラスメイト達だった。
そのうち一人は、ヴァイル家と縁の深い家の令嬢だったはずだが、はて?
「ええ。
何でしょう?」
令嬢達は互いに一度だけ顔を見合わせた。
先頭の令嬢が、声を少し落として話し始める。
「最近のことですけれど……御三家の皆様、特待生の三つ子を随分と気に掛けていらっしゃるでしょう?」
「あら、そうお見えになるのでしょうか?
わたくしには分かりかねますが…」
「もちろん、同じ学園の生徒ですから、お話をすること自体が悪いとは申しませんわ。
ですが、三人ともとなると…
ええ、少し気になりまして」
言葉遣いは穏やかだった。
けれど、彼女達が本当に聞きたいことはまだ別にあるらしい。
「カサンドラ様は、どう思われます?」
どうやら、自分にも同意して欲しいのだろう。
彼女達が何を不安に思っているのか、全く理解出来ないわけではない。
御三家の嫡男達は、将来それぞれの家を背負う立場にある。
貴族社会の距離感を重く見る者からすれば、地方から来た特待生が急に三人と親しく見える状況を落ち着かなく感じることもあるのだろう。
もしくは、自分たちが話しかけることさえ難しい相手に、ポッと出の庶民が気安く話しかけているように見える苛立ちも含まれているのかもしれない。
実際、面白くないだろうな、とは想像がつく。
この世界は三つ子が主人公で、彼女たちはゲーム内では名前さえない背景の女生徒――
それがいざ一つの世界で同じ次元に存在するとなると、軋轢を生じないはずがない。
「あまりにも、目に余ると思うのです」
今の段階は、好みじゃない男性から話しかけられているに過ぎないのにこの感想!?
理不尽の極みだ、とカサンドラも内心で苦笑を浮かべるしかない。
だがそんなカサンドラの心情も知らず、一歩前に踏み出た女子生徒が拳をぎゅっと握りしめる。
感情的になっているのが伝わってくるため、軽く冗談めかして終わらせることも難しい。
「まあ。
そういうふうに見えていましたのね」
令嬢達の表情が僅かに和らぐ。
ようやく話を分かってもらえたと思ったのかもしれない。
「――さすがジェイク様にラルフ様、シリウス様ですわ」
「……え?」
「王都にも学園にも不慣れな彼女達を気に掛けていらっしゃるのでしょう?
生徒会役員として、とても相応しいお心遣いではありませんか。
困っている生徒を手助けしていらっしゃるなんて、わたくしも見習わなくては」
令嬢達が黙った。
少し間を置いて、先ほどとは別の令嬢が控えめに口を開く。
「それでも、カサンドラ様は王子の婚約者でいらっしゃいますでしょう?
御三家の皆様が軽く見られるようなことにならないためにも、あの三つ子には節度をお教えになるお立場なのではありませんか?」
カサンドラは彼女たちの心の声が副音声で聞こえる気がした。
――学園内の秩序を乱しかねないの三つ子に、ピシャリと注意して欲しい!
王妃候補であり、女子の中で上位にいるカサンドラなら、下位の者へ節度を教えるのは当然!
うーん、結構直接的だな、と頭が痛い。
これはカサンドラにとっては罠にもなりうる話だ。
王子の婚約者という立場は決して軽くない、もしもこの進言を真に受けて三つ子に厳しく接しようものなら…
庶民を差別し、いじめる良識の無い王妃候補だと後ろ指をさされかねないのだ。
もしかすると、ゲームの中のカサンドラも、こんなふうに周囲から期待されることがあったのかもしれない。
王子の婚約者なのだから何とかして欲しいと求められれば、知らぬ顔を続けるのも難しかっただろう。
外野の声に気を取られ、言われたまま動く結果など既に分かっている。
……カサンドラが権力を振りかざす人間だと悪評が広まり、そして実際に三つ子に対して邪魔をしたり嫌がらせをしたら――
学園から追放!
ゲーム通りの末路を辿ってしまう…というわけだ。
なんと恐ろしい。
第一――カサンドラの立場は決して安泰というわけでもない。
カサンドラさえいなければ、自分が婚約者になれるかもしれないのにと思っている令嬢も少なくないだろう。
だから…進言を鵜呑みにして、何も考えずに動くのだけは駄目だ。
「皆様がご心配になるお気持ちは分かりました」
カサンドラがそう答えると、令嬢達は静かにこちらを見る。
「もし彼女達が礼を失するようなことをなさったのなら、その時はわたくしからもお話しします。
ですが、今のところは、そのようなことはありませんでしょう?」
「それは……そうですけれど」
「ジェイク様達にも、ご自分のお考えがあってお声を掛けていらっしゃるのだと思います。
何も起きていないうちから、わたくしが先回りして距離を取るよう申し上げる方が、かえって皆様のお考えを軽んじることになりませんか?」
それならば令嬢達も、すぐには反論出来ないようだった。
御三家を重んじるからこそ、その三人自身の判断を無視するわけにもいかない。
「気に掛けてくださったこと、わたくしも覚えておきます。
教えてくださって感謝いたします、皆さま」
カサンドラがそう結ぶと、先頭の令嬢は少し迷った後で頭を下げた。
「……承知いたしました。
余計なことを申し上げてしまいましたわね」
「いいえ。
わざわざお声を掛けてくださったのですもの」
完全に納得したわけではないのだろう。
それでも、互いに礼を失することなく話は終わった。
令嬢達は丁寧に挨拶を残し、食堂を出ていった。
――これでやりすごせたならいいのだけれど。
ふと視線を上げると、少し離れた場所にいた王子と一瞬目が合った。
※
午後は選択講義で、生徒達はそれぞれ別の講義室へ移動する。
カサンドラも食堂を出て一度教室に戻り、教本を抱えて指定された講義室へ向かった。
廊下には同じように移動する生徒達が行き交っている。
少し前には王子達の姿もあったが、途中の分岐でジェイクとシリウスが別の廊下へ曲がり、ラルフも階段の方へ向かっていった。
カサンドラはそのまま真っ直ぐ進む。
すると前を歩いていた王子が、次の分岐を前にして少しだけ足を緩めた。
「カサンドラ嬢」
不意に名前を呼ばれ、カサンドラは思わず足を止めた。
「はい」
王子は振り返り、こちらが追いつくのを待つほどではなく、その場でほんの少し立ち止まっている。
人通りのある廊下で、距離も普段と変わらない。
「先ほどはありがとう」
「……先ほど?」
「もし妙な噂にでもなれば、彼らも困っただろうからね。
別にそういうつもりで声を掛けたわけではないだろうし」
食堂でのやり取りを見ていたらしい。
ドキッと心臓が大きく跳ねた。
「いえ。
わたくしは、特に何も……」
「うん、だから助かったんだ。
ありがとう」
それだけだった。
けれど、王子の方から自分へ声を掛けてくれたという事実だけで、カサンドラの胸は一気に騒がしくなる。
アーサーはすぐ先の分岐へ視線を向けた。
「私はこっちだから。
それじゃあ、また後で」
「はい。
また後ほど」
王子は軽く会釈をすると、別の廊下へ曲がっていった。
カサンドラも再び歩き出したが、さっきまでと同じ速さでは歩けていない気がした。
また後で、というのは放課後の生徒会のことに決まっている。
それでも、王子の口からそう言われただけで嬉しかった。
今朝から三つ子ばかり向こうから話しかけてもらえているな、と、ほんの少しくらい羨ましく思っていたのかもしれない。
今日の自分にも、ちゃんと一つあった。
頬が緩みそうになるのを抑えながら講義室へ入る。
席へ着き、教本を開いたところで、食堂で聞いた言葉がもう一度頭に浮かんだ。
御三家。
ロンバルド家、ヴァイル家、エルディム家。
三家をまとめてそう呼ぶことは、カサンドラにとって幼い頃から知っている当たり前のことだった。
けれど、ゲームプレイ中の記憶を辿ってみても、その呼び名だけがどうしても出てこない。
――御三家なんて設定、ゲームにあったっけ?




