第21話 ややこしい関係
木曜日の朝、教室にはまだ空席が目立っていた。
朝の光が窓から差し込み、磨かれた硝子には教室の中の人影が薄く映り込んでいる。
カサンドラがいつもより少し早く登校したのは、今日こそ朝の挨拶だけで終わらせず、王子と少しくらい話したいと思っていたからだ。
朝なら、ほんの一言くらい話せるかもしれない。
先週、朝の教室で王子と話せたことを思い出す。
あのラッキーを、もう一度。
……そう期待していたのだけれど。
まだ静かな教室へ、廊下から四人の話し声が近づいてくる。
廊下の向こうから現れた王子の隣には、今日もシリウスとラルフ、ジェイクがいた。
彼らは何か話しながら並んで歩き、そのまま揃って教室へ入ってくる。
考えてみれば、朝の彼らはいつもこうだった。
「王子、おはようございます」
「おはよう、今日もいい天気だね」
結局、交わせたのはいつもの挨拶だけである。
王子は穏やかに笑ってくれるけれど、昨日と何も変わりはしない。
燦々と輝く太陽さえ霞んでしまうような眩しい笑顔に目を焼かれそうになりつつ――カサンドラはその次の言葉を放つタイミングを失う。
彼はそのまま友人達と自分の席へ向かってしまったので、結局そこで終了のお知らせだ。
少しくらい二人で話せればいいのに…
名残惜しく背中を見送りながら自分の席へ戻りかけたところで、カサンドラはふと足を止めた。
リタが、ラルフを見ている。
正確には、見ていないふりをしながら随分と見ていた。
ぱっと見ではラルフに背を向けてリナと話しているように見えるリタだが…
カサンドラの立ち場所から、リタが窓ガラスの反射越しにラルフを見ているのが分かってしまった。
そのくせ、少し離れたところでラルフがクラスメイトに呼び止められると、栗色の頭がぴくりとそちらへ動く。
すぐに何事もなかったようにリナへ視線を戻したように見せかけ、窓をガン見。
大変分かりやすい仕草である。
木から落ちて制服のスカートを破ってしまった時、ラルフは笑うことも騒ぐこともせず、自分の上着を貸してくれたという。
元々気になっていた相手から、そんなふうに助けられたのだ。
意識するなという方が無理なのかもしれない。
借りた白い制服の上着は、今もリタの手元にあるそうだが…
結局、自然にどう返すのが良いのか名案は浮かんでこなかった。
二人きりの時に改まって返すとなれば、それではまるで告白のようではないか。
全くそこまで関係性が進んでいないのに、ラルフも反応に困りそうだ。
まあ、急がなくてもいいと言われているのだし、数日のうちに何とかすればいいだろう。
そう思ってカサンドラが視線を外すと、今度は別の栗色の頭がゆっくり動いた。
青いリボンを着けているリナだった。
黒髪の男子生徒が教壇の前を横切っていく――シリウスだ。
何かを頼まれたらしく、席を立ってそのまま教室の外へ出ていってしまう。
リナの顔も、その動きを追うように少しずつ横を向いた。
「…………」
扉が閉まる。
そこでようやく、リナは何事もなかったように前へ向き直った。
リタとの会話も半分くらい上の空ではないだろうか。
こちらも、なかなかに分かりやすい。
本人は静かに見ているつもりなのだろうけれど、誰を気にしているのか知ってしまった今では、カサンドラの目には丸分かりである。
カサンドラは何とも言えない気持ちで教室後方にある自分の席に着き、並んだ三つの栗色の頭を眺めていた。
残るはリゼである。
彼女はといえば、今のところ落ち着いた様子で教本を読んでいるようだ。
さすがにしっかり者で冷静な彼女は、平静らしい。
――と思った、その時。
「ジェイク、昼の前に訓練場へ行くぞ」
教室の後方から声が飛んだ。
「分かってるって」
ジェイクが気軽に返す。
同時に、リゼの頁を捲る手が止まった。
一拍遅れて、視線だけがそちらへ向く。
「…………」
改めて一歩引いた後ろから見ていたら、余りにも分かりやすい動きで驚きを禁じ得ない。
もしかしたらカサンドラも彼女たちと同じように、他人から見たらバレバレなのではなかろうか。
でも、婚約者を目で追うのは不自然ではないと思う。
……そう自分に言い訳しながら、細いため息を吐いた。
彼女たちの好きな相手を教えてもらって、それを微笑ましく見ているだけというわけにはいかない。
よりにもよって、彼女たちは最も攻略の難しい相手を好きになってしまったのだ。
こればかりは本人の意思なのでカサンドラにはどうしようもない話なのだが…
せめて、好きな相手が被らなかったことを僥倖と思うほかないだろう。
まぁ、このゲームの中で言う相性とは、攻略対象にとって意識しやすいタイプというだけの話だ。
相性が良いからと言って、彼女たちがそれに従う必要性もない。
…しかし、その分恋を叶えるのは難しいわけで…
少なくとも、ゲームで知っている履修の組み方についてなら力になれる。
誰かの役に立てるということが、少し嬉しかったのかもしれない。
※
昼食を終えた頃、三つ子は揃ってカサンドラの席へやって来た。
三人の手には、それぞれ一枚ずつ紙がある。
「カサンドラ様。
先日教えていただいた通り、来週の履修表を書いてきました」
リゼが三枚を重ねて差し出した。
「一度見ていただいてもいいですか?」
「もちろんです、早速ありがとうございます」
受け取った紙を机の上へ広げる。
来週は、入学して三週目。
先日、三人が好きな相手を打ち明けた際に、今後は履修を決める前に一度見せてもらう約束をしていた。
その通りに持ってきてくれたらしい。
三枚の履修表が、教本を端へ寄せた机の上に並んだ。
まずはリゼ。
次にリタ。最後にリナの順だ。
カサンドラは記された講義名を指先で追いながら、一枚ずつ確認していく。
「リゼさん、こちらを一つ変えてください」
「はい」
「リタさんは…馬術から礼法講義に替えましょう」
「やっぱりですか……」
「やっぱりです」
「はい……」
「リナさんは算術と語学を増やしましょう」
「…ええと…カサンドラ様。
こちらの講義はかなり難しいと書いてあったのですが…」
「最初は大変かもしれません」
リナの顔に不安が浮かぶ。
横ではリタも、自分の履修表を覗き込みながら眉を下げていた。
「カサンドラ様」
「何でしょう?」
「私、本当にこんなに礼法を取るんですか?」
「取ります」
「舞踏も?」
「取ります」
「座って話を聞く講義も、こんなに?」
「頑張って座りましょう」
「…………」
返事をするたび、リタの肩が少しずつ落ちていく。
最後は青ざめた顔でうつむいた。
「私、身体を動かす方が好きなんですけど……」
「存じております」
「基礎体術、もう一つ増やしたら駄目ですか?」
「今回は駄目です」
「即答っ」
リタの悲鳴を聞いたリナが小さく笑ったものの、彼女自身もすぐ自分の紙へ視線を落とした。
「私も……少し心配です」
「何がです?」
「今まであまり選んでいなかった科目が多いので。
皆さんについていけるでしょうか」
「大丈夫ですわ」
カサンドラはにこやかに答えた。
もちろん、内心ではそこまで暢気ではない。
四月の三週目。
ある程度の方向性を定めて集中的に上げるのが最も効率が良い。
これが五月、六月と進み、行事や試験、ゲームで覚えているイベントが増えてくれば、自由に予定を組める時間は確実に減っていく。
そもそもゲームでは、必要なパラメータが足りなければ発生しないイベントばかりだ。
今のままでは、彼女たちは今日のように遠くから見るだけで時間が過ぎてしまう…
折角の学園生活、是非とも青春して欲しいではないか。
勿論、努力しても想い叶わないこともあるかもしれない――何せ攻略対象の彼らも人間なのだ。
全くゲーム通りとはいかないこともあるのだろうし…
少なくとも、黙って待っているだけでは想いは叶わない。
もっとも、そんな事情を、そのまま三人へ説明するわけにはいかないけれど。
「今のうちに頑張っておいた方が、後が楽になりますよ」
カサンドラは穏やかに微笑んだ。
「……楽になるんですか?」
リタが疑わしそうに訊く。
「ええ」
楽になるのもそうだが、出来ることなら履修を通して自然にきっかけが増えてくれればいいと思う。
「でしたら……頑張ります」
リナが先に頷いた。
「うう……私も」
リタも渋々続く。
二人とも不安そうではある。
当然だろう。
得意なものを中心に選んでいた先週までとは違い、来週からは苦手なものにも真正面から向き合わなければならない。
ゲームなら、講義を選べば画面の中の数値が上がった。
けれど、ここではそうはいかない。
礼法を身につけるのも、語学を覚えるのも、実際に努力するのは三人自身なのだ。
彼女たちの心が折れてしまわないか、カサンドラも内心ドキドキ。
だって、履修スケジュールを調整したら好きな人とお近づきになれるなんて言われて、鵜呑みにするのは難しいだろう。
だがそんなカサンドラの不安を打ち消すかのように、一切の躊躇がないのはリゼだった。
「リゼさん」
「はい」
「こちらで大丈夫ですか?」
返した紙へリゼが目を落とす。
カサンドラが直した箇所を一度確認しただけで、すぐに顔を上げた。
「はい」
早い。
「もう少し考えても構いませんが…」
「必要なんですよね?」
カサンドラは真剣な表情で一度、大きく首肯した。
「でしたら、これで出します」
迷いがない!
こういう時のリゼは、本当に決断が早い。
リゼはもう履修表を揃え、今すぐ提出してしまいそうな勢いだった。
「剣術も、かなり増えていますけれど」
「分かっています」
「大変だと思いますが…」
「大丈夫です」
即答だった。
何だか目まで燃えているように見える。
これまで恋愛に縁のなさそうだった彼女が、一度目標を定めたらこうなるのか…と、リタではないが驚かずはいられなかった。
ジェイクと同じ講義になる可能性がある――それだけで、これほど人は強くなれるものなのだろうか。
カサンドラは妙に感心した。
リタも横から姉の履修表を覗き込む。
「リゼ、剣術こんなに取るの!?」
「人の履修表見ないでくれる?」
リゼは額に青筋を浮かべつつ、リタの視線を遮るように自身の履修表を机から掴み上げた。
一度やると決めた以上、ここから先は悩む時間ではないのだろう。
その覚悟は潔ささえ感じる。
ある意味、三人の中で一番分かりやすいのではないだろうか。
「では、こちらを提出してくださいね」
カサンドラはリタとリナに、それぞれ履修表を返す。
履修締め切りも近いので、ここでグズグズしている暇はない。
「わたくしもこれから提出するつもりでしたから、一緒に参りましょう」
自分の履修よりも他の生徒の履修状況が気になる…なんて状況に陥るとは。
だが、この学園がこんな講義方式を採用しているのが「ゲーム」の設定を現実に反映しようとした結果だと思う。
だから、それを上手く活用することが恋愛が成就する鍵という推測は外れていないはずだ。
「昼休みのうちに出してしまった方がいいでしょう。
万が一忘れたら大変ですよ」
三人が頷く。
カサンドラも自分の履修届を鞄から取り出し、四人で教室を出た。
教務室は本館の一階にある。
昼休みの廊下は、生徒達の行き来で朝よりも賑やかだった。
食堂へ向かう者、図書室から本を抱えて戻ってくる者、午後の講義について話しながら階段を下りていく者。
開け放たれた窓から春の風が入り、廊下に並ぶ掲示物の端を僅かに揺らしている。
入学してまだ二週間ほどしか経っていないので、あまり用事がない棟への道順に迷いがちだ。
似たような部屋が続くと、時折混乱してしまう。
ボタン一つで移動できるコマンド機能がこの世界にも欲しいものである。
「あっ…リタさん、お待ちください。
そちらの廊下は教務室と反対です」
「え、左じゃなかったですか?」
「右よ、右。
何度通った道なの」
呆れたリゼが一足先に歩き出す。
「だって教室多いんだもん」
そうしているうちに、リゼが少し先へ進んだ。
彼女の動きには一切の迷いがなく、決めたことはさっさと済ませたいという気持ちが伝わってくる。
元々群れるタイプではなさそうだし、逆に注目されたくないという理由で敢えて妹たちと距離をとっているのかも。
履修届を手に、リゼはそのまま角を曲がっていった。
その数秒後、先を歩いていた彼女の足音がふいに止まる。
どうしたのだろう。
カサンドラ達も角を曲がると、すぐ先で立ち止まっているリゼの背中が見えた。
そして、その向こうから一人の男子生徒がこちらへ歩いてくる。
窓から差し込む光の中、黒髪と眼鏡が見えた――シリウスだ。
リゼの肩は強張っていたものの、すぐに何事もなかったように後ろを振り返った。
「カサンドラ様、こちらですよね?」
「ええ」
どうやら先へ行きすぎたことに気づき、待ってくれているらしい。
カサンドラ達が追いつく間にも、シリウスとの距離は縮まっていく。
このまますれ違って、逆方向にまた離れる――そう思ったところで、シリウスの視線がふとリゼの手元へ落ちた。
彼が横を通り過ぎるかと思ったのだが、彼の視線がもう一度紙へ戻ってしまったのである。
なんと綺麗な二度見。
「……剣術?」
リゼの眉がぴくりと動き、彼女は反射的に履修表を掻き抱く。
「人の履修届、見ないでください」
シリウスも僅かに目を瞬いた。
「別に…見るつもりはなかった。
見えただけだ」
「…………」
それはそうだろう。
リゼは履修届を隠していたわけではない。
胸元で普通に持っていたのだから、すれ違いざまに視線が落ちれば、上の方に書かれた講義名くらいは目に入る。
よほど意外だったのだろう。
声に出さなければ何事もなくすれ違えたのに、とカサンドラもフォローのしようがない。
別に履修表を見られたからと言って、何か不都合があるわけでもない。
色んな講義を受けて、自分の知的好奇心や能力を伸ばしていくのが学園の方針なのだ。
事情があって拒否反応を示してしまうリゼも、内心穏やかではないだろう。
シリウスは、今度は紙そのものではなく、先ほど見えた内容を思い返すように目を細めた。
「随分…多いな」
「何がですか?」
「剣術が」
それは眼鏡の奥でシリウスの瞳が見開かれる。
「…………」
逆に、リゼの青い目は細くなっていった。
「選択講義って、自由なんですよね?」
「ああ」
「……強制ですか?」
「いや、そういうわけでは」
「なら問題ありませんよね」
「…………」
今度はシリウスが黙った。
彼が押し黙るとは珍しい。
カサンドラは思わず二人を見比べる。
恐らく、何かを注意したかったわけではないのだ。
ただ単純に、予想外の事態だったのだろう。
入学試験では自分と同点。
算術では教本とも違う方法を使い、試験の成績について正面から競争を宣言してきた少女。
そんな相手の履修届が、何故か剣術だらけだった。
――意味が分からないに違いない。
カサンドラには分かる。
ジェイクの存在が彼女を衝き動かしている、ただそれだけの話なのだ。
もちろん、本人の許可もなく説明することはできないが…
シリウスの頭の中を飛び交っているであろう疑問符の数を想像して、この混沌とした空間にいることがカサンドラも大変気まずい。
「では、失礼します」
リゼが小さく頭を下げた。
「ああ」
シリウスもそれ以上は訊かなかった。
そのまま横を通り過ぎ、規則正しい足音が少しずつ遠ざかっていく。
数歩分の距離が空いたところで、リゼがようやく小さく息を吐いた。
「まさか話しかけられるなんて」
リゼは少し気まずそうに振り返って、困ったように眉根を寄せる。
積極的に避けているわけではないが、どうにも苦手意識があるようだ。
「あー、でもリゼの気持ち分かる。
威圧感あって怖いもんねぇ」
うんうん、とリタも頷く。そこには万感の思いが込められているようだ。
「図書室の件はリタの自業自得でしょ」
「酷っ!」
リゼの容赦ない一言に、リタは持っていた履修表を片手で握りつぶしてしまう。
慌てて紙面を伸ばすリタに「落ち着いてください、破れますよ」と声をかけるカサンドラ。
ただ履修表を出しに行くだけの作業なのに、廊下で悪戦苦闘している自分たちの姿に苦笑が浮かんだが…
「リナさん?」
「……はい?」
返事はするものの、こちらを見ていない。
リナは廊下の向こうをじっと見つめていた。
首をほんの少し傾げ、何かを考えているような顔で。
「…………」
カサンドラもつられてそちらを見る。
シリウスの姿は見えないのに、それでもリナの視線は彼の残像を追っているかのようだ。
同じ顔をしているのに、彼女たちの視線の先は全く違う。
そのくせ、本人達の想いとは別のところで妙な接点まで出来ていく。
――ややこしい。




