第20話 友達と一緒
翌日の歴史学も、カサンドラにとっては充実した時間だった。
講義を終えた講師が教室を出ていくと、それまで張り詰めていた空気が一気に緩む。
教本を閉じる音や椅子を引く音に混じって、この後の予定を相談する声があちこちから聞こえてきた。
カサンドラも机の上を片づけ、教本を鞄へ収める。
なんだかんだ、やはり歴史は面白い。
この世界の歴史をより詳しく知るためと自分に言い訳しつつ、カサンドラは静かな満足感に包まれている。
講義室を出ると、ちょうど同じタイミングで見知った女生徒の姿が目に入ったのだ。
どうやら彼女は、隣の算術の講義を受けていたようだ。
「まぁ、カサンドラ様!
私も今終わったところです、本日はこのままお帰りになりますか?」
声を掛けてきたのはデイジーだった。
「はい。今日は生徒会もありませんし、宜しければ馬車寄せまでご一緒しませんか?」
「ええ、是非!」
デイジーはニコニコと微笑み、カサンドラに駆け寄ってくる。
数少ない、カサンドラにとって入学前からお互いを知っている新入生。
彼女の存在はカサンドラの助けになっていることは間違いない。
元々そこまで親しい間柄ではなかったはずだが、彼女の明るさや親しみやすさにカサンドラも信頼を寄せるようになってきた。
入学前は避けられていた記憶もあるので…。
こうして良好な関係が築けているのは嬉しい話である。
他愛もない話をしながら、デイジーと一緒に廊下を歩く。
それは学生の日常のワンシーンで、まさに青春の一ページだ。
勿論デイジーと一緒に下校できるのは嬉しいが…
もしも王子と肩を並べて廊下を歩いて帰ることができたら、どれだけ幸せな事だろう。
今はとてもそんな関係性とは程遠いが、卒業までには…!
我ながら気が早い、と思いながらふと廊下の先に視線を遣る。
次の瞬間、思わずドクンと心臓が大きく跳ねた。
――王子と…シリウス!
二人とも同じ講義を受けていたのだろうか。
並んで、そのまま玄関ホールへ向かっている。
後ろ姿だけでも見間違えることのない、圧倒的な存在感に目を何度か瞬かせた。
学生の本分は学園での勉強のはずなのだが。
彼らのような特殊な立場の生徒は、学外でも活動を求められているのだとよくわかった。
王子やシリウスだけではなく、家の事情などで忙しくしている生徒の話は何度も耳にする。
入学したばかりの頃は、授業が終われば誰もが自由になるものだと思っていた。
けれど、実際はそうではない生徒もいるのだ。
王子には王族としての公務があり、シリウスも王城や父親に関わる用事で放課後を使うことが珍しくない。
ジェイクは騎士団へ足を運び、ラルフも商会やギルドに関わる予定へ呼ばれることがある。
同じ十五歳の学生でも、学園の外には既にそれぞれの生活がある。
当たり前のことなのに、今さらながら納得した。
ゲームでも、開始直後は下校時に攻略対象を見かけて声を掛けても、
『今日は予定がある』
『放課後は用事があるんだ』
と断られることばかりだった。
攻略対象にそう言われれば、その日はイベントが発生しない。
友好度が高くないから断られていたわけだが、別に嘘をついていたわけでもなく実際に多忙だったらしい。
体のいい断り文句と思って、画面の向こう側にあったそれぞれの事情など知る由もなかった。
「カサンドラ様?」
デイジーの声に、カサンドラは我に返る。
「ごめんなさい、少し考え事をしていました。
デイジーさん、週末の予定を楽しみにしています」
王子とシリウスは、まだ廊下の先を歩いていた。
明るい金髪は、少し距離があってもすぐに分かる。
カサンドラは時折その背中を視界に収めながら、一定の距離を空けて後ろを歩いた。
このまま玄関へ向かうのなら、しばらく同じ道になるらしい。
それだけのことなのに、胸が少しだけ浮き立った。
もちろん、追いかけて話しかけるつもりなどない。
朝には挨拶を交わしたし、昼食でも同じ席についている。
先日は手紙を出して、初めて自分から二人で話す時間を作ることもできた。
ほんの短い時間だったけれど、それでも十分な進歩だ。
焦る必要はない!
王子にも王子の都合があるのだから。
カサンドラは、ほんの少しだけ歩みを早める。
彼らの歩幅は広く、気を抜けば視界から遠ざかって見えなくなりそうだ。
――足が長すぎてついていけない…!?
性差もあるのだろうが、そもそもの脚の長さが違いすぎるのだ。
隣を歩くデイジーは、何も言わずカサンドラの合わせるように自然と歩調を早める。
気づかれていないのなら、それに越したことはない。
もし気づかれているのだとしても、何も指摘しないでいてくれるのなら、なおさらありがたかった。
中央棟を抜け、玄関棟へ続く長い回廊へ差しかかったところで、誰かが声をかけるシーンを目撃する。
「――エルディム君、少しいいかな」
シリウスが足を止めた。
声を掛けたのは教頭だ。入学式の日に、一度見た覚えがある。
隣を歩いていた王子も、それに合わせて立ち止まってしまう。
カサンドラは困った。
このままのスピードで歩けば、当然追いつき、追い抜いてしまうだろう。
別に王子の後をついてきたわけではない。
玄関へ向かっているだけなのだから、そのまま横を通り過ぎても何ら不自然ではないはずだ。
でもせめて、楽しそうに友人と会話しながら話す王子の後ろ姿を見ていたい。
そんなカサンドラの迷いを察したのかどうか、デイジーが壁際を示した。
「カサンドラ様。
あちらに来週の選択講義について、新しい掲示が出ています」
「あら」
「教室の変更もあるようですわ」
「それは、是非確認しておいた方がよさそうですね」
カサンドラは素直に掲示板へ向かった。
見ると、本当に講義変更の告知が何枚か貼られている。
……ナイスアシスト、デイジー!
ありがとう、本当にありがとう!
内心でぐっと拳を固める。
これなら王子達の会話も、少しくらい耳に入ってくるというものだ。
盗み聞きのようで大変行儀が悪いけれど、今は王子について知りたいという欲求の方が勝ってしまう。
それに、デイジーの言葉は嘘ではない。
自分は選択講義の掲示を確認しているだけだ。
これは断じて立ち聞きではない。
――多分。
放課後の回廊は、昼間に比べれば静かだった。
数歩先で交わされる声は、意識せずとも耳に届く。
「第二魔法実技場だが…
西側の区画で、結界の反応が遅れたという報告が生徒から上がってね」
「…怪我人は?」
「いない。
昨日はまだ基礎実技だ、影響も軽微なもの。
…今のところは、だが」
教頭は抱えていた紙の束から数枚の紙面を取り出し、シリウスへ差し出した。
「これは先週事前調査で測った調整記録だ。
これと昨日の実測値を、一度照合してもらえないだろうか。
術式そのものは魔法科でも確認している。
最終確認はこちらで行うから、君には数値の食い違いがある箇所だけ拾ってもらえればいい」
「…実技棟か…それなら早い方が良い。
すぐにとりかかろう」
「明日の午後には再び実技場を使う予定だ。
それまでに分かれば助かる。
他の魔導士は講堂の冷却道具の構築があるだろう?
なかなか捕まらなくてね…」
私は魔法は門外漢で、さっぱり分からないんだ。
と、教頭は困ったように頭を掻いた。
「分かった」
と、シリウスは迷うことなく手を伸ばす。
随分と簡単に引き受けるものだ。
カサンドラには、今の説明だけでも十分に難しく聞こえた。
結界の強度に術式の調整値、それに実測された魔力の分散率まであるらしい。
ただ数字を見比べればよいという話ではないのだろう。
何をもって正常とするのかを知らなければ、そもそも異常なのかどうかさえ判断できない。
けれど、シリウスにはそれができる。
教頭も、それを知っているから頼んでいるのだろうし。
それが生徒の仕事なのかは判断しかねるが、少なくとも教頭にとってシリウスは随分都合の良い…いや、頼りになる生徒だろうなとも思う。
差し出された数枚の紙面にシリウスの指が触れる寸前、王子が静かに口を挟んだ。
「待ってください。
シリウスは今日、外せない予定があります。
私が代わりに確認しますよ」
「アーサー!」
シリウスがすぐに横を向いた。
「今日は多少遅れても、補佐官に事情を話せば済むけれど。
…君は違うよね?
エリック卿に呼ばれていると言っていたし」
だがシリウスは淡々と王子の申し出を拒絶する。
「構わなくて結構、頼まれたのは私だ。
アーサーは先に行けばいいだろう。
問題ない、すぐに終わらせる」
突然目の前で仕事の奪い合いが始まり、教頭が戸惑ったように書類を抱え直した。
「エルディム君は術式の解析に長けていると聞いていたので、彼に頼もうと思ったのです。
王子まで、こうした照合作業をなさるとは思っておらず……
ええと、専門的なお話ですし、ここは――」
その瞬間、シリウスの声音が僅かに変わった。
背後からでは見えないが、きっと黒い双眸がすっと細められたことだろう。
「教頭。
まさかアーサーが、この程度の照合もできないとでも?」
声を荒らげたわけではない。
けれど、いつもより一段低くなった声には、はっきりとした不快感が滲んでいた。
教頭が目を瞬く。
「いや、そういう意味では――エルディム君?」
「アーサーは術式の基礎など理解している。
魔力値の分析にも精通しているし、この程度の照合で困ることはない」
「では今回は私が引き受けても大丈夫だね、シリウス」
王子が穏やかに名前を呼んだ。
そこでようやく、シリウスも自分が何を言ったのか気づいたらしい。
ほんの僅かに眉間へ皺が寄る。
「………。」
今、自分で王子へ仕事を回す決定打を放った。
王子はできる、と言い切ったのだ。
カサンドラにも、それくらいは分かった。
「では……王子にお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
王子は変わらず柔らかな笑みを浮かべ、差し出された数枚の紙を受け取った。
「異常のある箇所に印を付けること自体は可能ですが…
…実技棟まで確認に行ってもいいですか?」
「そこまでご足労いただくわけには!」
教頭は悲鳴を押し殺し損ね、声を上ずらせた。
「ジェイクのような馬鹿魔力を持つ生徒が他にいないとも限らない。
確認は必要だろうな。
ん?
…いや、まさか今日、アイツが実技をとっていたなんてことはないだろうな?
そのせいで結界に異常が?」
「大丈夫、ジェイクは魔法実技の講座に参加できないよう学園長に話を通しているから」
王子は軽く微笑み、シリウスの懸念を払しょくする。
「……そうか……
……。
…――剣術講座を出禁にされた意趣返しか?」
「はは、そこまで狭量なつもりはないよ。
君も反対していただろう?」
「合理的判断だ」
シリウスの憮然とした声が廊下に響き渡る。
きっと眼鏡の位置を指先で直しているに違いない。
教頭はほっとしたように頷いた。
「エルディム君は、今日は予定を優先しなさい」
そして、教頭はコホンと咳ばらいを一つ。
「――宰相閣下に、宜しく伝えて欲しい」
「……分かった。
宰相の機嫌が良さそうなら、善処しよう」
ものすごく嫌そうなシリウスの低音に、うすら寒さを感じる。
まるで苦虫をかみつぶしたような顔をしていることだろう。
「それでは、また明日」
王子は軽く手を振り、教頭と一緒に立ち去る。
嫌な顔の一つもせず、自分にできることは率先して行う態度はまさに上司の鑑…!
「――してやられたか。
しょうがない」
シリウスは軽く嘆息をついた後、再び玄関ホールへ向かって歩き始めた。
カサンドラはほんの少しだけ、シリウスが羨ましかった。
仕事を代わってもらったことではない。
あんなふうに、当たり前のように気を遣ってもらえて、分かり合える関係であることが羨ましい。
王家と御三家であれば、互いに踏み込めないことも多いのだろう。
けれど、踏み込まないことと、知らないことは同じではない。
二人はずっと以前からの友人なのだから、考えてみれば当然だ。
婚約して半年ほどのカサンドラとは、積み上げてきた時間が違う。
しかも、その半年の間、姿を見ることさえ叶わなかったカサンドラとは次元が違うと言える。
「カサンドラ様」
デイジーの声に、カサンドラは前方から視線を戻した。
「そろそろ参りましょうか」
「……ええ、そうですね」
選択講義の掲示は、とっくに確認し終えている。
随分長く立ち止まってしまった。
けれど、デイジーはそのことについて何も言わない。
だが、彼女のおかげで興味深いやりとりを間近で聞けてちょっと得をしてしまった。
「王子はお友達想いで、お優しい方ですね」
デイジーがぽつりとそうつぶやき、カサンドラはそれを控えめに肯定する。
そうでしょう、そうでしょうとも!!
本当ならデイジーの方に身を乗り出して語り合いたい衝動を必死に抑え、澄ました顔を試みる。
やがて大きな玄関扉を抜け、馬車寄せへ出る。
夕方の光が広い石畳を照らし、迎えの馬車が何台も並んでいた。
先を歩いていたシリウスは、王城へ向かう馬車の前で立ち止まる。
少し遅れて、レンドール家の紋章を付けた馬車も見えてきた。
「カサンドラ様、お迎えが参りました」
「ええ」
カサンドラは足を止めた。
「デイジーさん、今日はありがとうございます」
「いいえ。
こちらこそ、ご一緒させていただいて嬉しかったです」
デイジーは、いつも通り穏やかに微笑んでいる。
何も訊かない。
廊下で歩調が遅くなったことも、掲示板の前で必要以上に長く立ち止まっていたことも。
どこまで気づいているのかは分からない。
けれど、デイジーはごく自然に足を止め、あれ以上何も訊かなかった。
――今はその優しさに甘えておこう。
心残りは、「わたくしが代わりにします」と申し出ることができなかったことだ。
そうすれば王子の役に立つし、見直してもらえたかもしれないのに。
魔法関係は、本当にさっぱり分からない。
…別体系の言語かと思った…。




