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第2話 未来が見えない


「姉上。姉上、そろそろ起きてください」


 聞き慣れた声に呼ばれ、カサンドラはゆっくりと瞼を開いた。

 分厚いカーテンの隙間から朝の光が差し込み、天蓋から垂れた薄い布を淡く照らしている。

 その向こうに銀色の髪をした少年の姿を見つけたものの、寝起きの頭では、何故アレクが自分の寝室にいるのかすぐには理解できなかった。


 朝日を受けて輝く銀髪に、整った目鼻立ち。

 まだ十歳らしい幼さを残しながらも、細身で華奢な体つきと相まって、黙っていれば精巧な人形のように見える少年である。

 もっとも、こちらを見下ろす蒼い双眸には呆れの色が浮かんでおり、口を開けば年齢の割に随分と達者なのだから――人形とは程遠い。


 カサンドラは何度か瞬きを繰り返し、それからようやく今日が何の日だったのかを思い出した。


「……! 今、何時ですか!?」


 全身から血の気が引く思いで飛び起きると、肩まで掛かっていた寝具が膝の上へ滑り落ちた。


「ようやく起きましたね」


 アレクの呆れた声を聞きながら、カサンドラは昨晩の自分を思い返していた。

 今日が楽しみでなかなか寝付けず、明日は早起きして朝食をきちんと済ませ、余裕を持って家を出ようと散々考えていたはずなのに。

 肝心の当日になって寝坊するとは一体何をしているのだ。


「大丈夫ですよ。

 寝坊と言っても、まだ十分間に合います。

 侍女達が何度声を掛けても起きず困っているようでしたので、僕が代わりに」


 まだ完全に思考が働かず、カサンドラは呆然としたまま弟を見上げた。


「どうして誰も起こしてくださらなかったの?」


「侍女が無理に起こしたら、姉上の怒りを買うじゃないですか。

 ……姉上(あなた)を起こすという朝の用事が増えた僕を憐れんでほしいくらいです」


「それなら最初からそう言ってください。

 心臓が止まるかと思いました」


「起きて早々文句を言う元気があるなら、大丈夫ですね」


 アレクが小さく肩を竦める。

 十歳の弟にそのような言い方をされるのは少々腹立たしいが、今日ばかりは言い返している暇も惜しい。


 何しろ今日は、王立学園の入学式なのだ。

 王族や高位貴族の子弟だけでなく、入学試験によって選ばれた優秀な生徒も通う、この国で最も格式の高い学び舎。

 カサンドラ自身、入学が決まってからというもの、今日という日をずっと待ち遠しく思っていた。


「ああ、本当に嬉しい……!

 今日から王子も同じ学園に通われるのですもの!」


 思わず口元が緩むと、アレクが露骨に呆れ顔になった。

 それでも元が美少年ゆえか、かなり様になっている。


「またそれですか」


「何です、その言い方は」


「昨日だけで何度聞いたと思っているんです?

 王子と同じ学園、王子と同じ学年、これからは今までよりお会い出来る機会が増える、と」


「本当のことではありませんか」


「はいはい」


「アレク」


 ぞんざいな返事をする弟へ睨むような視線を送ったものの、怒りなど長くは続かなかった。

 侍女達に促されて鏡台の前へ座り、慌ただしく始まった身支度に身を任せている間も、カサンドラの意識は今日この後のことへ向かってしまう。


 この国の王子と自分は、正式な婚約者である。

 それなのに、これまでまともに言葉を交わしたことはほとんどなかった。

 半年前に婚約が決まってからも、互いの顔を見る機会すら少なく、婚約者という肩書きばかりが先行しているような状態なのだ。

 そもそも、舞踏会で一目惚れした王子と婚約できただけでも夢のような話だったのに、今度は同じ学園へ通えるようになるなんて。

 二人きりでゆっくり話した経験もなく、好きなものも嫌いなものも、どんなことで笑う人なのかさえよく知らない。

 婚約者と呼ばれているにもかかわらず、今の二人の距離はあまりにも遠かった。


 だからこそ、これから三年間も同じ場所へ通えるということを心待ちにしていたのだ。

 毎日顔を合わせる機会があれば、これまでよりずっと親しくなれるだろうし、いずれ自分は彼の妻となるのだから、今から少しずつ互いを知っていくのは悪いことではないはずだ。


 そう考えると、自然と背筋が伸びた。

 気合を入れて身支度を整えなければならない。


 鏡に映る自分は、長い金の髪に翡翠色の瞳を持つ、少々棘のある整った顔立ちをしている。

 決して嫌いな容姿ではないものの、釣り目がちなので第一印象が宜しくないのが玉に瑕だった。


「そちらではありません。その髪留めは昨日も使いましたでしょう。今日は白い石の方を」


「かしこまりました」


「それから編み込みはもう少し上から始めてください。折角の入学式なのですから、普段と全く同じではつまらないでしょう」


「はい、お嬢様」


 鏡越しに見える侍女は、朝から細かな注文を付けられて少し緊張しているようだったが、今日くらいは仕方がない。

 王立学園への入学は一度きりなのだ。

 まして今日は、殿下と初めて同じ制服を着て、同じ学園の生徒として顔を合わせる日でもある。

 出来るだけ完璧な状態でいたいと思うのは当然ではないか。


「姉上、本当に王子のことになると分かりやすいですね」


 いつの間にか扉の近くまで移動していたアレクが、面白そうに笑った。


「あら、アレク。まだそこにいたのです?」


「起こしてあげた弟に随分な言い草では?」


「起こしていただいたことについては感謝しております。ですが、淑女(レディ)の支度をいつまでも眺めているのは失礼でしょう」


「はいはい。僕は、ご機嫌な姉上の学園生活が無事に始まることを祈っていますよ」


 最後まで余計な一言を残し、アレクは部屋を出て行った。

 扉が閉まるのを見届けたカサンドラは、鏡の中の自分を見つめて小さく息を吐いた。

 機嫌が良いことくらい、自分でも分かっている。

 今日から新しい生活が始まるというだけでも十分楽しみなのに、その先には王子との未来まで続いているのだから、浮かれるなという方が無理な話だった。


 ※


 王都の街は、朝から多くの馬車と人で賑わっていた。

 石畳の大通りを、レンドール侯爵家の紋章を掲げた馬車がゆっくりと進んでいく。

 窓の外には白い石壁の建物が軒を連ね、一階部分に店を構える商家では、既に店員達が通りへ商品を並べ始めていた。


 焼きたてのパンを積んだ荷車が行き交い、道端では花売りの少女が通行人へ声を掛けている。

 噴水の周囲を走り回る小さな子供達の向こうには、王都のどこからでも見える王城の尖塔が、澄んだ青空を背景に高くそびえていた。


 カサンドラはそんな街並みを眺めながら、膝の上に置いた手を何度も組み直していた。


 なんだかすごく緊張する…


 今までとは違う環境へ飛び込む初日なのだから、どれほど楽しみにしていたとしても、多少落ち着かなくなるのは不思議なことではない。


 そう考えていたのだけれど。


「……あら?」


 先程から、どうにも妙な気分だった。

 胸騒ぎというほど大袈裟なものではない。

 ただ、何かを忘れているような、喉元まで出かかった名前をどうしても思い出せない時に似た、奇妙なもどかしさがあった。


 もちろん、王都の街並みに見覚えがあること自体は不思議ではない。

 別邸から王立学園へ向かう道は以前にも通ったことがあるし、入学試験を受けるために一度学園を訪れているのだから、目的地への道順もある程度は覚えていた。

 けれど、今日感じている既視感はそれとは少し違っていた。


 大通りを左へ曲がれば小さな広場があり、その先を右へ進むと、建物の向こうに王立学園の時計塔が見えてくる。

 そんな光景が頭に浮かんだ直後、馬車は実際に左へ曲がり、記憶の通りに広場が見えてきた。


「…………」


 カサンドラは思わず形の良い眉を寄せた。

 道順を覚えているだけなら、何もおかしくはない。

 実際、以前にもこの道を通っているのだから、先の景色を予想できたところで不思議はないはずだ。


 しかし、彼女が思い浮かべたのは、馬車の窓から眺める街並みとは少し異なる景色だった。

 まるで街全体を少し離れた場所から眺めているような、妙に平たく切り取られた光景。

 そこには、建物の形や並び方だけでなく、道を歩く人々の姿までが一枚の絵のように収まっていた。


「何……でしょう。不思議な気持ち……」


 気にし過ぎだろうか。

 今日は朝から浮かれていた分、緊張も強いのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせているうちに、建物の隙間から王立学園の時計塔が見え始めた。


 白い石で造られた広大な校舎に、青みを帯びた屋根。

 正面の鉄製の大門は既に開かれており、その左右に建つ石柱には国章と学園の紋章が並んで刻まれている。

 門前には新入生を乗せた馬車が次々と到着し、制服姿の少年少女が家族や使用人に見送られながら敷地へ入っていくところだった。


 その光景を目にした途端、それまで感じていた奇妙な違和感は、入学式を迎える喜びに押し流されてしまった。

 いよいよだ。


 馬車が止まり、従者によって扉が開かれると、カサンドラはスカートの裾を整えて鞄を取り、差し出された手を借りて地面へ降り立った。

 朝の空気はまだ少し冷たかったが、門の向こうに広がる学園を眺めているだけで、自然と胸が高鳴ってくる。

 入学試験の時にもこの門をくぐったけれど、あの日と今日では気持ちがまるで違う。

 今日からは、ここが自分の通う学園になるのだ。

 カサンドラは大きく息を吸い込み、期待に胸を膨らませながら門をくぐった。


 その瞬間だった。

 目の前の景色が、一瞬だけ違うものに見えた。


「……え?」


 思わず足が止まる。

 中央へ延びる石畳の道に、綺麗に手入れされた並木。

 その奥に見える噴水と、白い校舎へ続く階段は、入学試験の日にも目にしたものだった。


 しかし、カサンドラが戸惑ったのは、その配置を覚えていたからではない。

 目の前に広がる景色と、頭の中に浮かんだ光景が、奇妙なほどぴたりと重なっていたのである。

 石畳の道を正面から見た構図も、並木の向こうに見える校舎の角度も、以前どこかで眺めた一枚の絵と全く同じだった。


 しかも、その絵には続きがある。

 季節が変われば花が咲き、夕方になれば校舎の壁が茜色に染まる。

 雨の日には石畳が濡れ、夜になれば窓から漏れる明かりが庭園を照らし出す。

 そんな光景を、自分は確かに知っている。

 けれど、入学試験で訪れたのはたった一日だけだ。

 まして季節や時間帯ごとに学園の景色を眺めた記憶などあるはずがない。


 ――いえ、そんな話じゃすまないのですけど!

 ――どうして?


 私……この景色を何度も見た?


 どこで見たのか、何故知っているのか。

 考えても答えは浮かばないというのに、頭の中には四角く切り取られた学園の景色がはっきりと浮かび、その下へ文字を書き込むための枠まで重なり始めた。


 まるで絵の中に、誰かの言葉を表示するための窓が開いているような、不自然な光景だった。


「…………?」


 何なのだ、これは。


 思わず目を擦ってみたものの、奇妙な感覚は消えてくれない。

 立ち止まったカサンドラの横を他の新入生達が次々と通り過ぎていくので、いつまでもここにいては邪魔になるだろう。

 そう思って一歩踏み出そうとした時、自分より少し遅れて門をくぐってくる三人の男子生徒が目に入った。


 最初に目についたのは、周囲より頭一つ高い赤髪の青年だった。

 制服の上からでも分かる鍛えられた体格に、隙のない歩き方。

 見間違えようもないその姿を認めた途端、カサンドラの脳裏に自然と名前が浮かんだ。


 あ、ジェイクだ。

 隣を歩くのは、肩より長い金色の髪を一つに括ったラルフ。

 そして反対側には、眼鏡を掛けた黒髪のシリウスがいる。


 それぞれ一度くらいは社交の場で顔を合わせたことがある、顔を知っているのは当然だ。

 王子と親しいことも周知の事実なのだから、彼らを見て驚く理由などない。


 それなのに、三人の姿を目にした瞬間、ぞわりと背筋が冷えた。


 不意に周囲の景色が遠のき、代わりに煌びやかな照明に照らされた広い会場が脳裏に広がった。



 大勢の人々がざわめく中、今より少し成長した三人が、まるで逃げ道を塞ぐかのように自分を取り囲んでいる。

 ジェイクは厳しい眼差しでこちらを見据え、シリウスが冷静な声で何かを告げていた。

 普段は柔らかな表情を崩さないラルフまでもが、凍り付くような視線を向けている。


 『レンドール侯爵家長女、カサンドラ・レンドール』


 自分の名前が呼ばれた。


 『王子の婚約者という立場にありながら――』


 告げられる言葉の全てを聞き取ることは出来なかったが、不思議なことに、何を責められているのかは分かってしまった。


 主人公への度重なる嫌がらせや、彼らに対する不誠実な振る舞い。

 衆人環視の中で次々と罪を並べ立てられた末、カサンドラは王子との婚約を失い、学園から追放されるのである。



 そして最後に、シリウスがこちらを指して宣言した。


 ――カサンドラ。

 貴様を学園から追放する。何処へなりとも出て行くがいい!


  だ、だだだ…

  断罪イベント――ッ!?



「…………っ」



 突然息が詰まり、カサンドラはその場に立ち尽くした。

 次の瞬間には周囲の景色が元に戻っていたものの、足元が凍り付いてしまったかのように、身体が言うことを聞かなかった。


 何だったのだ、今の光景は。

 自分はまだ入学式さえ迎えていないのだから、あんな場面を実際に経験したはずがない。

 それなのに、あの場所で何が起こるのか、誰がどんな表情で自分を責めるのかまで、何故か知っている。


 あれは夢ではない。

 そう――イベントスチルだ!

 突然頭に浮かんだのは、今まで一度も耳にした覚えのない、奇妙な言葉だった。


「……イベント、スチル?」


 聞き慣れないはずの単語なのに、口に出した途端、その意味が分かってしまった。


 それをきっかけに、奥底へ押し込められていた大量の記憶が、堰を切ったように頭の中へ流れ込んできたのだ。


 見たこともないほど高い建物が並ぶ街並みや、朝の満員電車に揺られる人々。

 会社の机に向かって仕事をする自分の姿に、仕事帰りに立ち寄った店で買った発泡酒を片手に、一人暮らしの部屋でテレビの前へ座っている光景まで、次々と蘇ってくる。


 そして、そのテレビ画面に映っていたのは、今自分が立っている王立学園だった。

 つい昨夜まで遊んでいたゲームのタイトルを思い出した途端、そこに登場する人物達の名前や物語の内容までもが、一斉に頭の中へ押し寄せた。


 ジェイク、ラルフ、シリウス。

 アーサー王子。

 そして、悪役令嬢カサンドラ・レンドール。


「……嘘」


 喉から掠れた声が漏れた。

 何故、今まで忘れていたのだろう。

 いや、忘れていたということすら、今思い出すまで分からなかった。


 自分は前原香織という名前だった。

 二十九歳の会社員で、一人暮らしをしながら、仕事の合間にゲームを楽しんでいた。

 昨日もいつものようにテレビの前へ座り、乙女ゲームを遊んでいたはずだ。

 数日掛けてコンプしたゲーム、まだ記憶に新しい。

 物語の最後には、悪魔となった王子を聖女が倒す場面を見た。


 そして、最後に聞こえた声。



 『タスケテ』



 え、何?

 どういうこと?

 カサンドラって、主人公の邪魔をする悪役のお嬢様よね?

 ……それが……私!?



 急激に蘇った記憶に眩暈を覚え、カサンドラはその場で何とか踏みとどまった。

 そんなものを一度に思い出されても、頭が追いつくわけがない。

 前原香織として二十九年間を過ごしてきた記憶は、昨日までの出来事のように鮮明だった。


 しかし、それと同じくらい、カサンドラ・レンドールとして十五年間生きてきた記憶も確かなものとして残っている。

 今朝アレクに起こされて腹を立てたことも、入学式を心待ちにしていたことも、王子のことを考えるだけで嬉しくなってしまう気持ちも、全て自分自身の感情なのだ。


 それなのに、全く別の場所で二十九年間を生きた人間の記憶が、何の前触れもなく同じ頭の中に入り込んできた。

 しかも、その記憶によれば、ここは自分が遊んでいたゲームの世界だという。

 王都も、王立学園も、目の前にいる三人の男子生徒も、今の自分にとっては全て見覚えのあるものだった。


 そして何より、自分自身がその物語の登場人物なのである。


「わたくしは、カサンドラ・レンドール……」


 改めて自分の名前を口にした途端、胃の奥がひっくり返りそうになった。


 カサンドラ・レンドールは、ゲームに登場するアーサー王子の婚約者だ。

 主人公の恋愛を邪魔する悪役令嬢であり、最後には三人の攻略対象から断罪され、王都を追われる運命にある。


 先程脳裏に浮かんだ光景も、未来を予知したわけではなかった。

 知っていたのだ。

 プレイヤーとして、画面の向こうから何度も見たじゃないか!


 え? 私が、カサンドラ?

 あの高慢ちきな令嬢が?

 最後には追放される、あのカサンドラが?

 今の自分?


 考えれば考えるほど絶望的な状況に思えて、カサンドラの顔からみるみる血の気が引いていった。


「カサンドラ?」


 不意に名前を呼ばれ、カサンドラはびくりと肩を震わせた。

 声の主はラルフだった。

 穏やかな口調こそ普段と変わらなかったものの、こちらを見る赤い瞳には、純粋な心配とは少し違う色が混じっているようにも見える。


「随分顔色が悪いようだけど」


「ご、ごきげんよう、ラルフ様。御心配には及びません。

 少し緊張してしまっただけです」


 何とか淑女らしい挨拶を返したものの、その説明には自分でも無理があると思っていた。

 案の定、隣に立っていたジェイクが怪訝そうに眉を寄せる。


「お前が? ……緊張!?」


「そのおっしゃりようは……」


 あまりにも失礼では?

 反射的にいつもの調子で言い返しかけたものの、先程脳裏をよぎった光景が邪魔をして、その先が続かなかった。


 大勢の前で自分を糾弾する三人の姿が、今こうして目の前にいる彼らと重なって見えてしまう。


「いえ。

 ……失礼しました。少し考え事をしていただけです」


 口を閉ざしたカサンドラを見て、ジェイクの表情が今度こそ明らかに変わった。


「え、それだけ?」


「……?」


「いや。何でもねぇ」


 何でもないと言いながら、全く何でもない顔ではない。

 むしろ、薄気味悪いものを見てしまったかのような表情なのだが!?


 何だか、すごく座りが悪い。

 そんな気まずい空気を断ち切るように、シリウスの低い声が響いた。


「ジェイク。

 アーサーと学園側の打ち合わせも終わった頃だろう。私達も応接室まで行くぞ」


「お、おう……。そうだな」


 ジェイクは釈然としない様子で後頭部へ片手を当て、そのままくるりと背を向けた。

 こちらとしても全く釈然としないのだが、今はそれどころではない。


 こっちの方が大混乱中だわ!


 その隣で、シリウスは眼鏡の位置を直しながらカサンドラをじっと見つめていた。

 まるで何かを観察しているような、不躾な視線だった。

 どうにも居心地が悪くなってきた頃、彼は何も言わないまま視線を外し、ジェイクの後を追って歩き始めた。

 友好的な態度ではないことだけは明らかである。


 つい昨日までゲームの画面越しに眺めていた、主人公へ向けるあの極上の微笑みは一体何だったのだろう。


 ……整った顔立ちなのに、なんて仏頂面なのだ。

 勿体ない。

 そんなことを考えていると、二人とは違ってまだその場に残っていたラルフが、改めてこちらへ声を掛けてきた。


「カサンドラ。体調が優れないなら、式を欠席してもいいと思うよ」


 ラルフは貴公子然とした綺麗な笑顔で微笑んでいる。


 しかし、その穏やかな言葉の裏には、彼女が式に出ようが出まいが構わないという、どこか突き放した感情も見え隠れしている気がしてならない。

 被害妄想か?


「……お気遣い、痛み入ります」


 今は余計なことを口にする気力もなく、カサンドラは礼を述べるに留めた。


 三人が去っていくのを見送ると、改めて周囲を見渡したが、王立学園の景色は先程までと何一つ変わっていなかった。

 新入生達は楽しそうに言葉を交わしながら校舎へ向かい、少し離れた場所では教師らしい人物が案内をしている。

 誰もが普段通りに振る舞っているというのに、自分一人だけが、とんでもない事態に巻き込まれてしまったらしい。


 彼らを目の前にした瞬間、脳裏へ広がった光景は何だったのだろう。

 いや、もう分かっている。

 あれは、ゲームに登場する断罪イベントの一場面だった。

 卒業を迎える頃、自分はあの三人から罪を糾弾され、王子との婚約を失った挙げ句、この学園から追放されるのである。

 それが、ゲームの物語におけるカサンドラ・レンドールの未来だった。


 ……いや、ちょっと待って?

 もっと重要なことに気づいてしまい、全身総毛立つ。

 カサンドラが追放された後も、ゲームの物語は終わらないのだ。


 アーサー王子!

 その名前を思い出した途端、胸の奥が一気に冷えた。

 今朝までの自分は、今日彼に会えることが嬉しくて仕方がなかった。

 婚約者だというのにほとんど会話をしたことがなく、学園へ入ればようやく少しずつ距離を縮められるかもしれないと、心から楽しみにしていたのだ。


 その気持ちは、今もなくなっていない。

 なくなるわけがない。

 王子に一目惚れしてから今日までの想いも、カサンドラとして生きてきた十五年間の記憶も、全て自分自身のものなのだから。


 けれど同時に、プレイヤーだった自分は知っている。

 その人が最後にどうなるのか。

 婚約者は、物語の終盤で悪魔となり、聖女に斃されてしまうのだ。


「……嘘……でしょう……?」


 一体何度自分の記憶を否定しただろう。


 思わず漏れた声は、幸い周囲の誰にも聞こえなかったようだった。

 どうか嘘であってほしい。

 何もかも!


 このまま物語が進めば、自分は卒業時に学園から追放され、王子との婚約も失う。

 しかも、その後には愛する婚約者が悪魔になり、最後には聖女に倒されるという結末まで待っているのだ。


 そして今日は、その全ての始まりとなる王立学園の入学式。

 まだ三年間もあるのだから、何とかできると考えるべきなのか。

 それとも、既にゲームが始まってしまった以上、もう逃げられないと考えるべきなのか。


 どちらにしても、何一つ笑えない。

 つい先程まで輝かしい未来が待っていると信じていたのに、今や足元が音を立てて崩れ落ちていくような気分だった。


 え、ええええ……?

 私に一体、どうしろと!?

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