第18話 王子との時間
一頁、二頁と読み進めるうちに、カサンドラの視線が中庭の入口へ向かう回数は少しずつ減っていった。
王子を待っていることに変わりはない。
けれど、ただ落ち着かないまま時間を潰すより、今のうちに調べられることを調べておいた方がいい。
膝の上に開いているのは、図書室で借りていた西方大陸の歴史書だった。
目当てはもちろん、百五十年前に現れたという悪魔についてだ。
現在のクローレス王国が西方大陸のほぼ全域を治めるようになったのは、今からおよそ百五十年前。
それ以前の西方には大小さまざまな国や勢力が存在し、それぞれが領土や資源を巡って争いを繰り返していたという。
だが、そんな混乱を極めた西方大陸を更なる災厄――悪魔が襲ったのだ。
どこから現れたのかは分からない。
ただ、その存在は人の軍勢では到底抗えないほど強大で、悪魔がもたらす瘴気と魔物によって西方各地は甚大な被害を受けた。
国境も身分も関係なく、人々は等しくその脅威に晒されたという。
そんな中、一人の少女が女神ヴァーディアから力を授かり、聖女として立ち上がる。
後に聖女アンナと呼ばれる彼女は、人々を守るために悪魔へ立ち向かい、ついには大陸に平和をもたらしたのだ。
悪魔の脅威から救われた西方諸国は、聖女アンナの庇護を求めて次々と彼女のもとへ集った。
長く互いに争っていた国々も聖女の名の下に手を取り合い、西方大陸は一つの王国としてまとまっていく。
こうして西方諸国はクローレス王国のもとにまとまり、現在の広大な版図が形作られたのである。
カサンドラはそこで頁を捲る手を止めた。
……やっぱり、この本にも同じことしか書いていない。
大筋は、カサンドラ自身がもともと知っていた歴史と変わらない。
ゲームの中でも聖女アンナの逸話は何度か語られていたし、この国で彼女の名を知らない者はいない。
今も女神ヴァーディアを奉じ、聖女アンナを崇敬する教団は国内で大きな影響力を持っている。
けれど、カサンドラが知りたいのはそこではない。
悪魔とはそもそも何なのか。
そして何故、人間であるはずの王子が三年後には悪魔となってしまうのか。
ゲームで分かっているのは、最後に王子が悪魔となり、聖女に倒されることだけだ。
そこへ至る過程は、驚くほど曖昧だった。
百五十年前に聖アンナが退けた悪魔と、三年後の王子に何らかの関係があるのだろうか。
もしそうなら、その手掛かりくらい歴史の中に残っていてもよさそうなものなのに。
聖女が悪魔を倒せるなんて話は、既に知っている。
おとぎ話や英雄譚、様々な形で語り継がれてきたのだから。
だが、肝心な部分になると、どの本も驚くほど曖昧になる。
『聖なる力によって悪魔を退けた』
『女神の加護により悪魔は倒された』
書き方は違っていても、結局はそこまでだ。
これまで目を通した他の本も、今日読んでいるこの本も、説明されている範囲はほとんど同じだった。
ゲームで分かっているのは、三年後に王子が悪魔となることだけだ。
実際にその姿で主人公達の前に立ちはだかる場面はあった。
けれど、人間であるはずの王子が何故あの姿になったのか、その過程についてはほとんど描かれていない。
……どういうことなの。
百五十年前の出来事なのだから、詳しい記録が残っていない可能性もある。
あるいは、悪魔を呼び戻す手掛かりになるような情報を一般向けの本へ載せる方が危険なのかもしれない。
もし本当にそんな方法が実在するのなら、誰でも読める歴史書へ堂々と書いておくはずがないのだし。
その事情は分かるのだけれど、カサンドラにとっては大変困る。
王子がどうやって悪魔へ辿り着いたのか分からないままでは、止めようにも止めようがない。
三年後に起こることだけ知っていて、そこまでの過程が丸ごと抜け落ちているのだから、攻略本の途中だけ何十頁も破り取られているようなものだった。
カサンドラは小さく息を吐き、さらに先を読み進める。
悪魔についての記述が途切れると、その後は西方統一以前の各地についての記録へ移っていった。
こちらは悪魔の説明よりも遥かに細かい。
ある小国が隣国の侵攻を防ぐために三国と同盟を結んだ話。
広大な土地を手に入れた王がさらに領土を求めて戦を仕掛け、逆に周囲の国々から包囲された話。
一度は同盟を結んだ国同士が、勝利した直後の領地分配で揉めて再び争い始めた話。
人間、百五十年前でもやっていることはあまり変わらないらしい。
そう思いながら読んでいると、今度は別の箇所が目に留まった。
統一以前の南方には、現在のレンドール領に当たる地域を治めていた有力な一族がいたという。
名称は今とは多少違うが、記されている紋章の特徴はレンドール家のものとよく似ている。
ということは、もしかするとレンドール家そのものの歴史は、現在の王国よりも古いのではないだろうか。
では、他の貴族家もそれぞれ統一以前から異なる歴史を持っているのだろうか。
そんなことまで考え始めたところで、カサンドラははっと顔を上げた。
……私は一体、何を調べているのだろう。
悪魔を調べていたはずなのに、いつの間にか貴族家の系譜に興味が移っている。
本筋から横道へ逸れやすいのは、前世から変わらない悪い癖らしい。
誰もいない中庭で一つ咳払いをし、気を取り直して頁を閉じかける。
そこでようやく、空の色が先ほどよりも傾いていることに気づいた。
木々の間から差し込んでいた明るい午後の日差しは、いつの間にか橙色を帯びている。
中庭を横切る影も長く伸び、校舎の向こうから聞こえていた生徒達の声も随分少なくなっていた。
カサンドラは慌てて時計を確認した。
手紙に記した時刻を、もうかなり過ぎている。
歴史書へ夢中になっている間は忘れていた不安が、一気に胸の奥へ戻ってきた。
……王子は、来ないのだろうか。
手紙には気づいてくれたと思っていた。
生徒会室にある王子の机へ直接置いたのだから、見落とす可能性はそう高くないはずだ。
けれど、手紙には返事は要らないと書いた。
都合が悪ければ気にしなくていいとも書いた。
つまり来なかったとしても、王子は何も悪くない。
自分が勝手に期待して、勝手に待っているだけなのだ。
頭ではそう分かっているのに、胸の中は理屈通りには動いてくれなかった。
「……王子……」
小さく漏れた声は、誰もいない中庭へ溶けていく。
カサンドラは本を閉じ、膝の上へ置いた。
ここまで待って来ないのなら、今日は諦めた方がいいのかもしれない。
明日また声を掛ければいい。
それが難しければ、次の手紙を書けばいい。
そう考えるほど、何とも言えない寂しさが込み上げてきた。
ゲームでは王子の未来を知っている。
三年後、彼が悪魔となり、国の敵として倒されることも知っている。
だから何とかしなければと思っているのに、現実では二人きりで話をすることさえ、こんなにも難しい。
彼の未来を変えたいのに、彼が何を考えているのかも知らない。
どうしてあの結末へ辿り着くのかを知る以前に、自分は王子の日常にすら入れていない。
それが思った以上に堪えた。
リゼ達のことなら、いくらでも攻略方法を思い出せる。
ジェイクが何を好み、ラルフがどんな場所へ行き、シリウスが何を評価するのかも分かる。
けれど自分の婚約者についてだけは、何も分からない。
カサンドラは膝の上の本を抱え、ゆっくり立ち上がろうとした。
「……もう帰ったのかと思ったよ」
すぐ横から声がして、危うく本を落としかけた。
喉まで出かかった悲鳴をどうにか飲み込み、勢いよく振り返る。
「お、王子……?」
中庭の入口から少し外れた場所に、王子が立っていた。
傾いた陽を受けた明るい金髪が、まるで薄く光を纏ったように輝いている。
端正な額から通った鼻筋、形の整った唇まで、夕暮れの陰影がその造作をくっきりと浮かび上がらせていた。
澄んだ青い瞳がこちらを向いた瞬間、カサンドラは思わず息を止める。
毎日のように顔を合わせているはずなのに、こんなにも綺麗な人だっただろうか。
いつもの制服姿で、何一つ特別な格好をしているわけでもない。
それなのに、誰もいない夕暮れの中庭に一人立つ王子は、目を疑うほど絵になっていた。
何より、彼の右手に見覚えのある封筒があって、心臓が止まりそうだ。
カサンドラが今朝、生徒会室の机へ置いたものではないか。
「遅くなってしまって、申し訳ない。
あまり時間は取れないのだけれど……まだ大丈夫かな?」
「も、勿論でございます!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
慌てて本を胸元へ抱え直し、カサンドラは深く礼をする。
「こちらこそ、わたくしの都合でお呼び立てしてしまい、申し訳ございません。
こうしてお越しいただけただけでも、本当に……」
言いながら、胸の奥がじわりと温かくなる。
来てくれた。
手紙を無視されたわけではなかった。
それだけで、先ほどまでの沈んだ気持ちが嘘のように軽くなった。
「そんなに畏まらなくても大丈夫だよ。
手紙には、少し話がしたいと書いてあったね」
王子は手にしていた封筒へ一度視線を落とし、穏やかに微笑んだ。
「用件を聞いても?」
「はい……」
いざ本人を目の前にすると、用意していたはずの言葉がどこかへ飛んでいきそうになる。
昼食でも顔を合わせた。
教室でも姿を見ているし。
朝だって、ほんの短い時間ではあるけれど二人で話したことがある!
それなのに、周囲に誰もいない中庭で、カサンドラのためだけに王子が立っていると思うと、途端に心臓が落ち着かなくなった。
けれど、今日は話すためにここへ来てもらったのだ。
黙って見つめて終わるわけにはいかない。
カサンドラは一度だけ息を整え、王子を見上げた。
「王子。
不躾なことをお尋ねしても、よろしいでしょうか」
「もちろん。
私に答えられることなら」
「わたくしは今も、王子の婚約者であると自負してもよろしいのでしょうか」
言ってしまった。
王子の青い瞳が、ほんの僅かに見開かれる。
やはり妙なことを聞いたのだろうかと不安になった頃、彼は静かに口を開いた。
「もちろん。
正式に結ばれた婚約なのだから、私もそのつもりでいるよ」
あまりにも迷いなく返され、今度はカサンドラの方が戸惑った。
「……そう、でございますよね」
「何か、そう思えない理由があったのかな?」
逆に尋ねられ、言葉に詰まる。
理由なら沢山あるのだが、上手く声にならない。
婚約者なのに、ほとんど話をしたことがない。
学園へ入ってからも、王子の周囲にはいつも誰かがいる。
こちらから近づこうとしても、ほんの僅かな会話で終わってしまう。
自分が勝手に距離を感じているだけだと言われれば、それまでなのかもしれない。
それでも、このまま何も言わなければ、きっと何も変わらない。
「わたくしは……王子とお話がしたいのです」
王子が黙った。
その沈黙に怯みそうになりながらも、カサンドラは続ける。
「何か特別なお話でなくても構いません。
好きな飲み物のお話でも、授業のお話でも……本当に、何でもよいのです。
わたくしは、王子のことをもう少し知りたいと思っています」
言葉にしてしまうと、随分単純な願いだった。
王子の未来を変えたいし、悪魔についても知りたい。
三年後に待つ破滅を防ぐためには、もっと大きなことをしなければならないと思っていた。
けれど今の自分は、王子が食後にコーヒーを好むことを知っただけであれほど嬉しかったのだ。
まずはそんな簡単な一歩からでいいのかもしれない。
「……私の態度で、不安にさせてしまっていたんだね」
王子の声が少し低くなった。
「申し訳ない、カサンドラ嬢。
そんなつもりはなかったんだ」
「い、いえ!
とんでもございません!」
思わず声が裏返った。
まさか謝られるとは思っていなかった。
王子は少し困ったように笑う。
「学園に入れば、もう少し自由な時間が取れると思っていたんだけどね。
予想以上に、呼ばれることが多くて。
生徒会のこともあるし、先生方や上級生と話す機会も少なくない」
「そうなのですね……」
本当の障壁は、彼の傍にいる友人達なのだが。
さすがにそこまで口にするのは憚られ、カサンドラは続く言葉を飲み込んだ。
誰だって、自分の友人を邪魔者扱いされて嬉しいはずがない。
すると、そんな考えを見透かしたわけでもないだろうに、王子がふと苦笑した。
「もしかして――
ジェイク達がいつも私の傍にいることも、気になっているのかな」
「そ、それは…」
思わず顔を上げる。
あまりにも図星だったせいだ。
「彼らには、まだ婚約者が決まっていないだろう?
学園へ入ってからは、女生徒から声を掛けられることも随分増えたらしくてね」
「まあ……」
それはそうだろう。
三人とも御三家の令息で、容姿にも恵まれている。
まだ婚約者がいないとなれば、放っておかれるはずがない。
…というか何もない方がおかしいだろう。
王子は少し困ったように肩を竦めた。
「私の傍にいる間は、さすがに強引に話を持ち掛けられることも少ないらしい。
本人達がそう言ったわけではないけれど……
どうやら私は、随分と都合のいい風除けになっているみたいだね」
カサンドラは思わず目を見開いた。
――王子を風除けにしているの!?
王子をそんな用途に使っていいのだろうか。
いや、よくない気がする。
ものすごくよくない気がする。
けれど王子自身は、本気で腹を立てている様子でもなかった。
「もちろんそれだけの理由ではないよ。
こんな風に大人の目を離れて、彼らと自由に話ができることが私も嬉しいんだ。
そのせいでカサンドラ嬢と話す機会まで減っていたのなら、申し訳ないけれど」
そう言われてしまうと、カサンドラも三人を責める気にはなれない。
本人達に悪気があるわけではないのだろうし、王子もそれを承知で傍にいることを許している。
ただ、一つだけ分かったことがある。
少なくとも、あの三人が王子の周囲へ集まってくるのは、自分への嫌がらせではないらしい。
言われてみれば牽制されているというほど――何かを言われたわけでもない。
むしろ、自分など彼らの眼中にない可能性の方が高い。
ならばこちらも、必要以上に身構えることはないのかも?
「それに何より…」
王子は困ったような表情のまま、苦笑する。
「私自身もカサンドラ嬢に楽しんでもらえるよう話題を提供できる人間ではなくて……ね。
あまり女性と話すのは得意ではないんだ。
魅力的な女性なら、なおさらね」
えええ!?
下手に持ち上げられても鵜呑みにするのは結構難しいです、王子!
社交辞令にしか聞こえません!
でもそうサラリと言われると、こちらも否定することは難しい。
王子はどこか気まずそうに続ける。
「必要な挨拶や公の場での会話なら、もちろん問題はないよ。
でも、こうして私的に何を話せば相手に楽しんでもらえるのかとなると、あまり自信がなくてね」
「……わたくしも、自信はございません」
思わず本音が漏れた。
王子が目を瞬かせる。
「そうなのかな?」
「はい。
今日も、何をお話すればよいのか考えていたはずなのに、王子がいらっしゃった途端に全部分からなくなってしまいました」
そこまで言ってから、さすがに正直すぎただろうかと頬が熱くなる。
けれど王子は笑わなかった。
「それなら、お互い様だね」
ほんの少しだけ、彼の表情が柔らかくなる。
その言葉だけで、カサンドラの肩から力が抜けた。
「王子。
それでしたら、楽しいお話でなくても構いません。
わたくしは、ただ王子とお話する時間が欲しいのです」
王子はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とし、それから中庭の向こうへ目を向ける。
沈黙は長くなかったはずなのに、カサンドラには随分待たされたように感じられた。
「毎回、必ずとは約束出来ないけれど」
ようやく王子がこちらを見る。
「来週も、同じくらいの時間なら少し取れると思う。
それでもいいかな?」
カサンドラは危うく、その場で両手を握り締めて喜びそうになった。
「勿論です!
ありがとうございます!」
今度こそ声が弾んだ。
王子が僅かに目を細める。
「では、また来週。
もし都合が悪くなったら、その時は許してほしい」
「はい。
あの……今朝のように、手紙を置いてもよろしいでしょうか。
お返事はいただかなくても結構ですので」
「構わないよ。
ただ、長い返事は期待しないでくれると助かるかな」
「お返事は本当に不要です!」
勢い込んで答えると、王子が少しだけ笑った。
来週も話せる。
それだけで、先ほどまでの不安が嘘のようだった。
けれど王子が懐中時計を取り出したことで、楽しい時間には終わりが近づいているのだと気づく。
「すまない。
この後、ラルフと寄るところがあってね。
…今日はありがとう、カサンドラ嬢」
「お引き止めしてしまい、申し訳ございません」
「私が遅れて来たのだから、君が謝ることではないよ」
王子はそう言って、手にしていた封筒を上着の内側へしまった。
その仕草を見ながら、カサンドラは改めて思う。
やはり、分からない。
これだけ話してみても、目の前にいる人とゲームの最後に見た王子が結びつかない。
穏やかで、きちんと謝ることが出来て、相手の話を聞いてくれる。
女性との会話が得意ではないと、少し困ったように打ち明ける。
そんな人が、どうして国を敵に回すのだろう。
もちろん、今日少し話しただけで王子の全てを知ったわけではない。
自分が知らない一面など、いくらでもあるはずだ。
それでも、最初から疑ってかかることだけはしたくなかった。
「王子」
立ち去りかけた彼を、カサンドラは呼び止めた。
アーサーが振り返る。
ここで何を言おうとしているのか、自分でも上手く説明は出来ない。
けれど、今だけはどうしても伝えておきたかった。
「わたくしは、王子の婚約者です」
「……うん、そうだね」
「まだ王子のことを、何も知らないと言ってもよいくらいです。
けれど――」
王子は何も言わず、こちらを見ている。
その澄んだ青い瞳を前にすると、胸が強く鳴った。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
「わたくしは王子の味方です!
それを、どうかお忘れにならないでください!」
言い切った瞬間、自分でも少し唐突だったかもしれないと思った。
王子は完全に言葉を失っている。
目を見開いたまま、しばらくカサンドラを見つめていた。
やはり変だっただろうか。
今さら撤回するわけにもいかず、カサンドラの心臓だけが嫌になるほど速くなる。
やがて王子は、いつもの穏やかな表情へ戻った。
「それは心強いね。
ありがとう、カサンドラ嬢」
柔らかな声と笑みに、今度は別の意味で心臓が止まりそうになる。
いや、悪事まで手伝うという意味ではない。
そうならないために、王子を助けるのだ。
カサンドラは心の中で自分へ強く言い聞かせ、改めて礼をした。
「それでは、また来週。
本日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。
気をつけて帰るんだよ」
王子に見送られ、カサンドラは中庭を後にした。
来週も話せる。
王子は手紙を読んでくれた。
そして、自分を婚約者だと認識している。
今日分かったことはほんの僅かだ。
それでも、昨日までよりは確実に一歩進めた気がした。
校舎へ入る直前、カサンドラは一度だけ振り返りそうになった。
けれど何とか堪え、そのまま歩き続ける。
今振り返ったら、きっと顔が緩んでいることまで見られてしまう。
そんなのは、あまりにも恥ずかしい。
※
『婚約者』が静かに中庭から去っていく。
その金髪の後ろ姿が校舎内へ消えたのを確認し、少年は額の髪を掌で掻き上げ、細い吐息を地面へ落とした。
「無理のない程度に避けるというのは――案外、難しいものだね。
だけど、妙だ。
……彼女は知らないはずなのに、何故……?」
何故、あんなことを言う?
呟きは、春の風に溶けて消えていった。




