第15話 <リナ>
王都の休日は、平日とはまた違った賑わいを見せていた。
石畳の大通りには買い物を楽しむ人々が行き交い、軒を連ねる商店からは客を呼び込む声が響いている。
焼きたてのパンの香りが漂う店先では、籠を抱えた女性達が品物を選び、少し先の広場では大道芸人の周りに小さな人だかりが見える。
そんな賑やかな通りを、リナは一人で歩いていた。
王立学園に入学してから、初めて迎えた休日である。
学園での生活は、想像していた以上に慌ただしかった。
広大な校舎に、見慣れない設備。
授業では初めて耳にする知識も多い。
教師の説明を聞いているだけで、新しく覚えなければならないことが次々と増えていく。
何より緊張するのは、周囲の生徒達との付き合いだった。
同じ制服を着て、同じ教室で授業を受けていても、そこにいるのは貴族の子息令嬢ばかりである。
身分の高い相手には相応の礼節が求められるし、貴族ばかりの中で、平民の自分から気安く話しかけるのは、やはり少し勇気がいった。
他の生徒と話をする機会もなく、寂しさを感じることも多かったし――それに話しかけられたとしても、どう振る舞えばよいのか分からない場面も多い。
先日、カサンドラについて噂話をしていた令嬢達に呼び止められた時のことを思い出して、少し気持ちが沈んだ。
自分が実際に会ったカサンドラは、噂で聞いていたような人ではなかった。
けれど、まだ数えるほどしか話したことがない以上、「絶対にそんな方ではありません」と自信を持って言い切ることもできなかったのだ。
令嬢達が去ったあと、ラルフから噂にいちいち振り回される必要はないと言われたことも、妙に心へ残っている。
もっとカサンドラのことを知っていたなら、あの時もう少し迷わず答えられたのだろうか。
あの時、思わず「寂しい」と呟いたのは――
もっと知りたいと思った相手のことを、まだ何も知らない自分が寂しかったのかもしれない。
それでも、リナは学園に入学できたことを心から喜んでいる。
彼女には、将来の夢があったからだ。
いつか格式あるお屋敷で働く、一流の侍女になること!
……。
誰にも言っていないが、昔からの夢だ。
恐らく身分や特権に厳しいリゼが聞いたら、あまり良い顔はしないだろう。
リタも「お屋敷で働きたいの?」と、目を丸くすること請け合いだ。
もし侍女になる夢が叶わなかったなら……パン屋にも興味があるので。
二人には、将来はパン屋で働きたいと話している。
リナは料理や裁縫が好きだったし、掃除や洗濯といった家事も一通りこなせる。
誰かのために働き、その人が喜んでくれることに、昔から幸せを感じていた。
侍女という仕事に憧れるようになったのは、教会で知り合った年上の女性の影響である。
リナには、幼い頃から教会へお祈りに通う習慣があった。
そこで親しくなった女性が、貴族の屋敷で使用人として働いていたのだ。
教会の長椅子に並んで腰掛け、屋敷での出来事を時折聞かせてくれたことを、今でも鮮明に覚えている。
奥様に仕事ぶりを褒められたことや、お嬢様の衣装の支度を任せてもらえたこと。
失敗して叱られた話でさえ、最後には「次は上手くやるわ」と楽しそうに笑っていた。
誰かの役に立てるっていいなぁ。
リナには彼女の存在が眩しく見えた。
もちろん、働くことが楽しいばかりではないことも聞いている。
それでも、いつか自分も心から尊敬できる主人のもとで、胸を張って働ける人になりたいと思った。
王立学園で教養や礼儀作法を身につければ、格式の高い屋敷でも通用する侍女になれるかもしれない。
その夢に近づけると思ったからこそ、難しい試験にも挑戦したのだ。
姉たちには、やっぱり言い出せないままだ。
『貴族のお屋敷で働く?
せっかく王立学園に入ったのに? …本気!?』
リゼの反応が寸分違わずイメージできるのは、十五年一緒に暮らしてきた家族ゆえであろう。
もっとも、いつかは二人にもきちんと話さなければならない。
姉のリゼは官吏を目指しているし、もう一人の姉であるリタは華やかな貴族社会に興味津々である。
三つ子なのに、将来に思い描くものは随分違うらしい。
リナ自身はそんな違いも楽しいと思っていた。
※
今日は二人を誘って出かけようかとも考えたが、それぞれに用事があったため、結局一人で散策している。
リタもリゼも、何だか今までと態度が違うというか…
特にリゼの変化が怖い。
夕食時に、一言も発さずにぼーっとしていたのだからリナも驚きを隠せなかった。
一体姉の身に何が…?
一人で過ごす時間も、嫌いではない。
気になる店があれば好きなだけ覗けるし、疲れたら休めばいい。
誰かを待たせる心配もなく、気の向くまま歩けるのは案外楽しいものだった。
王都の中心部には立派な商店が建ち並んでいるが、少し横道に入れば、小さな露店や職人の工房が軒を連ねる通りもある。
表通りより道幅は狭く、頭上では店先から張り出した色鮮やかな日除け布が風に揺れていた。
色鮮やかな布地や、細工の施された木箱。手作りの装飾品に、見慣れない形の食器。
どれも眺めているだけで楽しい。
ふと足を止めたのは、店先いっぱいに色とりどりの糸を並べた小さな糸屋だった。
毛糸や刺繍糸の束が棚に積まれ、その脇には編み針や針山、小さな裁縫道具に細いリボンまで所狭しと置かれている。
「あ、この色……」
リナは淡い黄色の毛糸を手に取った。
指先で撫でるとふわりと柔らかく、陽の光を受けても明るすぎない優しい色合いをしている。
今使っている糸とは少し違うが、これなら小さな動物を編むのに似合いそうだった。
リナは編み物も好きだ。
最初は簡単な小物から始めたが、最近では小さな動物の編み人形にも挑戦している。
もっとも、まだ上手とは言い難い。
目の位置が少しずれてしまったり、左右の翼の大きさが揃わなかったりすることも……。
それでも、一つずつ形になっていくのが楽しくて、暇を見つけては編み針を動かしていた。
今日も、鞄には小さな編み人形を一つ結びつけてある。
淡い黄色の毛糸で編んだ、小鳥の人形だった。
丸々とした身体に、小さな翼。黒い糸で縫い取った目は少し離れており、くちばしも僅かに曲がっている。
練習用に作ったものなので、あまり出来がよいとは言えない。
けれど、その間の抜けた表情が何となく気に入って、鞄の飾りにしていたのだ。
リナはしばらく毛糸を見比べ、新しい色をいくつか選ぶ。
そのまま会計へ向かおうとして、棚の端に並んだ細いリボンが目に入った。
同じ幅、同じ織り方で、色だけが違う赤、黄色、青のリボン。
学園で、三人を見分けられず困っている生徒を何度か見かけていたのを思い出す。
リタが「どうにか見分けつくようにできないかな?」とぼやいていたのも記憶に新しかった。
毎回名乗り直すのも少し面倒だし、髪に色違いのリボンを結べば分かりやすいかもしれない。
赤、黄色、青の三色が綺麗に染まっていたので、それらを手に取った。
改めて三本を並べてみると妙にしっくりきて、リナは満足してまとめて籠へ入れる。
「もし仕入れて欲しいものがあったら、教えてくれなお嬢ちゃん。
どうか今後も御贔屓に」
店主はそう言って鷹揚に笑い、リナにお釣りを渡す。
ニコニコ笑顔で言われたら、来週も糸を買いに来たくなるではないか。
……商売上手だなぁ。
そんなことを考えながら買い物を済ませ、紙袋を抱えて再び通りへ出た。
商店の前の道は広く、馬車の往来する大通りにもなっている。
石畳の上を馬車が通り過ぎるたび、車輪の軋む音と馬の蹄が硬い路面を叩く音が響いていた。
王都の中心部だけあって、人通りも多くて歩くのに慣れない。
リナは通りの端に寄りながら、向かい側にある店を眺めた。
大きな窓の内側には色とりどりの焼き菓子が並べられ、砂糖をまぶした菓子が午後の日差しを受けてきらきらと光っている。
姉妹への土産を買って帰るのもいいかもしれない。
そんなことを考えていた時、すぐ近くで甲高い声が上がった。
「あっ、こら、待ちなさい!」
振り向くと、通りの端に若い母親と幼い女の子の姿があった。
母親は知人らしい女性と立ち話をしており、女の子はその足元で小さな木の輪を転がして遊んでいる。
まだ四、五歳ほどだろうか。
女の子が勢いよく手を伸ばした拍子に、木の輪が思いがけない方向へ転がった。
輪は石畳の上を軽く跳ねながら、そのまま広い道の真ん中へ向かっていく。
「まてまてー!」
女の子はそれを追いかけた。
母親が慌てて声を上げたが、幼い足は止まらない。
ちょうど角を曲がってきた馬車が、こちらへ近づいていた。
御者が女の子に気づき、目を見開いて手綱を強く引く。
馬が甲高く嘶いて大きく首を振り、車輪が石畳を削るような音を立てた。
女の子は迫ってくる馬車を見上げたまま、その場に立ち尽くしている!
「あぶな……!」
リナが思わず駆け出そうとした、その瞬間だった。
視界の端から、一人の少年が飛び込んできた。
濃い色の上着の裾が大きく翻り、少年は迷うことなく女の子へ手を伸ばした。
小さな身体を抱きかかえるようにして車道から引き戻し、その勢いのまま歩道へと倒れ込む。
ほとんど同時に、馬車が二人のすぐ横を通り過ぎた。
御者の叫び声と、馬の蹄が石畳を激しく打つ音が重なる。
からからから……と、車輪の音が遠ざかり、少し先でようやく止まった。
一瞬の出来事だったが、リナには周囲の音がすべて遠のいたように感じられた。
リナも思わず足を止めた。
胸が激しく鳴っている。
ほんの一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
しかし、歩道に倒れ込んだ少年が身体を起こす。
その腕の中にいた女の子を地面へ下ろしたのを見て、ようやく息をつくことができた。
助かったのだ。
女の子は呆然とした表情で立っていたが、怪我をした様子はない。
少年は片膝をついたまま、女の子の腕や肩を確かめている。
その指先が僅かに震えているように見えた。
その横顔を見た瞬間、リナは目を見開いた。
「……シリウス様?」
見間違えるはずがなかった。
同じクラスで学ぶ、シリウスだったのである。
いつも整った身なりで、落ち着いた物腰を崩さない彼が、今は石畳に片膝をつき、服の裾を汚している。
何より、普段ほとんど乱れることのないその表情から、すっかり血の気が失せていた。
「怪我はないか」
低く、よく通る声だった。
けれど、どこか掠れている。
女の子はぷるぷる、と小さく首を振る。
「手と足を動かしてみろ。
痛むところがあるなら、今すぐ言え」
言われるままに女の子が両手を動かすと、シリウスはその指先まで一つずつ確かめ、さらに足元へ視線を落とした。
「立てるか」
女の子がこくりと頷いて立ち上がっても、彼はすぐには手を離さなかった。
腕に傷がないか、歩けるか。もう一度確かめるように視線を走らせる。
考えるより先に身体が動いた――そんな風に見えた。
けれど無事だと分かった今も、シリウスだけはまだあの馬車が迫ってきた瞬間から戻ってこられていないようだった。
そのおかげで、大きな事故にならずに済んだのだ。
本当によかった。
そう思ったのも束の間、今度は先ほどの母親が人垣をかき分けて駆け寄ってきた。
「この子ったら! ああ、よかった……!」
母親は女の子を抱き締め、頬や腕を撫でながら、怪我がないか何度も確かめている。
その様子を見ていたシリウスが、ゆっくりと立ち上がった。
「お前が、彼女の母親か」
シリウスの声は、さっきよりも幾分低くなる。
「は、はい。あの、助けてくださって、本当に……」
眼鏡の位置を人差し指で整える。
その仕草さえ、いつもより僅かにぎこちなかった。
「……目を離していたのか?」
母親の言葉を遮るように、シリウスが尋ねた。
責め立てるというより、どうしても確かめずにはいられないといった声音だった。
「え……?」
「この通りは馬車の往来が多い。
幼い子供を、道の近くで一人にするのは危険だ」
「も、申し訳ありません。少し、知り合いと話していて……」
そこで母親が、初めてシリウスの顔をまともに見た。
はっと息を呑み、その表情が一気に強張る。
「少しのつもりでも、その間に事故は起きる」
シリウスの眉間に深く皺が寄った。
「御者が気づくのがもう少し遅れていれば、この子は馬車に轢かれていただろう」
そこで、不意に言葉が途切れた。
シリウスの手が、強く握られる。
「……命に関わっていたかもしれない」
低い声だった。
怒っているようには聞こえない。
むしろ、リナにはその言葉を口にすること自体を恐れているように感じられた。
「怪我がなかったからといって、軽く考えているのではないだろうな」
母親は青ざめた顔で俯いた。
周囲に集まっていた人々も、いつしか口を閉ざしていく。
人垣のどこかから、「シリウス様だ」と囁く声が聞こえた。
確かに、シリウスの言うことは正しい。
女の子が飛び出したのは、母親が目を離していた間のことである。
幼い子供が思いがけない行動を取ることなど、珍しくもない。
だからこそ、大人が注意していなければならないのだろう。
リナにも、その理屈はよく分かる。
けれど、シリウスの声音は図書室で注意を受けた時と同じく――いや、何倍も真剣なように感じた。
空気そのものが凍り付くとはこのことか。
「事故が起きてから後悔しても遅い。
今後は、絶対に目を離さないように」
「はい……本当に、申し訳ありませんでした」
母親は小さくなったように俯いていた。
腕の中にいる女の子も、何やら落ち着かない様子でシリウスを見上げている。
自分のせいで母親が叱られていると分かったのだろうか。
それとも、目の前の少年の必死な様子が怖かったのかもしれない。
女の子の顔がみるみるくしゃりと歪んだ。
「……う、うえ……」
小さな声が漏れたかと思うと、次の瞬間には大きな泣き声が響き渡った。
「うわあああん!」
母親は慌てて女の子を抱き寄せた。
「大丈夫よ、大丈夫だから。
ほら、泣かないで」
ところが、女の子はますます激しく泣き始めた。
母親も動揺しているためか、うまく宥めることができない。
シリウスは困ったように眉を寄せた。
「……おい。
お前を叱っているわけではない。
……泣くな」
「うわあああああああん!」
女の子は泣き止まない。
むしろ、シリウスが口を開いたことで、さらに声を大きくしたようだった。
リナは思わず口元を押さえた。
先ほどまで張り詰めていたものが、一気に行き場を失ったようだった。
助けた本人が、今は一番途方に暮れている。
母親へ向けていた厳しい表情も、すっかり影を潜めていた。
黒い瞳は泣き続ける女の子を前に迷うように揺れ、どうすればいいのか分からないと言いたげである。
その姿が何とも意外で、少しだけ可笑しかった。
笑ってる場合じゃないのは分かってる。
大惨事にならずに済んだからこそ、つい口元が緩むのだ。
子供は理屈だけでは動かない。
先ほどまで張り詰めていたものが一気に行き場を失ったように、助けた本人が今は一番途方に暮れている。
母親は恐縮しきっているし、女の子は泣き止む気配がない。
周囲の人々も、どうしたものかと顔を見合わせている。
リナは二人の方へ歩み寄った。
「あの、よろしいですか?」
突然声をかけられ、母親が顔を上げた。
シリウスもこちらを振り向く。
「……リナ・フォスター?」
「こんにちは、シリウス様」
同じクラスで学ぶ相手とはいえ、シリウスは御三家の一角であるエルディム侯爵家の跡取りだ。
普段なら、自分から用もなく声をかけることには躊躇していただろう。
けれど、今は目の前で泣いている女の子の方が気になった。
リナは母親へ向き直り、できるだけ柔らかく微笑んだ。
「お子さんにお怪我はありませんか?」
「は、はい。おかげさまで……」
「それならよかったです。
……怖かったですよね」
リナは女の子の目線に合わせて膝を折った。
「怖かったわね。もう大丈夫よ」
優しく声をかけながら、鞄に結びつけていた小鳥の編み人形を取り外す。
「ねえ、これを見て。可愛いでしょう?」
女の子は涙を浮かべたまま、差し出された黄色い小鳥を見つめた。
「……とり?」
「そう!
よかったら、この子と仲良くしてくれる?」
リナが小鳥をそっと揺らすと、女の子はしゃくり上げながらも、おずおずと手を伸ばした。
「……いいの?」
「もちろん、どうぞ」
女の子は小鳥を受け取ると、小さな両手で大切そうに抱き締めた。
まだ鼻をすすっていたが、先ほどまでの激しい泣き声は収まっている。
「……おねえちゃん! ありがと!」
「どういたしまして」
リナが微笑むと、母親もようやく安堵した様子で息をついた。
ふと顔を上げれば、シリウスが何とも言えない表情でこちらを見ていた。
つい先ほどまで母親を真剣に諭していた少年が、今はどうすればよかったのか分からないとでも言いたげに、黙って立っている。
先ほどから、ほとんど微動だにしていない。
その意外な姿に、リナは少しだけ頬を緩めた。
「本当にありがとうございます。
あの、シリウス様にも大変なご迷惑を……」
母親がシリウスへ目を向ける。
「……怪我がなかったのなら、それでいい」
シリウスは一度言葉を切り、母親と女の子を交互に見た。
「言い方が良くなかった。
――怖がらせたことは謝る」
「い、いえ! そんなことは……!」
母親が慌てて首を振った。
「助けていただいたのはこちらです。
本当に、何とお礼を申し上げればよいか……」
「礼はいらない。
今後は気をつけてくれ」
そこまで言い、シリウスはようやく大きく息を吐いた。
「…………」
母親へ向けられていた厳しさは、もうすっかり消えていた。
顔色はまだ少し悪いものの、先ほどまでの張り詰めた雰囲気も薄らいでいる。
母親は一瞬驚いたように目を見開き、それから何度も頭を下げた。
女の子も、小鳥の編み人形を握り締めたまま、ぺこりと頭を下げる。
「おにいちゃん、ありがと」
その言葉に、シリウスは僅かに目を見開いた。
「……ああ」
少し間を置いてから、彼は頷いた。
「今度からは、ちゃんと母親のそばにいろ。
分かったな」
「うん」
女の子が元気よく返事をすると、母親はようやく安心した様子でその手を引いた。
二人が人混みの向こうへ消えていくまで、リナとシリウスはその場に立っている。
馬車の往来する通りには、いつの間にか再びいつもの喧騒が戻っていた。
先ほどまで足を止めていた人々も、それぞれの用事へ戻っていったのだ。
シリウスは母子の姿が見えなくなると、深く息を吐いた。
「……助かった。
正直、どう対処すればいいか咄嗟に思いつかなくてな」
「いいえ。
お役に立てたならよかったです」
リナは慌てて首を振った。
まさか、エルディム侯爵家の跡取りから自分が礼を言われるとは思っていなかったのだ。
彼があの子を助けなければ、今頃どうなっていたか分からない。
自分がしたのは、たまたま持っていた編み人形を渡しただけである。
それで恩を売ったつもりなど、まったくなかった。
シリウスは少し考えるようにリナを見下ろした。
「さっき渡していた人形は、どこで買った?」
「あれは、私が編んだものなんです」
「……自分で?」
「まだ練習中なので、あまり上手ではないのですけれど」
リナは少し照れくさそうに微笑んだ。
「練習用に作ったものなので、惜しいものでもないんです。
あの子が喜んでくれたなら、それで」
「……そうか」
シリウスは短く答えた。
それから、母子が消えていった人混みへ一度だけ視線を向けた。
再び、周囲の時間が動き出す。
「それでは、失礼いたします」
リナは丁寧に一礼した。
それ以上、自分から何かを話しかけようとは思わなかった。
休日に偶然出会ったからといって、いつまでも引き留めてよい相手ではない。
「――気をつけて帰れ」
「はい。シリウス様も」
それだけのやり取りを交わし、二人は別れた。
シリウスは糸屋の隣にある古書店へ戻っていき、リナはその後ろ姿をしばらく見送る。
どうやら先ほどは、あの店から出てきたところだったらしい。
リナはゆっくりと歩き始めた。
先ほど買った毛糸と三本のリボンが入った紙袋が、歩調に合わせて手元で小さく揺れている。
「……意外……かも」
先ほどの場面を反芻しながら、リナはつい声を漏らす。
休日の王都へ出かけた時には、こんなことになるとは思ってもいなかった。
今日は一人で買い物をして、気になる店を覗いて、姉妹への土産でも買って帰るつもりだったのだ。
それが、思いがけない事故に遭遇し、同じクラスのシリウスと話すことになった。
学園で見かける彼は、いつも冷静だった。
生真面目で近寄りがたく、少し怖い人だと思っていた。
……考えてみれば、自分はシリウスのことをほとんど知らない。
けれど、今日の彼は少し違った。
馬車の前へ迷わず飛び出した時の必死な姿も、母親を諭す時の切迫した表情も、泣き出した女の子を前に困り果てていた様子も。
確かに口うるさいというか、説教じみているところはあるらしい。
今日の母親への言葉も、傍から聞けば少し厳しすぎたのかもしれない。
それでも、あの時のシリウスはただ怒っていたわけではなかった。
あの子が馬車の前へ飛び出したことそのものを、ひどく恐れていたように見えた。
どうしてあそこまで必死だったのかは分からないけれど、無事だと知った時の彼の顔を思い出すと、胸の奥が妙に温かくなる。
心配性……なのかな。
少なくとも、冷たくて怖いだけの人ではないのだと思う。
胸の奥がくすぐったくなり、買ったばかりの毛糸が入った紙袋を胸元へ抱き寄せた。
月曜日になれば、また学園で会える。
同じクラスなのだから、何も特別なことではない。
今までだって毎日のように顔を合わせていたし、授業中に彼の声を聞くことも珍しくなかった。
それなのに、次に会える日を考えただけで、急に嬉しくなってしまう。
今度は、自分から挨拶をしてみようか。
ちゃんと目を見て、おはようございますと言えたら、それだけでも嬉しいかもしれない。
けれど、あの方はエルディム侯爵家のご嫡男だ。
しかも王都では知らない者の方が少ないほど有名な人である。
自分のような平民の少女が、特に用もないのに話しかければ、馴れ馴れしいと思われないだろうか。
そう考えると、途端に自信がなくなってしまう。
それでも、もう一度話してみたい。
できれば、今日のことを少しだけ覚えていてほしい。
そんな考えが浮かんだ瞬間、リナは足を止めた。
……あれ?
今、自分は何を考えていたのだろう。
リナは胸元へ手を当てた。
心臓が、少しだけ速く打っている。
まさか。
そんなはずはない。
何を馬鹿なことを考えているのか、自分は。
あれほど身分の高い人なら、もう許嫁がいてもおかしくない。
婚約者だっているかもしれない。
文字通り、住んでいる世界が違うのだ。
……でも……
好きになるだけなら、いいよね?




