第14話 手紙
王立学園に入学してから、最初の一週間が無事に…とは言い難いが、なんとか終了した。
金曜日の夕方、王都にあるレンドール家の別邸で、カサンドラはようやく一息つく。
制服から着替え、髪留めも外した。
肩から背へ落ちた髪が、窓から入る風にさらりと揺れる。
西日が庭園の木々を照らし、花壇の手入れを終えた庭師達が道具を片づける姿が見えた。
学園での一週間は、想像していた以上に慌ただしいもので、かなり疲労が蓄積している。
授業は分からないほどではないけれど、決して余裕でもない……
というのがカサンドラの印象だ。
幼い頃から家庭教師について学んできた内容も多いが、元々カサンドラ自身、勉強があまり好きではない。
乙女ゲームの知識には自信があっても、前世で学校の勉強をしていた頃など遥か昔。
その心もとない記憶が加わったところで、決して秀才にはなれないのだと愕然とする。
始まったばかりでこのザマである、休みはしっかり復習をした方がいいと危機感さえ覚えた。
ただ、勉強は一人でどうにかなるかもしれないが…
何と言っても人間関係が難問だ。
貴族の令嬢として社交の場には慣れているつもりだったが、同年代の子息令嬢達と毎日顔を合わせる生活は、夜会とは勝手が違った。
学園では、授業の前後に挨拶を交わし、休憩時間には友人と談笑する。
そんな何気ない時間の積み重ねこそが、学園生活というものなのだろう。
もっとも、自分はと言えば…
決して交流が広いわけではない。
王都の社交界にはあまり馴染みがないし、やはり悪評のせいか積極的に話しかけてくる生徒も少なかったのだ。
階段で図らずも盗み聞きしてしまった令嬢の会話を思い出すと、胃が痛くなってくる。
だがそんなアウェー状態の中でもデイジーとはこれまで以上に親しくなれそうだったし、クラスには興味深い人物も多い。
三つ子の少女達については、まだ分からないことばかりだが、少なくとも今すぐ何かしなければならない状況ではなさそうだった。
生徒会の仕事も、今のところ順調である。
書記として議事録をまとめるのは思っていたより性に合っていた。
会議中に交わされた意見を記録し、必要な事項を整理する作業は嫌いではない。
ただし、一週間を終えた今、カサンドラには一つだけ心残りがあった。
アーサー王子と、ほとんど個人的な会話ができていないのである。
同じクラスで、生徒会でも一緒なのだから、顔を合わせる機会はいくらでもある。
挨拶もするし、必要な話なら問題なくできる。
けれど、王子の周囲にはいつも誰かがいた。
登校すれば挨拶に訪れる生徒がいて、休憩時間には教師や上級生から声をかけられる。
放課後ともなれば生徒会の用事もあり、ゆっくり話せそうな機会はなかなか訪れない。
生徒会室でも事情は同じだった。
王子の傍にはシリウスやラルフ達がいるし、他の役員が出入りすることも多い。
生徒会の仕事に関する話ならともかく、個人的な質問を持ち出すには少々勇気が必要だった。
何より、肝心のカサンドラ自身が、王子を目の前にすると妙に緊張してしまう。
婚約者だからといってどこまで気軽に話しかけてよいものか?と躊躇いが先に出るのだ。
王子の方は、いつも穏やかに接してくれるのだけど。
だからこそ、こちらが勝手に気負っているだけなのかもしれない。
……彼を救うためには、まず彼自身を知らなければならない。
どうして王子が、伝承でしか聞かないような悪魔へ変わってしまうのか……?
真実を突き止めなければ、とても安心できる状況ではないし。
なにより、彼を救いたい。
それが最重要使命だと、肝に銘じなければ。
窓辺まで伸びていた西日の帯は、いつの間にか机の脚元まで傾いていた。
白いレースのカーテンが風を含んでゆるく膨らみ、そのたびに庭の草花の匂いが部屋へ入り込む。
磨かれた机の上では、ティーカップの縁だけが夕陽を受けて淡く光っていた。
学園では一日中人の声に囲まれていたせいか、別邸の静けさが今日は妙に深く感じられる。
遠くで馬車の車輪が石畳を鳴らし、やがてその音も夕暮れの中へ消えていった。
カサンドラがソファに座って物思いにふけっていると、扉が控えめに叩かれる。
「姉上、今少しよろしいでしょうか」
「ええ、構いませんよ」
一週間で起こった怒涛の出来事を反芻しているカサンドラの部屋に入ってきたのは――アレクだった。
銀色の髪を綺麗に整え、きちんとした服装に身を包んでいる。
手には数枚の紙を抱えており、どうやら何か用事があるらしい。
十歳になったばかりとは思えないほど、相変わらず落ち着いている。
息子のいなかった父が、遠縁の家から養子として迎えた弟だ。
将来はレンドール侯爵家を継ぐことになるのだから、カサンドラ以上に厳しい教育を受けているのかもしれない。
それにしても――
これだけ将来を決められている立場のわりに、アレクにはまだ婚約者がいない。
十歳なのだから、別におかしなことではないのだろうか。
いや、貴族ならもっと幼いうちから話が進むことだってあるはずだ。
そう考えて、ふと別のことに気づく。
シリウスにも、ジェイクにも、ラルフにも婚約者がいない。
御三家の嫡男である。
家柄だけを考えれば、候補となる令嬢がいくらでも押し寄せてきそうなものなのに、少なくともゲームでは婚約者など一人も登場しなかった。
――どうしてだろう?
そこまで考えて、答えは一瞬で出た。
……そりゃ、いないか。
乙女ゲームの攻略対象に最初から婚約者がいたら、主人公が誰かと恋をするたびに婚約者との修羅場が発生する。
それはもう、ゲームのジャンルが変わってしまうわけで。
カサンドラ一人が悪役令嬢として王子の婚約者なのは、主人公の障害になる役割があったからだ。
王子の威を借りて、主人公の前に立ちはだかる悪役令嬢。
カサンドラ一人だけでも鬱陶しかったのに、攻略対象全員にライバルを用意したら恋愛どころではない。
誰かの婚約者を奪うことを目的にしたゲームではなかったから、心置きなく遊べたのだし。
ゲームの都合を現実の人間関係へ当てはめるのもどうかとは思うが、元の世界がそういう設定だったのだから仕方がない。
「あの…姉上?」
「…っ」
アレクに不思議そうな顔をされ、カサンドラは我に返った。
いけない。
弟の婚約者事情から、とんでもなく遠いところまで思考が飛んでいた。
「何でもありません。
アレクこそ、突然どうしたのですか?」
「学園でのご様子を、少し伺っておきたいんです」
「わたくしの?」
「はい。
侯爵に、今週のご報告を差し上げることになっていますので」
その言葉を聞いて、カサンドラは僅かに眉を動かした。
「最初の一週間ですから。
侯爵からも、少し詳しく様子を知らせるよう言われています」
侯爵――アレクは二人きりの時でも、父をそう呼ぶ。
養子として迎えられて五年になるというのに、妙なところで律儀な少年だった。
「……そう」
カサンドラはアレクの用件を知り、曖昧に頷く。
父――クラウス・レンドールは、昔から口数の多い人ではない。
必要なことは話すが、それ以上のことはほとんど口にしない難しい人だ。
しかも元々の顔立ちが険しくて黙って座っているだけでも機嫌が悪そうに見えるし、何か考え込んでいれば今にも誰かを叱りつけそうに見える。
もはや地顔が怒り顔と言ってもよく、初めて会う人に無用のプレッシャーを与える人物としても有名らしい。
娘であるカサンドラでさえ、父が今何を考えているのか分からないことが多かった。
親子なのだから、当然まったく会話がないわけではない。
けれど、
『王都で何かあったら家令のフェルナンドに相談するように』
王都に三年間滞在するというのに、父と交わした最後の会話はこれだけだ。
淡々として、取りつく島もない。
初めて父と一往復以上の会話のやりとりをしやのは、一年ほど前、舞踏会で王子を一目見たときの帰り道だ。
カサンドラは何度父に結婚したいと訴えただろう!
けれどクラウスは、叶えるとも無理だとも言わなかった。
それから半年ほど経ったある日、
『王子との婚約が決まった』
ただ一言、そう告げられた。
あれほど願っていたことだから飛び上がるほど嬉しかったが…
父がどのような経緯で話をまとめ、どう思ってその婚約を受け入れたのかは、今も知らない。
真意を聞ける関係性でもないからだ。
そもそも父が自分をどう思っているのかさえ、十五年間親子をしていたはずなのに不透明である。
…恐らく、嫌われてはいないと思うけれど。
「お父様から、何を聞くように言われているのですか?」
「授業についていけているか。
体調を崩していないか。食事はきちんと取っているか……などですね」
アレクが紙へ視線を落とす。
「それは構いませんけれど。
作成した報告書をお父様にお渡しするのですか? レンドールまで持って行くのです?」
一体どこからどこまでを報告するべきか。
何せ直接侯爵に伝えるのではなく、間にアレクという書き手が入るのだ。
本当に下手なことは言えないな、とカサンドラは弟に気づかれないよう気を引き締める。
「勿論手紙ですよ。
レンドール領まで早馬でも数日はかかるのですから」
入学式典のこと、特待生のこと、講義のこと、御三家の後継ぎ達について差し障りのない範囲で話し、現状の学園の様子も伝える。
テーブルの正面に座り、カサンドラの報告をスラスラと速記するアレク。
時折彼から詳しい内容を問われることもあり、迂闊なことは口走れないとヒヤッとする。
もしかしてこの尋問めいたやりとりは毎週行われるのか?
最初だけかもしれないが、週の最後に少し重たいイベントが付け加わったものだなと辟易した。
アレクだって望んでいるわけではないから、被害者なのに。
「では、学園でのお付き合いについても伺ってよろしいですか?」
「お付き合い?」
「はい。普段、どなたと親しくなさっているのか。
困ったことや、不愉快な思いをしたことなどはありませんでしたか?」
「デイジーさんとはよくお話しますね。
他にも、同じクラスの方々とはご挨拶を交わしているし、特に問題はないはずです」
「御三家のご子息とも…?」
「ええ。皆様、とても優秀な方々です。
生徒会の仕事も、今のところ問題なくこなせております」
少なくとも、一週間を共に過ごした限りではそう思う。
シリウスは物事を整理するのが上手く、生徒会の進行にも慣れている。ラルフは周囲への気配りを欠かさない。
ジェイクは――今日の会議には遅れてきたけれど。
それでも、何か事情があったようだし、仕事そのものを投げ出すような人ではなさそうだった。
三人とも性格は随分違うが、王子とは幼い頃からの友人らしく、互いに遠慮のないやり取りを交わすこともある。
ああいう関係は、少し羨ましい。
「アレク、先ほどから随分と細かいことまで聞いているようですが…」
「僕というより、侯爵から確認しておくようにと言われていますので」
さらさらとペン先が紙を走る音が響く。
カサンドラは思わず義弟の顔をまじまじと見つめた。
「お父様が、御三家の方々とのことまで?」
「はい」
ますます分からない。
カサンドラはレンドール侯爵家の娘であり、王子の正式な婚約者でもある。
学園で御三家の子息と接することなど、最初から分かっていたはずだ。
父は、自分が彼らに対して何か失礼なことをするのではないかと心配しているのだろうか。
本人が何も言わない以上、考えても答えなど出ないのだが。
「お父様には、わたくしがきちんと務めを果たしているとお伝えしてください」
「僕は、姉上のおっしゃった内容をまとめてお伝えするだけです。
それをどう解釈されるかは侯爵次第ですので」
「……。」
遠く離れたレンドールの地にいる父に、逐一自分の行動が報告される…
かなり窮屈さを感じてしまう。
しかもアレクは真面目で、父の命令には逆らうことはない。
遊び惚けた瞬間、父本人が無言で王都まで乗り込んで来そうでゾッとした。
「――これくらいで宜しいでしょうか。
他に何かお聞きになりたいことは?」
「そうですね。あとは王子のことをお願いします」
せっかく落ち着きかけていた気分が、その一言で再び揺らいだ。
「……王子の?」
「はい。
姉上は以前、王子ともっと親しくなりたいと仰っていましたから。
ほら、王子の婚約者になれたわけで…
気になるのは当然では?」
そりゃそうですよね!
カサンドラの脳裏に、一週間で交わした王子との会話が流れていく。
だが、余りにも少ない会話量に自分でも唖然とした。
「王子とは、ゆっくりお話しできましたか?」
「ええ、もちろんです」
カサンドラは即答した。
ここは姉としての沽券に関わる問題である。
実際には、ゆっくりというほど長く話せた覚えはない。
しかし、それを正直に説明して、アレクに憐れまれるのはプライドが許さなかったのだ。
挨拶もした。
生徒会でも会話した。
今日だって、王子の方からコーヒーについて話しかけてくれた!
何も嘘は言っていない。
「それはよかったですね。
姉上も楽しみにしておいででしたし」
「王子は、いつもお優しく接してくださいますから。
生徒会でもお話しする機会はあるし、何も問題はありません」
自分でもちっぽけなプライドだと自覚している。
でも、「あんまり相手にされていないかも」なんて報告は誰にもしたくなかった。
ただ、カサンドラが望んでいたほどには話せていないというだけだ。
内心に巣食う不安を必死で押し殺す。
すると、アレクは安心したように微笑んだ。
「姉上が楽しくお過ごしなら、何よりです」
「ええ。これからの学園生活が楽しみでなりません。
貴方の姉は、レンドールの評判を貶めるような行動などいたしませんので」
胸を張って答えながら、カサンドラは内心で小さく息を吐いた。
危ないところだった…まさか、王子とろくに話せていないことまで弟に知られるわけにはいかない。
学園へ入学する前、あれほど意気込んでいたのである。
今の惨状を知られたくない。
第一、王子との話をアレクにしてどうなるというのだろう。
義弟が何か助言してくれるとしても、王子の予定を自由に変えられるわけではない。
結局のところ、自分で何とかするしかないのである。
「王子はお忙しいようですけれど…」
つい、ぽろっと現実が口から飛び出てきた。
だが努めて平静なふりをする。
「一国の王子なので当然では?」
アレクは不思議そうに首を傾げた。
良かった、カサンドラのプライドは守られた。
「では姉上、こちらの内容を手紙にして報告しておきますね。
今日はありがとうございました」
「…………」
カサンドラはその瞬間、雷に打たれたように天啓を得た。
――手紙。
そうだ、手紙があるではないか。
あまりにも当たり前のことだったので、今まで考えもしなかった。
王子と話したいのなら、偶然二人になれる機会を待ち続ける必要などない。
貴族同士で書簡をやり取りするのは、ごく普通のことである。
まして、自分は王子の正式な婚約者なのだ。
手紙を渡すこと自体が失礼になるとは思えない。
もちろん、返事を催促するような真似はしたくない。
長々とした文章を書いて、王子の時間を奪うのも本意ではなかった。
けれど、ほんの短い手紙ならどうだろう。
月曜日の朝、少し早く登校して、生徒会室にある王子の机へ置かせてもらえばいい。
あの部屋には、役員一人一人に専用の机が用意されている。
王子の名を書いて封をしておけば、他の誰かが開けることもないだろう。
返事まで求めるなんてとてもできない。
ただ、自分がもう少し王子のことを知りたいと思っていること。
もし時間がある時に、少しだけ話をしてもらえたら嬉しいこと。
それを伝えるだけなら、負担にもならないのではないか。
これなら、廊下で偶然会うタイミングを待つ必要もないし、生徒会室で他の役員達がいなくなる機会を窺う必要もない。
何より、手紙なら落ち着いて言葉を選べる。
王子を目の前にした時のように、緊張して何も聞けなくなる心配もなかった。
考えれば考えるほど、良い方法に思えてくる。
「……姉上?」
アレクが不思議そうに声をかけた。
「どうかなさいましたか?」
「アレク、貴方のおかげで助かりました。
感謝します」
「????」
カサンドラは慌てて表情を整えた。
危ないところだった。
危うく、声を上げて喜んでしまうところである。
アレクに事情を説明するつもりはない。
先ほど、王子との関係は順調だと胸を張って答えたばかりなのだから。
まずは一通。
返事などなくても構わない。
少しずつでも、王子に自分のことを知ってもらえたら。
そして自分も、王子のことを知っていけたら。
――ナイスアイデア!
王子との距離を縮めるための、最初の一歩。
カサンドラは早くも、週末に何を書こうかと考え始めていた。




