第13話 <リゼ>
放課後の教室は、昼間とはまるで別の場所のように静かだった。
窓の外から聞こえてくるのは、部活動へ向かう生徒達の声と、時折中庭を横切る馬車の音くらい。
リゼは自分の席で教科書とノートを広げ、今日の授業で取ったメモを最初から見直していた。
入学してやっと一週間。
が、授業の内容は興味があって毎日が楽しくて食い入るように教師の話を聞き続けている。
リゼは勉強に自信があったし、自分でそれを証明した…と思う。
王立学園の入学試験でも、最高点を取ったのだから。
――正確には、最高点の生徒が二人。
一人がリゼ。
そしてもう一人が、シリウス・フェル・エルディム。
入学式で新入生代表として壇上に立った少年だという話である。
「……別に、やりたかったわけじゃないけど」
ぽつりと呟き、ノートへ視線を落とす。
本当に、代表挨拶などしたかったわけではない。
大勢の貴族の前で壇上に立たされるなど、出来ることなら遠慮したいくらいだ。
でも、同じ最高点を取ったのに扱いに差があることは気に障る。
何の説明もなく、侯爵家の跡取りであるシリウスが新入生代表になった。
事前に一言言ってくれれば、「どうぞどうぞ」と喜んで彼に挨拶をお願いしたことだろう。
むしろ「やってくれてありがとうございます!」と心の底から感謝できたはずだ。
でもこれは…何か違うのでは?
とモヤモヤする。
――これが平民と貴族の差!
先日図書室で本人と話した限りでは、シリウス自身がリゼの成績を軽んじているわけではなさそうだった。
むしろ、試験の最後の問題については、リゼが使った解法にかなり興味を示していたくらいだ。
だから彼本人へ腹を立てるのは筋違いなのだろう。
シリウス自身も、自分が新入生代表に決まった経緯など知らないのかもしれない。
そこまでなら、まだ世の不条理としてリゼだって飲み下すことができたはずだ。
「……もっと簡単な解き方があるなんて、知らないんだから仕方ないじゃない」
リゼは小さく呟いた。
最後の問題を解く時、リゼは随分遠回りをした。
町で買った本から得た知識だけを組み合わせ、何度も計算し直して、力技で答えまで辿り着いたのだ。
シリウスが知っていたような、短く解くための公式など知らなかった。
教えてくれる家庭教師などいない。
専門の教師から、試験に出やすい問題の解き方を先回りして習ったこともない。
だから、自分が持っている知識だけで解いた。
正解だったのは嬉しいし、誇らしいことでもある。
それでも、もっと簡単な解き方があると知った瞬間、自分の知らないことを当然のように知っている相手との差を見せつけられた気がした。
「これだから貴族って嫌なのよ……」
リゼは鉛筆を机へ置いた。
王立学園に入ると決めた時から、こういうことがあるだろうとは思っていた。
周囲はお金持ちの貴族だらけ。
幼い頃から一流の家庭教師について勉強し、乗馬も剣術も礼儀作法も、必要なことは何でも教えてもらえる人達。
自分とは出発点が違う。
それでも、この学園へ来たかった。
卒業出来れば、その先には官吏になる道がある。
きちんと働いて安定した収入を得て、自分の力で生活していける。
官吏は退官した後も手厚い恩給が支給されるという。将来安泰!
天候一つで収入が左右される農家の暮らしを嫌というほど味わってきたリゼにとって、それだけで十分過ぎるほど魅力的な職業だった。
故郷の村には、安定した仕事なんかない。
……となれば町へ出て職に就くしかないのだが…町でできる仕事のどれを選んでも、一生安泰なんてありえないことは幼いころから気づいていた。
リゼはこの上ない現実主義者だ。
将来の飢えない生活を買うためならば、三年間くらい、貴族だらけの場所で過ごしてやる。
官吏になった後、たとえ地方勤務になったとしても構わない。
それさえリゼにとって願ってもない扱いなのである。
王立学園で上位の成績をキープして推薦を受けて官吏登用試験に挑戦する!
これがリゼ・フォスターの内なる野望だ。
そのために、勉強で他の生徒に後れを取ることは許されない。
「よし」
今日の復習ポイントをまとめ、リゼはペンを置いた。
共通授業の内容は、学期末の試験に出る。
だから分からないところ、取りこぼした箇所がないか念入りにチェックした。
逆に選択講義は基本的に成績評価の対象にはならず、自分の興味のある分野を専門家たちから学ぶことができるという話だ。
いや、これは本当に信じられないほど恵まれた制度だと思う
。
自分が何に興味があるか、何が好きかなんて実際に触れてみないと分からない。
それを「義務」にするのではなく、教育や教養の一環として学園が学生に提供しているのだから凄い。
これほど贅沢な環境にいられるなんて、と感動すら覚えたほどだ。
履修表を見ただけで、胸が高鳴った。
これだけ沢山の分野から、好きなものを自由に聴講してもいいだなんて夢のようではないか。
今から来週選んだ経済学や政治学分野の講義が楽しみで仕方がないのだ。
『えー…座学をそこまで楽しみにしてるとか、ちょっと怖いよリゼ…』
履修講義を選ぶ際、一緒にいたリタに呆れられてしまったので、口には出さないけれど。
生徒の中にはとにかく楽な講義をとか、座っているだけで終わるものとかを選ぶ人もいるらしいのだが……
絶対にもったいないと思う。
ノートを閉じ、筆記具を鞄へしまう。
三十分ほど経過した教室には、自分以外誰もいない。
いつも賑やかな空間が静まり返っている様子を眺め、自分も後にする。
三つ子の妹たちはもう先に帰っているので、焦ることなく納得いくまで見直しもできた。
鉄は熱い内に打て――習った直後が一番覚えやすいのだ。
※
階段へ向かう途中、中庭を囲む二階の外廊下へ差し掛かったところで、何人かの男子生徒の笑い声が聞こえてきた。
リゼは思わず足を止める。
「だから――来週まで待てよ」
聞き覚えのある声だった。
廊下の先。
中庭を見下ろす欄干の近くに、数人の男子生徒が集まっている。
その中心にいたのは、燃えるような赤い髪の少年。
――ジェイクだ。
御三家の一つ、ロンバルド侯爵家の嫡男。
既に騎士試験にも合格し、国王から剣を賜っているという、同じ新入生とは思えない経歴の持ち主だ。
リゼは反射的に足を止めた。
ジェイクの周囲にいるのは上級生らしい。
話しぶりや雰囲気からして、以前から付き合いのある者達なのだろう。
「来週から選択講義かー、待ってた!」
「兄貴が『ジェイク様に宜しく』ってさ。
…ほら、ちゃんと伝えたからな。
後で聞いてないとか言うなよ」
「やめろお前らに様付けされると背中が痒くなる」
ジェイクが嫌そうに顔をしかめる。
その仕草を見て、リゼは思わず二度見してしまった。
入学式や教室で見掛ける時とは、随分印象が違う。
制服のネクタイは少し緩められ、白い上着の前も開いているし。
欄干に軽く背を預け、上級生達と笑っている姿は、どこからどう見ても普通の少年だった。
御三家の一角――ロンバルド侯爵家の嫡男で、騎士様だ。
もっと近寄り難い人なのだと思っていた。
周囲にいる生徒も、誰一人ジェイクへ畏まってはいない。
リゼが彼らのやりとりを戸惑って眺めていると、笑い声が上がる。
「ごきげんよう」「お久しゅうございます」「よいお日和ですこと」
「お会いできて光栄です」「先日はお招きいただき――…」
どこを向いても上流階級の会話ばかりの学園で、こんな普通っぽい会話が聞けるとは……
それもロンバルド派のトップのお坊ちゃんだぞ。
正気の沙汰とは思えない。
だが困ったことに、リゼは完全に立ち去るタイミングを失ってしまった。
別に立ち聞きしたかったわけではない。
ただ、思っていた姿との落差が大き過ぎて、つい見てしまっただけだ。
御三家の人間にも、あんな風に笑う人がいるのか。
そんな失礼極まりないことを考えていた、その時だった。
「誰か――! すまない、手を貸してくれ!」
中庭から慌てた声が響いた。
全員が一斉に欄干から身を乗り出して下を見る。
リゼも釣られるように、視線を向けた。
「えっ、大丈夫!?」
リゼは予想だにしなかった光景が視界に入って、大いに慌てた。
庭へ続く通路の近くで、一台の荷車が片側へ大きく傾いていた。
車輪の一つが軸から半ば外れ、そちら側の荷台が地面すれすれまで沈んでいる。
荷台には大小いくつもの木箱が積まれている。
傾斜に沿って箱も片側へ寄っているが、何を運んでいるのかまでは二階からでは分からない。
車輪が突然壊れたのだろう。
数人の職員や作業員が、荷車そのものと、今にも崩れ落ちそうな木箱を必死に支えている。
「ちょっと待ってろ!」
「え?」
リゼが声を上げるより早く、ジェイクは欄干へ片手を掛けた。
そのまま、ひょい、と身体を乗り越える。
「ジェイク!?」
リゼより、上級生達の声の方が大きかった。
中庭側は地面が一段高く、ここからなら通常の二階ほどの高さはない。
そりゃ階段を降りるより飛び降りた方が早いのは理屈では分かる。
だが普通の人はそれができないから階段を使うわけで……
骨大丈夫!?
リゼはぞわっと背筋が凍った。
ジェイクは迷う素振りすら見せず、芝生へ飛び降りたのだ。
着地と同時に一度膝を曲げ、そのまま何事もなかったように荷車へ走っていく。
「……何、今の」
リゼは呆然と呟いた。
上級生達は慣れているのか、大して驚いた様子もない。
「全く、あいつはすーぐ身体が動くー」
「じゃ、行こうぜ」
「俺らは階段使う?」
「ったりまえだろ!」
ガヤガヤとやかましいながらも、行動はスピーディだ。
彼らは一斉に階段へ走っていった。
リゼだけがその場に残される。
下を見ると、ジェイクは既に荷車の横へ辿り着いているようだ。
「これ、先に降ろせばいいか?」
「ですが、ジェイク様――」
「いいから、支えてる方が危ないだろ」
ジェイクは傾いた側へ回り込み、荷台の端までずれていた一番大きな木箱を抱え上げる。
重いはずなのに、まるで大したことではないように地面へ降ろした。
次。その次。
荷物が減るにつれて、荷車を押さえていた作業員達にも少しずつ余裕が生まれる。
上級生達も庭へ到着し、次々と箱を受け取っていった。
「そっち積んでくれ!」
「はいよ!」
「こっちは?」
「軽いから後で」
先ほどまで必死だった作業員達の表情にも、ようやく安堵の色が浮かぶ。
「ここまでしていただいたら大丈夫です。
後は私達で箱を全て搬出します。
ああ、別の荷車を持ってこなければ」
危機は去った、と言わんばかりの安堵の声が聞こえた。
中に何が入っているのかは分からないが、落として壊していいものではないだろう。
作業員達も生きた心地がしなかったに違いない。
「…………」
リゼは欄干へ近づいた。
先ほどから揺らいでいたリゼの先入観が、その光景でとうとう崩れた。
何だろう。
妙な光景だった。
少なくとも、リゼが想像していた「貴族」らしい光景ではない。
ジェイクがまた箱へ手を伸ばす。
その時だった。
「あ……!」
傾いた荷台の高い側――!
大きな箱の陰に隠れていた小さな木箱が、傾斜に沿って少しずつ滑り始めている。
大きな箱が死角になって、ジェイクからは見えない位置だ。
滑っていく先には、ちょうど彼がいる。
「危ない!」
考えるより先に声が出た。
「上! 落ちます!」
「――っ!」
ジェイクが顔を上げた。
次の瞬間、小箱が荷台から滑り落ちる。
ジェイクは片腕を伸ばし、咄嗟にそれを受け止めた。
「よ…っと」
「ジェイク、大丈夫か!?」
「ん、平気だ。地面に落としてないからセーフ」
ジェイクは箱を抱え直し、それから声のした方――二階の回廊を見上げた。
リゼと目が合う。
「助かった、サンキュー!」
にっと笑った。
「…………」
リゼの心臓が、どくん、と大きく鳴った。
???
今のは何だ。
ただ、お礼を言われただけだ。
それなのに、心臓だけが妙に騒がしい。
特別なことなんて、何もない。
きっと誰に助けられても、彼は同じように礼を言って、同じように笑うのだ。
そう、リゼだけに向けられた特別な笑顔ではない。
「……え?」
自分でも意味が分からない。
ジェイクはもうこちらを見ていなかった。
何事もなかったように小箱を地面へ置き、また別の荷物へ手を伸ばしている。
「ほら、お前らも手伝え! まだ残ってるぞ」
「やってるって!」
「こういう時こそ騎士見習いの出番だな」
「困ってる人を助けて――ついでに卒業後の騎士試験の評定でも上げてもらおうぜ!」
「イエーイ!」
「俺の管轄じゃないから知らん」
馬鹿馬鹿しい掛け声と共に笑いが起こる。
作業員達までつられて笑っていた。
「そんな、皆様のお手を煩わせるようなことでは……」
「気にするな。
これから誰か捕まえて、荷車持ってこさせて――
積み替えしたらいいんだろ?」
「恐縮です」
「……それはいいんだけどさ、ジェイク。
ここは俺らが最後まで付き合うし」
「お前、これから生徒会だって言ってなかった?」
ぴたっ。
ジェイクの動きが止まる。
「…………」
数秒。
「あ」
橙色の瞳が見開かれた。
「やべ! 完全に忘れてた」
「忘れてたのかよ!
初日から遅刻かよ!」
「今思い出しただけだ」
「世界はそれを忘れてたって言うんだぜ」
ジェイクは慌ててその場を立ち去ろうとしたが――数歩走ったところで、また止まった。
「……鞄!」
ジェイクは何も持っていない自分の両手を見下ろし、一、二度グーパーと動かす。
先ほどまでいた二階の回廊、欄干の近くに彼の黒い鞄が置き去りになっている。
そして、その傍にいるのはリゼだけだ。
大変、嫌な予感がした。
ジェイクがこちらを見上げる。
「おーい!」
「えっ」
「悪い! 俺の鞄、落としてくれ!」
「…………は?」
「そこにあるだろ!」
そりゃありますけど!?
「お、落とす!?」
――嘘でしょ?
「早く!」
「これを!?」
リゼは恐る恐る鞄を持ち上げた。
上質な革。
触っただけで分かる。
絶対に高い、自分が普段使っている鞄とは比べものにならない。
ロンバルド侯爵家の嫡男が使う品なのだから当然だ。
ひぃぃぃ、と内心で悲鳴を上げたが……
ここでぐずぐずしていては、彼が困ってしまうのだ。
ええい、ままよ、とリゼは鞄を落とした。
黒い鞄が宙を舞った。
ぱしっ、と乾いた音。
鞄はあっさり彼の手に収まった。
「サンキュー!」
また笑った。
「…………」
「じゃ、後は頼んだ!
別の荷車手配してくるから――そっちに積み替えてやってくれ!」
「おう、任せろ!」
「ジェイクの査定、俺達にも一割寄越せよ!」
「何の査定だよ!」
叫び返しながら、ジェイクは鞄を肩へ引っ掛けて走り出した。
恐らく事務棟へ寄って、代わりの荷車を手配してから生徒会へ向かうつもりなのだろう。
正確な生徒会室の場所は知らないが、この東館とは正反対の西館にあったはず。
間に合うのかなぁ……
いや、何時開始か分からないけど。
「…………」
残されたリゼは、欄干の前で立ち尽くしていた。
下ではまだ、上級生達と作業員が楽しそうに箱を運んでいる。
壊れた荷車。
積み上げられていく木箱。
遠ざかっていく赤い髪。
「……何、これ。
え? 嘘、何これ……」
リゼは胸元を押さえた。
まだ少し心臓が速い。
今日は驚くことが多過ぎただけだ。
二階からいきなり飛び降りるし、鞄を投げろなんて言い出すし。
そう。
きっと全部、驚いただけだ。
そういうことにしておきたかったが、どうにも無理がある。
「………どうしよう。」
欄干に背を向け、その場に立ち尽くす。
顔が熱くて、蒸発しそう。




