第11話 <リタ>
王立学園に入学して、もう四日が過ぎてしまった。
時間が経つのはあっという間だ。
リタは未だに、自分がどうしてこの学校に合格したのかよく分かっていなかった。
三人揃って受験すると決まった時も、本当に入学出来るとは思っていなかったのだ。
リゼなら分かる。
昔から勉強が得意で、難しそうな本だって平気な顔で読んでいる。
実際、入学試験ではあのシリウスと同点だったというのだから、姉ながら凄いと思う。
リナだって分かる。
勉強はそんなに得意ではないが、何をさせてもそつがない。
物覚えも良いし、人と話すのも上手だ。
リタとリゼが揉めれば、最後には大抵リナが双方の言い分を聞いて話をまとめてくれる。
では、自分はどうなのだろう。
筆記試験で特別良い点を取った覚えはない。
面接でも立派なことを言った記憶はなく、途中から質問の意味がよく分からなくなって、かなり適当な返事をした気さえする。
シリウスやリゼが話していた最終問題など、ちらっと見ただけで諦めた。
――逆立ちしても解ける気がしない意味不明な問題に、解ける奴がいるか!
そう憤ったものだが。
いたわ。
自分の身内に。
どうせ落ちると思っていたから、受験にも気楽に参加した。
むしろ一度、王立学園という場所を見てみたかったのだ。
王族をはじめ、名だたる貴族の子女が通う学校。
綺麗な制服を着たお嬢様達が立派な校舎を歩き、放課後には庭園で夜会やドレスや宝石の話をする。
リタの中にあった王立学園は、ほとんどおとぎ話の世界そのものだった。
昔から、そういう物語が好きだった。
美しいお城。
きらきら輝く舞踏会。
何枚もフリルが重なった綺麗なドレス。
そして最後には、素敵な人が現れて、お姫様へそっと手を差し伸べる。
幼い頃、母に同じ本を何度も読んでもらった。
内容を覚えてしまってからも、もう一度とせがんだほどだ。
自分もいつか、そんな女の子になれたらいい。
誰にも言ったことはないけれど、ずっとそんな憧れを持っていたのである。
もっとも、自分がお姫様向きでないこともよく分かっていた。
じっと座っているより身体を動かす方が好きだし、気になるものがあれば考えるより先に近寄ってしまう。
村にいた頃は木登りもしたし、柵だって平気で飛び越えた。
一応、
今日からお淑やかにしよう!
と決意したことは何度もある。
…が、長続きした試しは一切ない。
だからこそ、自分とは正反対の、綺麗な服を着て優雅に笑うお姫様へ憧れたのかもしれなかった。
どうせ試験には落ちる。
それなら一度くらい、本物の王立学園を見てみたい。
最初はその程度だったというのに――何の間違いか、三人揃って合格してしまった。
しかも特待生として入学出来るという。
知らせを受け取った時には、家族全員で何かの間違いではないかと疑った。
『え? 三人分の仕送り……?』
と、母親が卒倒しかけたのを支えた記憶も新しい。
それでも、入学することになった時は嬉しかった。
王都へ行ける、しかも貴族の通う王立学園!
おとぎ話みたいな世界を、自分も少しだけ覗けるかもしれない。
世界中の全てに「ありがとう」と言って回りながら踊り出したいほど嬉しかったのだ。
しかし現実は、想像していたよりずっと大変。
校舎は確かに綺麗だった。
石造りの大きな建物も、手入れされた庭園も、村では見たことがないほど立派だ。
白いジャケットに濃紺のスカートという制服だって、とてもおしゃれだった。
初めて袖を通した時には、鏡の前で少しだけ嬉しくなった。
これを着れば、自分も多少はお嬢様らしく見えるかもしれない。
そんなことまで考えた。
本物の王子様もいた。
絵本からそのまま抜け出してきたような人で、遠くから見ただけでも少し感動した。
だが当然ながら、王立学園にいるのは王子様だけではない。
目がチカチカして視力を失いそうになるほど美しい貴族がたくさんいる。
田舎の村では、一生に何度会えるか分からないような人達が、ここでは右を向いても左を向いても歩いている。
それだけでも十分落ち着かないのに、入学して初めて知った。
貴族の世界は、おとぎ話みたいに単純じゃない!
誰がどの家の人間で、どの家同士が親しくて、誰にどんな挨拶をすればいいのか。
どこまで気軽に話しかけてよくて、何を口にすれば失礼になるのか。
平民出身のリタに、そこまで完璧な振る舞いを求める生徒はいない。
それでも、珍しいものを見るような視線を向けられることはある。
リゼとリナが一緒だから何とか普段通りにしていられるだけで、一人だったらと思うと少し怖い。
――でも。
脳裏に、カサンドラの姿が浮かんだ。
王子の婚約者だということで、何も知らないリタでもすぐに覚えた侯爵令嬢。
本当に同い年なのかと疑いたくなるほど整った顔立ちと、堂々とした立ち姿。
どこからどう見ても高嶺の花なのに、そんな彼女が自分達へ声を掛け、助けてくれた。
カサンドラの友人のデイジーも気さくなお嬢様だった。
それだけで、
――もう少しここで頑張ってみようかな。
と思えたのである。
貴族だから怖い人ばかり、というわけでもないらしい。
問題は、同じクラスの御三家男子だろう。
一昨日は図書室でシリウスに叱られた。
昨日は階段から足を滑らせたところをジェイクに見られた。
ジェイクは別に怒っていたわけではない。
それでも、やはり別世界の住人という感じがする。
下手な失言をしたら人生が終わりそう。
自分のうっかりが原因だというのに酷い思考回路だとは思うが、プレッシャーしか感じない。
出来るだけ目立たず、空気のように過ごしたい。
「……もう少し、頑張ってみよっかな。
カサンドラ様みたいなお姫様もいるって分かったし」
ふわふわした花のプリンセスというより、気高い薔薇の王女。
その美しい外見に似合わず優しく笑うカサンドラを思い出し、リタは少しだけ気分を浮上させた。
「それにしても、この学園、広すぎ」
放課後一人で校舎を歩きながら、リタは小さく呟いた。
学園探検だ!と張り切って別行動をしてみたものの、想像以上の広さで少し不安になってくる。
ここはどの辺りだろう。
窓の外を確認しようと近づいたところで、硝子の手前を何かがばたばたと飛び回っていることに気づいた。
「あ、蝶」
いつ入り込んだのだろう。
校舎のすぐそばには大きな庭木が並んでいるから、開いていた窓から迷い込んだのかもしれない。
小さな蝶は外へ出たいらしく、何度も窓硝子へ向かって飛んでは跳ね返されていて可哀想だ。
「そっちじゃないよ。ちょっと待ってね」
リタは迷わず両手を伸ばす。
虫くらい、別に怖くも何ともない。
何度かひらりと逃げられたものの、最後にはそっと両手の中へ蝶を包み込む。
「捕まえた」
別の場所の開いている窓を見つけ、外へ向かって両手を広げた。
蝶は一瞬だけ掌の上へ留まった後、ふわりと空へ舞い上がる。
「よし。
今度は入って来ちゃダメだよー」
飛んでいく蝶を満足げに見送り、手を引っ込める。
蝶はひらひらと舞いながら、庭の花壇の方へ飛んでいく。
まるでドレスを纏った令嬢を思わせる美しさ。
…自分にはない輝きだ。
「あー……」
蝶の羽が触れた時についたらしい。
そのまま制服で拭くわけにもいかず、リタはポケットから白いハンカチを取り出した。
リナが刺繍してくれた、三人お揃いのものだ。
手を拭こうとハンカチを広げた、その瞬間。
開け放しの窓から、春の風が勢いよく吹き込んだ。
「――!」
突風を顔面の横から受け、思わず両目を閉じてしまった。
白い布が大きく膨らみ、指先からするりと抜けていく。
「えっ、あっ、待って!」
慌てて手を伸ばしたが、届かない。
ハンカチは窓の外へ舞い出し、そのまま風に煽られて下へ流れていった。
リタは慌てて窓から身を乗り出す。
「うそでしょ!?」
三階から落ちた白い布は、ひらひらと風に流され――校舎脇に立つ背の高い木の枝へ絡まった。
「えええー!」
リタは可愛くない悲鳴を上げた。
「やっば。あれ、リナに刺繍してもらったやつ!」
おのれ、昨日に引き続き風が!
私の邪魔をするっ!
ダッシュで一階の庭まで降り、ハンカチの引っ掛かった木を探した。
枝の先で揺れている白いハンカチを見つけると、反射的に樹の肌へ手を触れる。
「よし……いける」
このままハンカチを放置するなどできない。
リナに正直に言って謝れば、同じものを刺繍してくれるだろう。
でも、彼女の優しさにあぐらをかくようで申し訳ない。
何より、あれは三人お揃いの柄!
絶対なくしたくない。
「これくらいなら大丈夫!」
誰に言うでもなく呟いて、鞄を木の根元へ置いた。
白いジャケットの裾を軽く整える。
濃紺のスカートなのが少々動きづらいものの、登れないわけではない。
幹へ手を掛け、靴の先を窪みへ乗せた。
身体を持ち上げる。
一段。
もう一段。
久しぶりではあったけれど、別に難しくない。
村にいた頃ならこれよりずっと高い木にも登ったし問題ない。
太めの枝へ足を掛け、そこから身体を伸ばす。
ハンカチはもうすぐそこだった。
「あとちょっと……」
指先を伸ばす。
白い布へ触れる。
もう一度腕を伸ばして、今度こそしっかりと掴んだ。
「取れた!」
高らかと白いハンカチを掲げ、勝利のポーズ。
再び風が吹き、リタは慌てて胸元へしまった。
もうどこにも行くんじゃないぞ、ハンカチよ。
そもそも自分が手を離したのが原因だということは棚に上げ、リタは胸元のポケットを制服の上からバシバシと叩く。
よし、あとは降りるだけ。
来た時と同じ枝へ足を掛けようと、下へ視線を向けた。
その時だった。
少し離れたところに、白いものが一瞬視界へ入り込む。
最初に目に入ったのは、学園の白い制服のジャケットだった。
生徒全員が着ている、かっこいいおしゃれな制服。
木から十数歩離れた別の大きな木が作る木陰に、洒落たベンチが置かれている。
そこに、一人の男子生徒が座っていた。
膝の上には何枚かの紙が広げられている。
遠目にも、音符らしきものが並んでいるのが分かった。
そして――蜜色の長い髪。
深い赤色の瞳。
その瞳が、ちょうどこちらを見上げていた。
思いっきり、目が合う。
「…………」
男子生徒は僅かに目を見開いた。
けれど何も言わず、その視線をすぐ手元の譜面へ戻す。
リタは固まった。
見間違えるはずがない。
同じ教室にいる、御三家の一人。
――ラルフ様だぁぁぁぁ!
「…………」
あちらは何も言わないし、視線はもう手元の譜面へ戻っている。
けれど、一度目が合ってしまった以上、見られていなかったことにはできないのだ。
リタの頭の中が真っ白になった。
いつから!?
ねぇ、いつからいたの!?
もしかして、自分がここへ走り込んで来た時から?
鞄を放り出したところも。
スカートで木によじ登ったところも。
全部見られていたという理解で宜しいか?
「マジで……?」
一気に顔が熱くなった。
よりにもよって、どうしてまた御三家なのだ。
しかもラルフは、昨日のジェイクとはまた違った意味で近寄りがたい。
物腰は穏やかだし、怖い顔をしているわけでもない。
むしろ、同じ教室の女子達がよく話題にするほど整った顔立ちをしている。
だからこそ余計に恥ずかしい!
こんな人に、木登りしているところを見られた。
お姫様みたいになりたいなどと思っているくせに。
今日からお淑やかにしようと、今まで何度決意したことか。
それなのに結局、困っている蝶を見つければ素手で捕まえ、ハンカチが飛べば迷いなく木に登っている。
王立学園の制服を着れば少しくらいお嬢様らしく見えるかもしれないと喜んだくせに、その白いジャケット姿で木によじ登っていたのだ。
やっぱり自分はどこにいても”こう”なんだろうな。
恥ずかしい。
今すぐ降りたい。
出来れば何もなかった顔をして、さっさとこの場から消えたい。
そう思った瞬間、身体の動きまで焦ってしまった。
いつもなら、絶対に間違えない程度の枝。
登ってきた時に使った足場なのだから、落ち着いて足を戻せばいいだけだった。
なのに、慌てて下ろした爪先が枝を捉え損ねてしまう。
「わっ!」
足が空を切る。
身体がぐらりと傾いた。
咄嗟に近くの枝へ手を伸ばす――けれど指先は届かない。
代わりに、腰の脇あたりのスカートが枝に引っ掛かる。
びりっ、と嫌な音が響いた。
まるでこの世の絶望を煮詰めたような音。
「えっ」
何が起こったのか理解するより先に、支えを失った身体が下へ落ちる。
幸い、もう地面まではそれほど高くない。
それでも、昨日のように綺麗に着地する余裕などなかった。
「ぎゃっ!」
片膝を地面へつき、両手まで土についてしまった。
数秒、動けず固まる。
痛いからじゃない、呆然としていただけだ。
あまりにも恥ずかしすぎる…
昨日は階段から落ちても、ちゃんと立てた。
自分でも何故あんなことが出来たのか分からなかったけれど、とにかく怪我もせず綺麗に着地出来た。
なのに今日は、たかが木から降りるだけでこれである。
よりにもよって、ラルフの目の前で。
「さ、……最悪……」
このまま消えてしまいたい衝動に駆られるのも当然だ。
いつまでも恥を晒すわけにもいかず、小さく呟きながら立ち上がろうとしたのだが。
ふと、違和感を覚えた。
何かがおかしい。
恐る恐る、自分の制服へ目を向ける。
「…………」
濃紺のスカート。
腰の少し下から、布が三角形に大きく裂けていた。
しかも一本線で破れたわけではなく、スカート上部の布が「もげた」ようになり、切れ端が枝に残っている。
え、このまま立ったら。
え!?
……見える……!?
リタは絶句した。
「うそぉ……」
もう帰りたい。
いや、帰るためには校内を歩かなければならない。
この格好で。
自分のジャケットを腰へ巻けばいいのだろうが、更に上着を脱ぐという行為も恥の上塗りのようで抵抗があったのだ。
「……むり」
思わず両手で裂けた部分を押さえた。
下に着ているものが全部見えているわけではない。
けれど、腰の少し下から三角形に大きく裂けたそこは、かなりエグいスリットになっている。
貴族の令嬢達なら絶対にこんな姿にはならない。
いや、お姫様どころの話ではなかった。
「大丈夫?」
突然、うずくまった背後から声を掛けられ、リタは飛び上がりそうになった。
顔を上げる。
さっきまでベンチにいたはずのラルフが、数歩先まで来ていた。
膝の上にあった譜面は、ベンチの上へ置かれている。
「あ……」
ますます顔が熱くなる。
見られた。
当然、全部見られている。
「だ、大丈夫です!」
思ったより大きな声が出た。
「ごめん、僕が驚かせたね」
「!? いえ、違いますよ!?」
私がアホだっただけなので!
――悲しいかな、それが事実である。
「怪我はなさそうだけど……」
彼の視線が一瞬だけ下がる。
裂けたスカートに気づいたのだと分かった。
――神様お願いします。
この記憶を私とラルフ様の頭から綺麗さっぱり消し飛ばしてください。
だが現実は無情。
何も変わりはしないのだ。
「…………」
ハンカチが飛んだから。
木へ登ったのは仕方がなくて。
いつもこんなことをしているわけではない。
いや、村では結構していた。
でも王立学園へ来てまで木へ登ろうと思っていたわけではない。
頭の中では言葉がいくつも浮かぶのに、口からは何も出てこなかった。
そんなリタを見て、ラルフは僅かに目を細めた。
笑ったわけではなく、困ったような顔でもなかった。
ただ、何も言わずに自分の白いジャケットの前へ手を掛けた。
「……え?」
留め具を外し、そのまま上着を脱ぐ。
白いジャケットの下には、同じ学園指定の濃紺のベストと白いシャツが見えた。
ラルフは脱いだ上着を軽く整えると、リタへ差し出した。
「これ、使うといいよ」
「え……?」
「そのままだと、寮に戻れないよね?」
リタは差し出された上着とラルフの顔を交互に見た。
「で、でも……ラルフ様が」
制服がないと困るのでは?
「僕なら大丈夫。今日は暖かいし、しばらくここにいるつもりだから」
穏やかな声だった。
「あ……ありがとうございます」
恐る恐る受け取る。
ラルフの上着は、自分のものよりかなり大きかった。
腰へ巻いて前で袖を結ぶと、裂けてしまった部分がちょうど隠れる。
白い布が濃紺のスカートの上を覆った。
「……隠れた」
思わず呟く。
顔を上げると、ラルフが微笑んでいた。
その笑顔を見た瞬間、リタの胸が妙な跳ね方をした。
「あ、あの。これ、すぐ返します」
「気にしなくていいから。
気をつけてお帰り」
「でも」
「ああ、そうだ。校舎へ戻るなら、正面へ回るより西側の回廊を使った方がいい。
今の時間なら、ほとんど人が通らないと思う」
リタは何も言えなくなった。
ラルフはそんな彼女を急かすでもなく、少しだけ身体を横へずらした。
それでようやく気づいた。
ラルフは最初の一瞬で事情を察してから、裂けたスカートへ一度もまともに視線を向けていない。
リタが恥ずかしがっていることまで分かった上で、何も気づいていないように振る舞ってくれていたのだ。
「……ありがとうございます」
今度は、さっきよりずっと小さな声になった。
「どういたしまして」
それだけ言って、ラルフはベンチへ戻った。
置いてあった譜面を手に取り、何事もなかったように再び目を落とす。
もうリタの方を見ない。
早く行けとも言わない。
自分が見ていない間に、好きな時に立ち去ればいい。
そういうことなのだろう。
リタは木の根元へ置いていた鞄を拾い上げ、少しの間ラルフを見つめていた。
木々の間から差し込む午後の光。
白いシャツに濃紺のベスト。
長い蜜色の髪。
膝の上に広げられた譜面。
静かな庭のベンチで一人、音符を目で追っている姿は、少し前まで自分が思い描いていた王立学園の景色そのもののようだった。
おとぎ話の中で、困っている女の子へそっと手を差し伸べる王子様みたい。
「…………」
胸が、急にうるさくなった。
どくどくと、今まで聞いたことがないくらい大きく鳴っている。
顔も熱い。
さっきまで恥ずかしかったせいだと思っていたけれど、どうもそれだけではないらしい。
ラルフの指先が、譜面の上で小さく拍子を刻んでいる。
――落ちる音がした。




