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第10話 聞かなかったことにします

 早いもので今日は木曜日、入学してから四日経過した。


 カサンドラは朝から、机の上に広げた一枚の用紙と睨み合っている。

 先日配られた選択授業の履修申請書だ。提出期限が近い。


 指定された枠ごとに記入しなければならないが、この申請は一度提出すれば終わりではない。

 翌週分はまた来週。その次も、また次の週。

 基本となる共通授業以外は、毎週希望を出して予定を組み直す仕組みなのだという。


 最初に説明を聞いた時にも思ったけれど…


 週単位って、ものすごくゲーム的ではないだろうか。

 ああ、ゲームの世界だからこんな無茶な仕組みに…?


 ゲーム内でも主人公は一週間ごとに行動予定を組んでいた。

 選んだ予定によって各能力が上下し、条件を満たせばイベントが発生する。

 画面上では、数回ボタンを押すだけだった。

 それが現実では、教師がいて、教室があるわけだ。

 当たり前のことだけど、ゲームで一瞬だった一週間を本当に七日かけて過ごすのだと思うと、妙な気分になる。


 思わずため息をつき顔を上げ、無意識に彼の姿を探す。

 少し離れた席には王子がいる。

 今日も、話しかける隙がなかったことが痛恨の極みだ。


 朝はシリウスと書類を確認していた。

 一つ目の授業が終わると、王子の隣の席に座っているジェイクがそのまま王子に向き直る。

 頬杖を突きながら、「そういえばさー」と気軽に話しかけていて隙が無い。

 その後には上級生から呼び止められ、昼食前にはラルフと一緒に教室を出ていった王子。

 もちろん、どれも不自然ではない。

 この間廊下で彼と話ができたのは、もしかして超幸運だったのでは?


 婚約者なのだから、普通に声を掛ければいい…

 そんなの、頭では分かっている。

 けれど、誰かと話している王子のところへ近づいて、


『お時間を頂戴できますか』


 などと言うのは、思った以上に勇気が必要だ。

 以前のカサンドラなら、それを当然の権利としてやっていただろう。


 今の自分が同じことをすれば、周囲にどう映るか…想像しただけで二の足を踏む。

 婚約者なのにいつまでも遠巻きにしていれば不自然に見えるだろうし、かといって誰かと話しているところへ毎回割り込むのも違う気がする。


 いや、それは自分への言い訳か。

 正直…怖いのだ。


 机の下でぎゅっと拳を握りしめる。

 未来に起こることを知っていて、でも防ぐ手段を知らなくて。


 もしここで自分が王子との関係構築に失敗し、真実を明らかにできなかったら?

 彼を救いたいという努力の方向が違ったら、取り返しがつかない。

 あの時、別の選択をすればよかったと後悔したって現実は巻き戻らない。


 王子を救いたいと願うなら失敗は許されない一発勝負、ノーリセ・ノーロード!

 縛りプレイは苦手なので、知らずに臆病になってしまうのだ。


「……明日があります」


 自分に言い聞かせるように呟いた。

 明日は金曜日だから、放課後には生徒会の顔合わせがある。

 さすがに同じ部屋で、生徒会の一員として顔を合わせるのだ。

 一言も話せない、なんてことはないだろう。


 ……多分。


 カサンドラは少しだけ不安を覚えながら、再び履修申請書へ視線を落とした。



 ※



 午後の授業が終わり、廊下のあちこちでは「ごきげんよう」「さようなら」と帰りの挨拶が交わされていた。

 履修申請書を教務室に提出し、カサンドラは図書室に行こうと廊下を歩いていたのだが――

 借りていた本を持ってくるのを忘れたことに気づいた。

 たしか教室の机に入れていたはずだ。

 広い学園を歩くのはかなり時間がかかる。

 特に図書室は棟が違うので、近くまで来たのに引き返すのはかなり億劫だ。


 遅々として進まない情報収集も辛くなってきた。

 このまま一階に降りて帰宅しようかという気持ちになって、チラリと階段の下を覗く。

 一階のホールまでまっすぐ続く階段の下には、左右へ伸びる廊下が見えた。

 その階下で女子生徒達が立ち話をしているのが目に入った、その時。


「あの人が王子の婚約者だなんて、信じられないと思いません!?」


 階下から聞こえた少女の声に、カサンドラの足が止まった。


「あの方、レンドール領でずっとお暮らしだったのでしょう?」


 今度は聞き間違えようがない。

 カサンドラは階段へ踏み出しかけた足をそっと戻し、入口脇の壁へ身を寄せた。


「王都の社交にもあまりお出にならなかったとか」


「それでいきなり王子の婚約者だなんて、不思議よね」


「同じクラスの方から聞きましたわ。

 せっかく王子と同じクラスになられたのに、随分とご遠慮なさっているそうよ」


「まあ。婚約者でいらっしゃるのに?」


「ええ。ほとんどお話しにもならないとか」


「あらあら、随分と控えめですこと」


「あの方、生徒会のお仕事、大丈夫なのかしら。

 皆さまの負担が増えなければ宜しいですけど」


「前に、あの方と会って泣かされた子がいるという噂もありますしね」


「あぁ…分かります、確かに…ねぇ。

 あのお顔…」


 くすくすと笑い声が重なった。


「まさに物語の中に出てくる悪役のイメージそのものですもの」


 ――うわぁ。


 カサンドラは、その場で完全に動きを止めた。

 誰の話をしているのかなど、もはや考える必要もない。

 自分である。

 それも、想像以上にぼろくそだった。


『せっかく王子と同じクラスになられたのに、随分とご遠慮なさっているそうよ』


 他のことは笑って聞き流せても、そこだけは妙に胸へ刺さった。


 そこは現状、まさにカサンドラ自身が気にしているところなのでクリティカルヒット。

 入学式の日には話せたものの、それ以降は婚約者だというのに、まともに話す機会を作れていない。

 話したいと思いながら、誰かが傍にいるだけで尻込みしているのは自分でも自覚しているのだが…


 ――そんなに簡単な問題ではないこともカサンドラには分かっている。


 だからといって休み時間のたびに王子のところへ押しかければ、今度はどうなる?


『王子のお時間を独占していらっしゃる』


『ご友人との時間まで邪魔なさるなんて』


『随分と束縛の強い婚約者ですこと』


 ……絶対、そういう話になる。

 婚約者なのだからもっと傍にいろ。

 でも王子の自由は邪魔するな。

 どうしろというのだ。


 王子の婚約者という立場は、思っていた以上に周囲に見られてしまうようだった。

 余計、下手なことはできない。

 きっとああいう人たちにとっては、カサンドラが何をしても気に入らないのだろう。

 だからいちいち傷つくなんて、馬鹿らしい。

 面と向かって言われていないだけで、同じような会話が学園のどこかで囁かれているのかもしれないし。


 でも…ちょっと、悔しい。

 王子に話しかける勇気が出ない理由を誰にも相談できないことが、この孤独感に拍車をかける。


 カサンドラは壁際から僅かに身を乗り出し、手摺越しに階下を覗いた。

 三人とも見覚えがある。

 入学前に叩き込まれた貴族名鑑の記憶を辿っていくと――

 腕を組んで数十秒、カサンドラはようやく記憶の池の底から情報を掬い上げることに成功した。

 いずれもヴァイル家と繋がりの深い家の令嬢だった。

 入学式の日、ラルフへ挨拶していた姿もうっすら思い出す。

 なるほど、と小さく息を吐いて壁に額を軽く押し付けた。


 自分やレンドール家に好意的ではないのも、そう考えれば理解は出来るというものだ。

 何とも言えない気持ちで、壁とお友達状態。


 このまま聞かなかったことにして廊下を引き返せばいいのだろう。

 一階に降りるルートはこの階段だけではない。


 かなり遠回りになるが、西側の階段を降りれば彼女たちに見つかる心配もないはず。

 だが、このまま言われ放題で傷つけられるだけというのも気持ちの良いものではない。

 そっと別の場所に行くべきか。


 ふと、もしも以前のカサンドラだったら、どうしただろう? なんて考えてしまった。


『ごきげんよう。随分楽しそうなお話ですこと。

 おーっほっほっほ!』


 ……駄目だ。

 今までのカサンドラならその行動一択だっただろうが、今の自分にはそんな真似はできそうもない。

 いや、流石のカサンドラでもそんなことしないはず。

 もっと穏やかに…


『ごきげんよう。

 皆さま、聞こえていましたわよ?』


 ……これも怖い。

 多分、三人とも青ざめる。

 場合によっては泣く。

 そうなれば今度こそ、『カサンドラに泣かされた』という噂が事実になってしまう。


 そもそも悪口大会開催中に本人の登場は、マナー違反かもしれない。


 何も聞かなかったことにして、そっと引き返そう。

 それが一番平和だ。

 カサンドラが静かに踵を返しかけた。


「先輩方、ごきげんよう」


 階下から、聞き覚えのある柔らかな声がした。

 思わず足を止め、再びそっと覗く。

 右手の廊下から歩いてきたリナが、三人へ小さく頭を下げたところだった。

 そのまま通り過ぎようとしたリナを、一人の令嬢が呼び止める。


「あら、あなた」


「私、ですか?」


 リナは周囲をきょろきょろと確認し、足を止めた。


「そう、あなたは特待生で入学した方よね?」


「そうですけれど……」


「確か、カサンドラ様と同じクラスでしょう?」


「はい」


「でしたら、ちょうど良かったわ」


 リナが不思議そうに首を傾げる。


「実際のところ、どうなの?」


「……?

 申し訳ありません。何のお話でしょうか?」


「カサンドラ様のことよ。

 あなた、何か嫌なことを言われたりしていない?」


「え?」


 リナはきょとんとした声をあげる。


「遠慮しなくてもいいのよ。

 あの方、気性が激しいという噂でしょう?」


「平民出身の特待生なんて、目をつけられやすそうですもの」


「何かされたことくらいあるんじゃない?」


「ほら、こう…ねぇ?

 きっとクラスでも迷惑に思っている方もいらっしゃるのではないかと」


「ふふ、そうそう。

 きっとあなたも居心地が悪かったのではなくて?」


 リナは少し戸惑った様子で、三人を見回した。


「いえ。

 私は、何も」


「本当に?」


「はい。

 それどころか、全く印象が逆なのですが…

 私達姉妹が困っていた時には声を掛けてくださいましたし、昨日も妹のことを心配してくださいました」


「でも、色々とあの方の噂は耳にするでしょう?

 何せ、有名人でいらっしゃいますし」


 有名人、という単語がやたらと強調されて聞こえる。

 …嫌味だ。


「確かに私も、お名前は入学前から伺っていました」


 えっ、入学前から特待生の耳に入るほどの噂!?

 どれだけ悪評が広まってるの!?


 その答えに、令嬢達の表情が少し明るくなる。

 逆にカサンドラは、壁の陰でそっと顔を覆った。


「でしょう?」


「それなら、やっぱり――」


「実際お会いして、そうは思いませんでした」


 リナが静かに言葉を挟んだ。


「伺っていたお話とは随分違いましたよ」


「え?

 ……そうなの?」


「はい。

 私もまだ入学して数日ですから、カサンドラ様のことをよく知っているとは言えませんけれど」


 リナは少し考えてから、逆に尋ねた。


「皆様は、実際にカサンドラ様とお話しされたことがおありなんですか?」


 三人が顔を見合わせる。


「私は直接は……」


「社交の場でお見かけしたことがあるくらいですわ」


「私も、噂で聞いただけです」


「そうだったんですね」


 リナはほっとしたように息を吐いた。


「それなら良かったです」


「良かった?」


「皆様が実際にカサンドラ様とお話しして、嫌な思いをされたわけではなかったのですね」


 先ほどまで勢いよく話していた三人が、揃って黙り込んだ。

 カサンドラも壁の陰で目を瞬く。


 リナは『そんな噂は嘘だ』とは言わなかった。

 自分が実際に知っていることだけを話している。


「でも、本当に何もされていないの?」


 一人がまだ納得できない様子で尋ねる。


「はい」


 ここでリナからカサンドラの良くない話を一つでももぎ取って行けば、それが翌日の彼女たちの噂の種になる。

 きっと彼女たちの間ですくすくとお育ちになることだろう、何と恐ろしい話か。


「遠慮しなくても――」


「入学したばかりの後輩に対して、随分答えにくい質問をしているね」


 その時、さらに右手の廊下から男性の声がした。


「ラ、ラルフ様……!?」


 令嬢達の声が一気に強張る。


 ラルフが騒ぎに気付いて声をかけたようだ。

 彼がいつからそこにいたのかは分からないが、少なくとも今のやり取りは聞いていたらしい。


「ご、ごきげんよう、ラルフ様」


「ごきげんよう。

 ――クラリッサ嬢、エミリア嬢、ロザリン嬢」


 返ってきた声はいつも通り穏やかだった。


「新入生を困らせてまで、何を聞きたかったのかな?」


 ラルフの声はあくまでも優しく爽やかだ。

 実際に傍にいずとも、彼が穏やかに微笑んでいる表情が浮かんでくる。


「いえ、その……カサンドラ様について、少し」


「そう」


 ラルフは三人を見たあと、リナへ視線を移した。


「彼女はもう答えていたようだけど。

 それ以上、何を聞きたいのかな?」


「……っ」


「ただ、同じクラスなら何かご存じかと思いまして……」


「なるほど」


 ラルフは軽く嘆息をつく。

 この状況、無理矢理下級生を追い詰めている図にしか見えないだろう。


「そんなにカサンドラの事が聞きたいのなら、僕が代わりに答えても構わないよ。

 僕も同じクラスだからね」


 ラルフはなんて事のない口ぶりだが、カサンドラは生きた心地がしなかった。

 何を言われるか分かったものではない。


「いえいえいえ!

 そんな、ラルフ様にお伺いするなんて滅相もない…」


「僕に聞けないことを、彼女に聞いていたということ?

 あまり行儀の良い行為ではないと思うけどね」


 三人は恐縮しっぱなしで声が震えていた。

 真っ向から行為を止めたり、抑えつけるわけではない優しい声だからこそ逆に怖い。


「申し訳ございません」


「上級生として相応しい立ち居振る舞いをお願いするよ。

 今日は聞かなかったことにするから、気をつけて」


「あ…ありがとうございます」


 ラルフは怒ってはいなかった。

 カサンドラについて何かを言うこともない。

 ただ、上級生三人に囲まれて答えを求められていたリナへ、それ以上質問が向かないよう間に入っただけだった。

 三人はラルフへ小さく頭を下げ、その脇を通り過ぎていく。

 彼がやって来た方角へ、数人分の足音が遠ざかった。


 階下には、ラルフとリナだけが残る。


「……ありがとうございました」


 リナが頭を下げた。


「流石に聞き苦しかったものだから、つい割って入ってしまったよ」


「どうお答えすればいいか分からなかったので、助かりました」


「…うん、僕にもそう見えた」


 ラルフは大したことではないというように答えた。

 そこで会話が終わるかと思ったが、リナはしばらく令嬢達が去っていった方を見ていた。


「でも……どうして、あんな噂が広まっているのでしょう」


「噂?」


「はい。

 私がお話ししたカサンドラ様とは、随分違うことばかりで」


「さあね」


 ラルフは少し考えてから、肩の力を抜いたように答える。


「噂の真偽はともかく、いちいち振り回される必要はないと思うよ」


「……そういうものですか?」


「本人を知らない人のところまで、噂だけが先に届くことなんて珍しいことじゃない。

 それらを全部気にしていたらきりがないから」


「…………」


 リナは何も答えなかった。


「それじゃあ、僕はここで」


 ラルフは片手に抱えていた譜面を持ち直す。


「あ!

 …はい」


 ほんの少し遅れて、リナが顔を上げる。


「助けていただいて、ありがとうございました」


「どういたしまして。気をつけて帰って」


「ラルフ様も」


 ラルフの足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 リナは、すぐには動かなかった。

 俯いたまま、その場に立っている。


「……なんだか、少し寂しいな………」


 リナの小さな声が、静かな階段にそっと響いた。

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