奴隷兵の朝
翌朝、レオンは鐘の音で目を覚ました。
目覚めた瞬間、右肩が重く痛んだ。治癒魔法で楽にはなっていたが、完全に治ったわけではない。寝返りを打とうとして痛みに顔をしかめると、下段からガレスの声が飛んできた。
「起きたか」
「起きました」
「なら5分で着替えろ」
「今日は出撃ですか」
「違う。掃除だ」
レオンはしばらく黙った。
「掃除?」
「兵舎の床を見ろ」
上段から顔を出す。
泥、砂、乾いた草、誰かが落としたパンくずが板張りの床に散っている。昨日は疲れすぎて気にならなかった。
「当番なんですか」
「新入りの仕事だ」
「なるほど」
王宮では、床が汚れていることはあっても、自分が掃除するという発想はなかった。帝国の離宮でも同じだった。
レオンは箒を渡され、見よう見まねで掃き始めた。
数分後、ガレスが言った。
「下手だな」
「箒に上手い下手があります?」
「お前が証明してる」
「どうすればいいんですか」
「埃を舞わせるな。端から集めろ」
言われた通りにやる。
思ったより時間がかかった。
掃除が終わると今度は水場へ行くよう命じられた。兵舎の裏には共同井戸と長い石槽があり、すでに奴隷兵が列を作っている。
そこでミラを見つけた。
左脚にはまだ包帯が巻かれていたが、自力で立っている。昨日より顔色は良い。
「歩いて大丈夫なの?」
レオンが声をかけると、ミラは露骨に嫌そうな顔をした。
「朝からうるさい」
「心配しただけなんだけど」
「リーネが軽く動かせって言った」
「ならいいけど」
「何、その顔」
「別に」
「また助ける気?」
「今は転んでも灰牙犬が来ないだろ」
ミラが鼻で笑った。
昨日より会話が続いた。それだけのことなのに、少し嬉しかった。
レオンは石槽へ衣服を入れた。
周囲の者が灰色の粉を少量振りかけているのを真似して、自分も桶から粉をすくった。
「待て」
ミラが言った。
「何?」
「それ全部入れる気?」
「汚れてるから」
「馬鹿か」
「昨日からよく言われる」
「それ洗剤だぞ。そんなに入れたら泡だらけになる」
「どのくらい?」
ミラが指で少量を示す。
「これくらい」
レオンは手に持った粉を見た。10倍以上あった。
「危なかった」
「王子って洗濯もできないの?」
「元王子は、昨日まで洗濯する必要がなかった」
「すげえ嫌味に聞こえる」
「言ってから俺もそう思った」
ミラが小さく笑った。
ほんの少しだけだったが、初めて自分に向けられた笑いだった。
レオンは布を石槽へ入れた。
今度はこすり方が分からない。
「それじゃ落ちない」
また横から言われる。
「これ?」
「違う。貸せ」
ミラが奪い取り、石板へ布を押しつけてこすった。
脚を怪我している相手に洗濯を教わっている自分が情けない。
「ありがとう」
「金取るぞ」
「今、金ない」
「役立たずだな」
その言葉に、一瞬だけ身体が固まった。
王宮で何度も聞いた言葉だった。
ミラが気づいたのかは分からない。
レオンはすぐに手を動かした。
「それは昔から言われてる」
「ふうん」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
洗濯の後は朝食だった。
固い黒パンと豆のスープ。
最初の数口は味が薄いと思ったが、訓練と掃除の後では不思議と美味しかった。
「食ったら外へ来い」
ガレスが言う。
「何をするんです?」
「昨日やるはずだったことだ」
「剣ですか」
「その前に走る」
レオンはパンを持ったまま止まった。
「肩を怪我しています」
「肩で走るのか?」
「……走りません」
「なら問題ない」
問題がある気がしたが、ガレスは聞く耳を持たなかった。
兵舎裏の訓練場を10周させられた。
4周目で息が上がった。
6周目で脚が重くなった。
8周目では歩きたくなった。
「遅い!」
「肩が」
「さっき聞いた!」
「昨日人を背負って走ったんですけど!」
「今日も背負わせてやろうか!」
周囲の奴隷兵が笑った。
恥ずかしかったが、不思議と嫌ではなかった。
王宮で笑われたときとは違う。
あの笑いには、相手を下へ押し込むものがあった。
ここでの笑いは、自分も同じ場所で苦しんでいる者への笑いだった。
走り終えると、木剣を渡された。
ガレスが向かいに立つ。
「構えろ」
レオンは王宮で習った通り、左足を前へ出して剣を胸の高さに構えた。
「綺麗だな」
「どうも」
「褒めてない」
次の瞬間、木剣が手首を叩いた。
「痛っ」
剣を落とす。
「握りすぎだ。肩も上がってる。昨日と同じだ」
「王宮ではこれで」
「王宮の床は噛みついてこないだろ」
「床と戦ったことはありません」
「口だけは慣れてきたな」
ガレスが木剣を拾って投げ返す。
「構えろ。型は捨てなくていい。ただし型に殺されるな」
何度も打たれた。
手首、肩、脇腹、腿。
ガレスの木剣は痛い場所だけを正確に狙う。
「綺麗に振るな」
「綺麗に?」
「お前は剣を正しい形で振ることを考えすぎてる。敵は採点しない。生きて帰れる振り方を覚えろ」
レオンは歯を食いしばった。
また打たれる。
転ぶ。
起きる。
遠くから笑い声がした。
ミラが訓練場の端に座り、面白そうに見ている。
「何?」
「王子様、弱いなって」
「元だよ」
「知ってる」
「君もやってみる?」
「怪我人に負けたら立ち直れないだろ」
「そこまで弱くない」
言い終わる前にガレスの木剣が脇腹へ入った。
「ぐっ」
「よそ見するな」
ミラが声を上げて笑った。
昼になるころには全身が痛かった。
ガレスはようやく解放してくれたが、その代わりに言った。
「午後は治療所へ行け」
「治療ですか」
「手伝いだ。昨日かなり世話になっただろ」
確かにそうだった。
治療所へ行くと、リーネが大量の包帯を桶へ押し込んでいた。
「何か手伝えますか」
「水を替えてください」
「分かりました」
素直に桶を持つ。
重かった。
「王子様なのに働くんですね」
リーネが言った。
「昨日からその肩書きが役に立ったことが1度もないです」
「ここでは役に立ちませんね」
笑顔で言われた。
リーネは穏やかに見えるが、言うことは案外容赦がない。
水を運び、汚れた包帯を洗い、薬草を刻む。薬草の種類はまったく分からず、2度間違えて注意された。
治療所には昨日の戦闘で負傷した者がまだ何人も残っていた。
左腕を失った男もいる。
レオンは目を逸らしそうになった。
リーネが傷口を確認している。
「治癒魔法で腕は戻らないんですよね」
「戻りません」
「もっと強い魔法でも?」
「少なくとも私は知りません。切断直後で腕が残っていれば、専門の治癒術師なら接合できる場合があります。でも失われたものを作り直すことはできません」
「魔法なら何でもできると思っていました」
「そう思う人は多いです」
リーネが薬を塗りながら続ける。
「治癒も魔法も、できることとできないことがあります。だから怪我をしないのが1番です」
「ガレスにも言ってください」
「聞きませんよ、あの人」
思わず笑った。
午後の作業を終えて兵舎へ戻るころには、朝とは別の意味で疲れていた。
夕食を受け取る。
今日も黒パンとスープだった。
端の席が空いていたので座ろうとすると、ミラが顎で向かいを示した。
「そこ」
「いいの?」
「他が埋まってるだけ」
確かにそうだった。
ガレスも横へ座る。
3人で食べ始めた。
「毎日これ?」
レオンがスープを見ながら聞く。
「嫌なら俺がもらう」
ガレスが答える。
「嫌とは言ってません」
「王子はもっといいもの食ってたんだろ」
ミラが言う。
「昔はね」
「銀の皿とか?」
「祝宴では」
「肉は?」
「普通に」
「甘いものは?」
「出たよ」
ミラの目が少し細くなる。
「腹立つ」
「聞いたの君だろ」
ガレスが鼻で笑った。
「いい生活だったんだな」
その言葉に、レオンは返事を迷った。
食事は豪華だった。
部屋もあった。
服も困らなかった。
それをいい生活と呼ぶなら、いい生活だったのだろう。
「食べ物には困らなかった」
そう答えた。
ミラがこちらを見る。
「他には困ってたみたいな言い方だな」
「まあ、家族が多いと色々ある」
「王子って何人兄弟?」
「俺が第8王子だから、かなり」
「覚えてないの?」
「覚えてるけど、数えると疲れる」
ミラが少し笑う。
「変な家」
「それは否定しない」
虐待されたことまで話す気にはなれなかった。
同情されたくないからではなく、まだこの場所でそこまで自分を開く勇気がなかった。
夜、寝台へ入る前に、レオンは洗った服を確認した。
汚れは完全には落ちていないが、朝よりましだった。
隣を通ったミラが布を見る。
「まあまあ」
「先生がいいから」
「金ないくせに」
「借りにして」
「利子つける」
そんなやり取りをしてから、レオンは上段へ上がった。
身体中が痛い。
明日も朝から走らされると思うと憂鬱だった。
それなのに、不思議と昨日より眠るのが怖くない。
掃除をして、洗濯をして、剣を振って、包帯を洗い、同じ鍋のスープを食べた。
王子だったころには、自分でやる必要がないと思っていたことばかりだ。
けれど今日は、誰かが決めた王族の役割を演じる時間が1度もなかった。
ただレオンとして疲れた。
それが少しだけ心地よかった。




