生きて帰るまで
「何で戻ってきた」
背中でミラが繰り返した。
レオンには返事をする余裕がなかった。左肩に回された彼女の腕が首へ食い込み、脚を踏み出すたびに膝が揺れる。装備を含めれば背中の重さは60kgを超えているだろう。王族教育で最低限の鍛錬は受けてきたが、人1人を背負ったまま荒れた地面を走り続ける訓練など経験したことがない。
「話すな。舌を噛むぞ」
前を走るガレスが振り返りもせず怒鳴った。灰色の髪が混じった短髪の後頭部が上下し、その右手には血のついた長剣が握られている。
背後から灰牙犬の遠吠えが響いた。
近い。
レオンの背筋が冷えた。
「下ろせって言ってんだろ!」
ミラが耳元で叫ぶ。
「嫌だ」
「2人とも死ぬぞ!」
「それも嫌だ」
「なら下ろせ!」
「もっと嫌だ」
息が切れ、最後の言葉はほとんど音にならなかった。
自分でも馬鹿なことをしていると思う。ミラとは今日初めてまともに話した。こちらを嫌っているし、助けを求められたわけでもない。置いていけば、自分だけならもっと速く走れる。
それでも降ろせなかった。
王宮の廊下で倒れていた自分の前を、使用人が目を逸らして通り過ぎていった記憶が離れない。
あのときの自分は、声に出して助けを求められなかった。それでも誰かに止まってほしかった。
立派な理由ではない。ただ、自分が嫌だったことを他人にするのが嫌だった。
「右から来る!」
ガレスの声で我に返る。
崩れた石壁の向こうから灰牙犬が1匹飛び出した。レオンは反射的に足を止めかけた。
「止まるな!」
ガレスが踏み込み、長剣を横へ薙いだ。灰牙犬が身を捻り、刃を避ける。そのわずかな間にレオンは横を通り抜けた。
「ガレス!」
「振り返るな、走れ!」
背後で剣と牙がぶつかる音がした。
怖い。
もしガレスが倒れたらどうする。
戻るのか。
ミラを背負ったまま戦えるはずがない。
考えた瞬間、足が止まりそうになった。
「前を見ろ、レオン!」
また怒鳴られた。
レオンは歯を食いしばり、前を見る。
街道の先に、逃げていた奴隷兵が数人見えた。槍を持った人間の男と、片腕に盾をつけた獣人、それに小柄なドワーフがいる。
「ガレスが後ろに!」
レオンが叫ぶと、3人が足を止めた。
一瞬だけ迷いが見えた。
その気持ちは分かる。戻れば死ぬかもしれない。
「俺が行く!」
槍を持った男が走り出した。
獣人も続く。
ドワーフは舌打ちしてから盾を構えた。
数秒後、ガレスがこちらへ駆けてきた。後ろから灰牙犬が2匹追っている。
「槍!」
男が突きを放つ。
1匹が横へ逃げ、獣人が盾をぶつける。ドワーフが低い位置から膝を狙った。
完璧な連携ではない。
それでも1人ではない。
ガレスが追いついた。
「行くぞ!」
6人で再び走り出す。
遠くで角笛が鳴った。今度は短い音が3回続く。
「城門閉鎖の予告だ」
ガレスが言う。
「どのくらい?」
「最初の合図から半刻程度だ」
「間に合いますか」
「走ればな」
走れば、と言われても、レオンの脚はすでに自分のものではないようだった。
太腿が焼けるように痛い。肺が空気を求め、喉が裂けそうになる。
背中のミラが急に軽くなることなどない。
「下ろせ」
今度の声は小さかった。
レオンは答えなかった。
「もういい。あんた、十分やった」
「十分かどうかは俺が決める」
「何だそれ」
「俺にも分からない」
ミラが黙った。
城壁が見えてきた。
だが同時に、右側の荒野から別の灰牙犬の群れが現れた。5匹、6匹ではない。10匹近い。
正規兵が城門前で弓を構えている。
「奴隷兵、走れ! 射線を空けろ!」
怒鳴り声が飛ぶ。
残り100mほどだった。
レオンは最後の力を絞った。
足がもつれた。
身体が前へ倒れる。
ミラを地面へ叩きつけると思い、咄嗟に身体を捻った。右肩から地面へ落ち、視界に火花が散った。
「レオン!」
ガレスの声が遠い。
起きなければ。
灰牙犬が来る。
身体に命令しても右腕がうまく動かない。
そのとき背中の重さが消えた。
ミラが片脚で地面へ立ち、レオンの腕を引っ張っていた。
「立て!」
「脚は?」
「今それ聞くか!」
ガレスも戻り、反対側の腕を掴んだ。
「お前は本当に手間のかかる王子だな!」
「元です」
「知るか!」
2人に引かれ、レオンはどうにか立ち上がった。
次の瞬間、頭上を矢が飛んだ。
後方で灰牙犬の悲鳴が上がる。
正規兵の一斉射撃だった。
「走れ!」
門をくぐった直後、レオンはその場に膝をついた。
城壁の外で矢が飛び続け、最後の奴隷兵が転がり込むように門を通過した。重い扉が閉まり、外の咆哮が石壁越しの低い響きに変わる。
助かった。
そう思った瞬間、胃がひっくり返った。
レオンは地面に手をつき、朝食を吐いた。
「うわ」
ミラの声がした。
「こっち向いて吐くなよ」
「……ごめん」
「謝る前に離れろ」
脚を怪我しているくせに容赦がない。
それが妙におかしくて、吐き気の合間に笑いそうになった。
「笑ってんの?」
「笑ってない」
「気持ち悪い奴」
「それは否定できない」
ガレスが頭上で大きく息を吐いた。
「喋れるなら死なんな。治療所へ行くぞ」
「ミラを先に」
「見りゃ分かる」
ガレスが手を上げた。
近くにいた衛生兵が簡素な担架を持ってくる。
ミラが乗せられ、その後をレオンも歩こうとしたが、右脚を踏み出したところで膝が崩れた。
「お前も乗れ」
「歩けます」
「今倒れただろ」
「滑っただけです」
「灰の辺境じゃ、それを倒れたって言うんだ」
結局、別の担架へ押し込まれた。
治療所は石造りの細長い建物で、扉を開けた瞬間に血と薬草と汗の匂いが混ざって鼻へ入った。寝台はほとんど埋まり、床にも負傷者が横たわっている。
「重傷を奥へ! 歩ける人は壁際!」
女性の声が飛んだ。
声の主は22歳ほどに見えた。身長は160cmほどで、肩より少し長い栗色の髪を後ろで緩く束ね、淡い蜂蜜色の瞳をしている。柔らかな顔立ちなのに、今は眉間に深い皺が寄っていた。元は白かったらしい上衣には薄い茶色の染みがいくつもあり、右手首には古い火傷の痕が輪のように残っている。腰には薬袋が何個も下がり、背中には短い聖杖を背負っていた。
左腕にはレオンと同じ黒鉄色の《隷属環》が嵌められていた。
彼女がミラの脚を確認する。
「爪傷が深いですね。骨は……折れていません。血を止めます」
淡い光が掌に集まった。
レオンは初めて間近で本格的な治癒魔法を見た。傷口から流れていた血が徐々に弱まり、裂けた皮膚の一部が寄っていく。
「完全には治らないんですか」
思わず聞くと、女性がこちらを見た。
「誰です?」
「レオンです」
「患者なら順番を待ってください」
「彼女を先にお願いします」
「見れば分かります」
淡々と言われた。
ガレスが横で笑った。
「リーネ。こいつは今日来たばかりの馬鹿だ」
「昨日です」
「誤差だ」
リーネと呼ばれた女性はミラの処置を続けながら言った。
「治癒魔法は傷をなかったことにする魔法ではありません。組織の修復を促進し、出血を抑え、身体が自力で治るのを助けます。深い傷を無理に閉じれば内部に悪いものを残すこともあります」
「そうなんですね」
「腕が取れたら生えてきませんし、死んだ人も戻りません」
優しい顔立ちに反して、言葉ははっきりしていた。
「覚えておいてください。治癒魔法があるから怪我をしても平気だと思う人が1番困ります」
レオンは肩をすくめた。
「気をつけます」
「あなたも診ます」
「俺は大丈夫です」
「右肩が上がっていません」
指摘されて初めて気づいた。
落ちたときに打ったらしい。
リーネはミラの処置を終えると、レオンの前へ来た。袖をまくり、肩を触る。
「痛いですか」
「少し」
押された瞬間、鋭い痛みが走った。
「痛っ」
「少し?」
「……かなり」
「正直で結構です」
骨は折れていなかったが、強く打っているらしい。治癒魔法をかけられると熱を持っていた肩が少し楽になった。
隣の寝台から声がした。
「ねえ」
ミラだった。
顔色はまだ悪い。
「何?」
「あんた、本当に何で戻ってきたの」
レオンは少し考えた。
立派な理由をつけようと思えば、いくらでも言えた。
王族として見捨てられなかった。
同じ部隊だから助けた。
人として当然だった。
どれも嘘ではないようで、どれも違う気がした。
「置いていかれるのが嫌いなんだ」
ミラが眉を寄せる。
「それだけ?」
「たぶん」
「自分が死にそうになってまで?」
「今になって考えると、あまり賢くなかった」
「今さらかよ」
「うん」
ミラは天井を見た。
「次はやめろ」
「え?」
「同じことがあっても、次は置いてけ。2人死ぬより1人の方がましだ」
その言葉に胸が詰まった。
正しい。
ガレスもきっと同じことを言う。
でもレオンはすぐに頷けなかった。
「努力する」
「そこは、分かったって言えよ」
「できるか分からないから」
ミラがこちらを見て小さい声で言った
「……ありがとう」
「何か言った?」
「なんでもない」
琥珀色の瞳に、昨日までとは違う何かがあるように思えた。
その瞬間だった。
視界の端に、淡い光の粒が浮かんだ。
文字になる前に消えた。
レオンは瞬きをした。
疲れているのだと思った。
自分の天賦技能が反応した可能性など、そのときは思いもしなかった。
生まれてから1度も役に立たなかった《テイマー》が、狼獣人の少女に反応する理由などあるはずがないと思っていたからだ。




