置いていけ
ガレスの言った「明日まで生きていたら」は、比喩ではなかった。
夜明け前、兵舎の扉が蹴り開けられた。
「第6中隊、起床! 30分後に第3門前へ集合!」
怒鳴り声でレオンは飛び起きた。
まだ暗い。
寝台の下では、すでに何人も装備を身につけ始めている。
「訓練では?」
上段から降りながら聞くと、ガレスが革鎧の紐を締めた。
「終わった」
「まだ何もしていません」
「昨日、歩いてここまで来ただろ」
「それが訓練なんですか?」
「辺境じゃ立派な訓練だ」
冗談に聞こえない。
レオンは支給された装備を身につけた。薄い革鎧、鉄の胸当て、手甲、腰までの外套。どれも使い古され、胸当てには前の持ち主がつけたらしい深い傷が残っている。
武器は片手剣だった。
刃こぼれが3か所ある。
柄を握ると、王宮で使っていた剣とは重心が違った。
「そんな握り方じゃ、3回振ったら手首を痛めるぞ」
ガレスが言った。
「昨日、教えてくれると」
「時間がなかったな」
「今は?」
「歩きながら教える」
本当にそうなった。
兵舎を出ると、まだ薄暗い広場に200人近い奴隷兵が集められていた。人間もいれば、獣人、ドワーフ、魔族もいる。揃えられた装備などなく、槍を持つ者、剣を持つ者、木製の盾だけを渡された者までいた。
正規兵は別で、揃いの黒鉄色の鎧を身につけ、手入れされた槍を持ち、隊列まで整っている。レオンは自分たちとの違いを見て、昨日ガレスが口にした「肉壁」という言葉を思い出した。
「第6中隊は北東街道を5km進出、廃村周辺に出現した灰牙犬の群れを掃討する」
馬上の帝国軍人が命令を読み上げる。
「確認数は20前後。正規兵1個小隊が後方支援につく。日没までに帰投せよ」
標的は灰牙犬という、狼に似た魔物で、成獣は大型犬よりひと回り大きい。群れで狩りをするが、辺境では珍しくない。
地誌で読んだ知識だけはあった。
知っていることと戦えることは、まったく別なのだろう。
左腕の《隷属環》が妙に重く感じた。
隊列が動き始めた。
「剣を抜け」
隣を歩くガレスに言われる。
「今?」
「今だ。右手はもっと緩く握れ。親指に力を入れすぎるな」
言われた通りにする。
「肩も上がってる。敵を斬る前に自分で疲れるぞ」
「難しいですね」
「王族の剣術は何を教えてた」
「型です」
「型は悪くない。死なない方法を覚えてから思い出せ」
ガレスは口が悪いが、言っていることは具体的だった。
数100m歩くうちに、レオンは少し呼吸が楽になった。
そのとき前方から声が飛んだ。
「邪魔」
振り向くより先に肩を押される。
灰銀色の影が横を抜けた。
狼獣人の少女だった。
年齢はレオンより少し下に見える。身長は164cmほどで、褐色がかった肌の上に軽い革鎧を着け、首元で無造作に切られた灰銀色の髪の間から同色の狼耳が伸びている。腰の後ろでは灰色の尾が揺れ、琥珀色の瞳がこちらを鋭く睨んだ。右頬には細い古傷が1本あり、腰には短剣2本と少し反った湾曲刀が下がっていた。
「道の真ん中で剣を振らないで」
「あ、すみません」
「新入り?」
「昨日来ました」
少女の視線が胸の番号へ落ち、それから顔へ戻る。
「元王子ってあんた?」
もう広まっているらしい。
「元です」
「どっちでもいい。邪魔だけはしないで」
それだけ言って前へ行く。
レオンは苦笑した。
「嫌われてますね」
「狼獣人のミラだ」
ガレスが言った。
「人間が嫌いなんですか」
「好きになる理由がなかっただけだろ」
聞き返そうとしたが、ガレスはそれ以上話さなかった。
城壁を離れるにつれ、周囲の草が低くなった。
白っぽい土の間には黒い石が点在し、遠くには折れた家の屋根が見えた。
廃村へ近づくころには日が昇っていたが、薄い雲に遮られて空は暗い。
正規兵が後方で止まる。
奴隷兵だけが前へ出された。
「散開! 建物ごとに確認しろ!」
命令が飛ぶ。
レオンの心臓が速くなった。
剣を握る手に汗が滲む。
ガレスが低い声で言う。
「俺から3歩以上離れるな」
「はい」
「敵じゃなく周りも見ろ。怖くなったら足元を見るな。顔を上げろ」
「はい」
返事だけならできた。
廃屋の間を進むと、風が壊れた戸を揺らす音も、自分の呼吸も、誰かの靴が砂を踏む音も、すべてが大きく聞こえた。
前方で叫び声が上がった。
黒灰色の獣が崩れた壁を飛び越えた。それが灰牙犬で、思っていたより大きかった。
肩の高さがレオンの腰近くまであり、灰色の毛の間から骨のような突起が伸びている。口を開くと、名前の由来らしい黒い牙が見えた。
奴隷兵の1人に飛びかかる。
槍が横から突き刺さった。
血が散る。
鼻につく鉄臭さ。
レオンの身体が止まった。
本で読んだ魔物ではない。
生きている。
殺そうとしてくる。
男が槍を引き抜くと、灰牙犬が痙攣した。
血が土へ広がった。
吐き気が込み上げる。
「レオン!」
ガレスの声。
右を見る。
別の灰牙犬が走ってくる。
剣を構えた。
足が動かない。
頭では分かっている。
斜めに受けて、横へ流す。
訓練で繰り返しやった。
獣が跳んだ。
怖い。
その感情だけで身体が固まった。
ガレスの剣が横から入り、灰牙犬の鼻先を切り裂いた。
獣が怯んだ。
「刺せ!」
叫ばれて、反射的に剣を突き出す。
刃が毛皮を破る感触。
硬いものに当たり、それでも押した。
灰牙犬が暴れた。
剣を抜こうとして引っ張られ、レオンは転んだ。
ガレスが首へ止めを刺した。
静かになる。
レオンは座り込んだまま息をした。
手が震えている。
剣に血がついていた。
自分が刺した。
「立て」
ガレスが言う。
「でも」
「後で吐け。今は立て」
その声で我に返った。
周囲ではまだ戦闘が続いている。
レオンは剣を拾った。
最初の1匹だけではなかった。
廃村の奥から次々に灰牙犬が出てきた。
20どころではなく、30、40と増えていき、途中から数えられなくなった。
「情報と違うぞ!」
誰かが叫ぶ。
さらに遠くから遠吠えが聞こえた。
ガレスの顔色が変わる。
「群れが合流してる」
「どのくらい?」
「知るか。ただ20じゃ済まん」
正規兵の角笛が鳴り、それが撤退の合図だと分かると、奴隷兵たちは同時に戻り始めた。隊列などなく、負傷者を支える者もいれば、武器を捨てて走る者や転んだ者を踏み越える者までいる。
レオンも走った。
怖かった。
死にたくない。
それだけで足が動いた。
「左!」
ガレスが叫ぶ。
灰牙犬が横から飛び出す。
レオンは今度は剣を振れた。
斬ったというより、必死に叩きつけた。
刃が肩へ入り、獣が逸れる。
「走れ!」
振り返らない。
前方を灰銀色の髪が走っている。
ミラだった。
獣人らしい速度で人間たちを追い抜いていく。
その直後、廃屋の影から1匹が飛び出した。
ミラは湾曲刀で1匹を斬り、続けて短剣を抜くと別の1匹の喉を裂いた。
速い。
レオンとはまるで違う。
だが3匹目が横から来た。
ミラが気づくのがわずかに遅れた。
爪が左脚を裂く。
血が飛んだ。
彼女が倒れる。
灰牙犬は別の奴隷兵が槍で追い払った。
「ミラ!」
近くの獣人が叫ぶ。
だが後方からさらに群れが迫っている。
正規兵が叫ぶ。
「負傷者は置いていけ! 走れ!」
ミラが立とうとする。
左脚に力が入らない。
周囲の奴隷兵がわずかに迷い、そのまま走り去る。
責められない。
止まれば自分も死ぬ。
レオンもミラの横を通り過ぎ、3歩、4歩と走った。
背後で荒い息が聞こえた。
「行け!」
ミラの声だった。
「来るな!」
レオンの足が遅くなった。
走れ。
頭の中で声がする。
助ければ死ぬ。
彼女とは今日会ったばかりだ。
名前を知っただけ。
自分を嫌っている。
助ける理由などない。
床に倒れていた自分が見え、その場所は王宮の廊下だった。
兄に腹を蹴られ、呼吸ができずに丸まっている。
使用人が来た。
目が合った。
助けてほしかった。
せめて誰かを呼んでほしかった。
使用人は目を逸らして通り過ぎた。
大したことではない。
いつものことだ。
そう思うことにした。
思わなければ惨めだった。
レオンは止まった。
「おい!」
ガレスの怒鳴り声。
振り返る。
ミラはまだ立てていない。
魔物の群れが近づいている。
怖い。
今まで感じたことがないほど怖い。
それでも、足が戻った。
「馬鹿! 何してる!」
ミラが叫ぶ。
レオンは剣を鞘へ戻し、彼女の前へしゃがんだ。
「乗って」
「は?」
「背負う」
「ふざけんな、走れ!」
「早く!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
ミラが短く黙る。
レオンは彼女の腕を肩へ回し、無理やり身体を引き上げた。
重い。
装備込みなら自分より少し軽い程度しかない。
立ち上がった瞬間に膝が沈んだ。
「下ろせ! あんたまで死ぬ!」
「それは困る」
「なら置いてけ!」
走る。
遅い。
背中でミラが何か叫んでいる。
息が苦しい。
脚が重い。
前方ではガレスが立ち止まり、信じられないものを見るような顔をしていた。
「何やってんだ、この馬鹿王子!」
「元です!」
「どうでもいい! 走れ!」
ガレスが戻り、後方の灰牙犬へ石を投げた。
レオンは必死に足を動かした。
「なんで」
耳元でミラの声がした。
「なんで戻ってきた」
答えようとして息が詰まる。
理由なんて立派なものではない。
人種平等とか、王族の責任とか、そんなものではなかった。
ただ、あの廊下で誰も戻ってこなかったことを、今でも覚えている。
「……置いていかれるのが」
息を吸う。
「嫌いなんだ」
ミラが黙った。
背後で灰牙犬が吠える。
城壁はまだ遠い。
自分たちが生きて帰れる保証はどこにもない。
それでもレオンは走った。
怖くて、苦しくて、剣をまともに振ることさえできなかったのに、背中の重さだけは手放したくなかった。




