名前を奪われた日
帝都を出た朝、雨が降っていた。
護送車の小さな窓から見える皇城は、灰色の空の下で輪郭をぼかしていた。レオンは向かいの木壁にもたれ、遠ざかる塔を見続けた。振り返らないつもりだった。
離宮を出るときにはできたのに、帝都そのものから離れるとなると目を逸らせなかった。
2年間暮らした街だった。
敵国の都なのに、アルヴェリアの王都より歩いた道を覚えている。市場の焼き菓子屋も、古書店も、橋の下を流れる川の匂いも知っていた。
もう戻ることはないかもしれない。
そう思うと、胸の奥に細い痛みが走った。
隣に座る兵士が窓板を閉めた。
「見るのはそこまでだ」
薄暗くなる。
レオンは何も言わなかった。
左腕には昨日見せられた《隷属環》が嵌められていた。黒鉄色の太い輪で、外そうとしても継ぎ目が見つからない。装着するときに魔力を通され、腕の内側へ針で刺されたような痛みが走った。
管理区域から定められた距離以上離れると警告が発せられ、それでも戻らなければ痛覚刺激が作動する。管理者が携帯する制御具から個別に刺激を与えることもできる。ただし考えていることを読んだり、命令違反そのものを自動で判断したりする機能はないと説明された。
それだけでも拘束には足りる。
逃げれば痛みで動けなくなる。
護送車にはレオンのほかに5人おり、盗みを働いたらしい男、戦場で捕らえられた敵国兵、借金を返せず身を落とした農民、角のある魔族の男、犬に似た耳を持つ獣人の女が同乗していたが、誰も話さなかった。
帝都を出て3日目までは舗装された街道を進んだ。4日目から道が荒れ、車輪が石を踏むたびに身体が跳ねた。夜は軍の宿営地か街道沿いの砦に泊まり、拘束者は柵の中へ集められた。
食事は硬いパンと薄いスープだった。
離宮の朝食を思い出し、自分は贅沢だったのだと今さら気づいた。
8日目、空気が変わった。
窓の隙間から入ってくる風が冷たく、土の匂いに鉄を焼いたような臭いが混ざっている。
護送車が坂を登りきったところで、兵士が窓板を開けた。
「着くぞ。灰の辺境だ」
レオンは外を見た。
最初に目へ入ったのは色だった。
本当に灰色だった。
遠くまで続く荒野には低い草しかなく、土は灰を混ぜたように白っぽい。さらに向こうには黒い山々が連なり、その山肌を紫がかった霧が這っていた。空には巨大な鳥のような影がゆっくりと旋回している。
街道の先には石壁が見えた。
要塞都市という言葉から想像していたものより、ずっと無骨だった。高い防壁が2重に築かれ、その外側には深い壕がある。壁の端は黒く焼け、修理した跡が何か所も残っている。
門へ近づくにつれ人が増え、兵士だけでなく、荷車を押す人間、鎖でつながれた獣人、岩のような身体をしたドワーフ、赤銅色の肌と角を持つ鬼人、人間とは異なる肌色を持つ魔族まで行き交っていた。
これほど多くの種族を同時に見たのは初めてだった。
レオンは無意識に身体を固くした。
特に魔族を見ると、幼いころから聞かされてきた話が頭をよぎる。
人をさらい、血を啜り、魔物を操る存在だと幼いころから教えられてきた。もちろん、帝国の地誌を読むうちに、それが偏った話だとは知っていた。それでも知識と身体の反応は別だった。
角魔族らしい男と目が合った。
男はレオンをちらりと見ただけで通り過ぎた。
何も起こらない。
当たり前だ。
自分は何を警戒したのだろう。
少し恥ずかしくなった。
護送車は城壁内の北側にある軍務区画で止まった。
「降りろ」
順番に外へ出される。
雨は上がっていたが、地面は泥だらけだった。
兵士に連れられて石造りの建物へ入る。
受付らしい長机の向こうに、無表情な軍務官が座っていた。
「氏名」
前の男が答える。
名簿へ何かを書き込み、腕の隷属環を確認する。
その後も2人が続き、やがてレオンの番になった。
「氏名」
「レオン・アルヴェリア」
軍務官のペンが止まった。
横にいた兵士が小声で何か告げる。
男は別の書類を確認した。
「王籍剥奪済み。家名は登録不要だ」
胸の中で何かが縮んだ。
「……レオンです」
軍務官は書き込んだ。
「管理番号8741」
黒い布片を渡される。
白い数字で8741と書かれていた。
「制服の胸につけろ」
レオンは布を見た。
「名前は?」
「記録には残る。現場管理は番号だ」
「そうですか」
反抗する意味はない。
布を受け取った。
昨日まで王籍を失ったことに現実感がなかったのかもしれない。
家名を消され、4桁の番号を渡された瞬間、ようやく身体の内側へ落ちてきた。
自分はもう、本当に王子ではない。
隣の机で私物検査が行われた。
本は2冊までとされた。
母の指輪は金銭価値があるとして1度取り上げられかけたが、皇城発行の許可証がついていたため返された。リシアから渡された銀の指輪も、同じ許可証に追加記載されていた。
彼女が手を回してくれたのだろう。
押し花も残った。
小さな鞄1つと、粗末な灰色の服、革靴。
それが今の全財産だった。
「次」
背中を押される。
別棟へ移され、簡単な身体検査を受けた。
「利き手は」
「右です」
「武器経験」
「剣術を習っていました」
「実戦は」
「ありません」
兵士が鼻で笑った。
「王子様の剣遊びか」
反射的に身体が強張った。
兄たちの笑い声がふいに蘇る。
黙っていれば終わる。
レオンは何も言わなかった。
「補助兵第6中隊。兵舎12」
木札を渡される。
「明朝から訓練。装備は倉庫で受け取れ」
「どのくらい訓練を?」
「出撃命令が出るまでだ」
「それは何日後ですか」
「知るか」
兵士は面倒そうに手を振った。
「運がよければ10日、悪ければ明日だ」
冗談かと思ったが、顔を見る限り本気だった。
兵舎12は城壁近くにあり、長い木造建物の扉を開けた瞬間に汗と革と湿った布の臭いが押し寄せた。2段寝台が左右に並び、50人以上が詰め込まれているうえ、人間だけでなく、狼の耳を持つ獣人、太い腕のドワーフ、額に角を持つ鬼人、黒い紋様が首に浮かぶ魔族もいた。
レオンが入った瞬間、何人かがこちらを見た。
すぐに興味を失う者もいれば、じろじろ眺める者もいる。
「新入りか」
低い声がした。
奥の寝台に腰掛けていた男が立ち上がった。
46歳ほどで、身長は183cm前後あり、年齢の割に肩幅が広い。短く切った茶髪にはかなり白いものが混じり、顎には手入れのされていない無精髭がある。右眉の上から額へ古い刀傷が走り、灰色の瞳は眠そうに見えるのに、こちらの立ち方や手の位置まで見ているようだった。
「8741です」
番号で名乗ってから、ひどく嫌な気分になった。
男が眉を上げる。
「番号で呼ばれたいのか?」
「……レオンです」
「ガレス・バルハルト。ここじゃガレスでいい」
差し出された手を、レオンは少し迷って握った。
硬い手だった。
掌に剣だこがある。
「元兵士ですか」
「見りゃ分かるか」
「少し」
「元帝国軍中佐だ」
レオンは思わず手を離しかけた。
帝国軍の中佐がなぜ奴隷兵舎にいる。
顔に出たらしい。
ガレスが笑った。
「聞くな。長くなる」
「分かりました」
「素直だな」
男の視線がレオンの手に落ちた。
「お前は?」
「何がです?」
「その手だ。剣だこは薄いが、握ったことはある。貴族か?」
少し迷った。
元王子だと名乗る意味があるのか。
隠しても経歴書には残っている。
「元王族です」
周囲の何人かが振り向いた。
ガレスも目を細めた。
「元?」
「昨日まで、と言うべきかもしれません」
「国は」
「アルヴェリア」
今度こそ兵舎の空気が変わった。
戦争相手の国だ。
人間の男が舌打ちする。
獣人の女が露骨に顔をしかめる。
ガレスだけはしばらくレオンを見ていた。
「第8王子か」
「知っているんですか」
「戦争が始まってんだ。敵国の人質くらい兵士なら知る」
「もう人質ではありません」
「見れば分かる」
ガレスはレオンの胸の番号を指した。
「王子様もここじゃ俺らと同じ肉壁だ」
悪意のある言い方ではなかった。
だから余計に重かった。
「肉壁、ですか」
「補助兵なんて立派な名前を真に受けるな。正規兵より先に魔物へぶつけて、正規兵が死ぬ数を減らす。それが俺たちの仕事だ」
レオンは喉を鳴らした。
「生存率は?」
「聞きたいか?」
「……やめておきます」
「賢明だ」
ガレスは空いている上段を指した。
「そこがお前の寝床だ。荷物は枕の下か身体から離すな。盗られても誰も探してくれん」
レオンは鞄を抱えて梯子へ手をかけた。
「レオン」
呼ばれて振り向く。
ガレスが壁へ立てかけられた訓練用の木剣を顎で示した。
「剣を握ったことは?」
「訓練ならあります」
「戦争は?」
「ありません」
「魔物は?」
「ありません」
ガレスが深いため息をついた。
「明日まで生きてたら、剣の持ち方から教えてやる」
「なぜ?」
「隣で死なれると寝覚めが悪い」
答えは素っ気なかった。
レオンは上段へ上がった。薄い毛布が敷かれた硬い板の寝台は、離宮のものとは比べものにならなかった。
それでも横になると、8日間の移送の疲れがまとめて身体へ押し寄せた。
目を閉じる。
周囲では誰かが笑い、誰かが咳をし、遠くから金属を打つ音が響いている。
ここでは誰も自分を王子だとは思わない。
むしろ元王子だと知れば嫌う者もいる。
怖かった。
明日何をされるのか分からない。
それでも、ほんの少しだけ奇妙な感覚もあった。
父王の機嫌を読む必要がない。
兄たちから逃げる必要もない。
王族らしく振る舞う必要もない。
失ったものしかないと思っていた。
だが、王子でなくなったことで、失わずに済むものもあるのかもしれない。
その考えが甘かったと知るのは、翌朝になってからだった。




