届かない荷車
荷受けのために空けられた場所へ、雨水だけがたまっていた。翌朝も、その次の朝も、荷車の轍は増えなかった。要塞の門をくぐったのは、泥を浴びた伝令と、折れた車軸を積む修理用の車だけだった。
粥には麦の殻が目立つようになった。ゴルドは黙って食べたが、器を下ろしてからもしばらく指を縁へ置いていた。いつもなら洗い場まで運ぶ重ねた器を、今朝は自分の分だけ持っていく。
レオンは立ち上がりかけ、その肩が窓枠に触れるのを見た。ゴルドは低く舌打ちした。普段なら、当たる前によけている。
昼の運搬でも、皆の手が遅れた。荷車を押す位置へ入った若い盾兵が、休憩を告げられるまで顔を上げなかった。ホバンは叱る代わりに交代させたが、代わりに呼ばれた者も疲れていた。
倉庫へ受領票を届けると、補給係が乾いた豆を計量していた。秤の皿へ少し戻し、また袋へ移す。その背後でラザルが、違う倉庫から来た払出票を広げている。
「橋は、すぐには直らないんですか」
レオンが尋ねると、補給係は秤から目を離さずに答えた。
「雨で橋台が削られた。先に路面を踏み荒らした獣もいたらしい。修繕隊は出ているが、荷を通すまで何日かかるかはまだ分からん」
「迂回はできないんですか」
「道はある。あの荷車を全部通せるか、今は調べている」
聞くほど、明日の見通しが遠くなった。レオンは夜番明けの食事と、重い荷を運ぶ者の様子を伝えた。補給係は受取量の変更には上の許可が必要だと言い、脇の払出票へ手を伸ばした。
その票に書かれた量は、レオンの班へ渡されるものより多かった。
「こちらには、以前と同じだけ出ているんですか」
「城壁上の勤務だ。雨の中で交代を詰めている」
返事を聞いても、胸に立った熱はすぐには引かなかった。同じ要塞にいるのにと思う。そのまま口を開きかけると、ラザルが別の票を机へ置いた。
「こちらは内側の保管係です。同じ量を増やす必要があったのか、確かめる余地はあります」
「お前の仕事は転記だぞ」
「転記したので気づいたんです。夜番の割増が、勤務変更の後も残っています」
補給係が眉を寄せ、票の日付を見比べた。城壁の勤務分まで不当だとは言えない。レオンは机へ近づきかけた足を引き、まず自分の班で何が起きているかを、もう1度話した。
ラザルは昨日の話を覚えていたらしく、食べ残す者の人数を尋ねた。レオンが数を告げると、彼は脇の計算を直した。
「受け取れない食事は、受け取れる時間へ回せます。寝ている間に鍋を空にされるのは、本人の怠慢ではありませんからね」
「鍋をもう1つ置く薪がない」
補給係が言うと、ラザルのペンが止まった。
レオンは朝の粥を思い出した。最後の者が冷たいまま食べ、残りが器の底へ固まっていた。量を増やす話をしていたのに、今あるものを食べ切るにも手が要る。
「炊事場の人に、聞いてきてもいいですか」
許可は、午後の資材運搬を終えてからという条件で下りた。
炊事場の裏では、灰谷村から来たエルナが干し菜を選り分けていた。日焼けした手の節へ土が残り、黒髪に混じる白い毛が、火の明かりに浮いている。村の女たちも隣で働き、傷んだ葉だけを別の籠へ分けていた。
「兵の食事かい。村の分を増やせるって話じゃないんだね」
レオンが事情を話すと、エルナは最初にそう確かめた。村人も配給に頼っている。レオンは、増やす約束はできないと答えた。
「じゃあ、そのつもりで聞くよ」
彼女は選った葉を鍋へ入れ、水を注いだ。固い豆は前から水へ浸してあり、炊事係が別の釜へ移していた。
「煮えにくい物を後から足すと、全部を長く炊くことになる。夜番の分を残すなら、食べる時刻を先に聞いとくれ。冷えてから戻されても、やりようが減る」
レオンは食材を増やす方法を聞くつもりで来ていた。だが、話に出るのは切り方と、釜を使う順番と、誰が取りに来るかばかりだった。エルナはその違いに気づいたらしく、レオンの顔を見た。
「畑で育つ分まで、鍋じゃ増やせないよ。だから、食べられるところを捨てないようにしてる」
彼女は葉の太い軸を薄く切った。傷んだ部分と同じ籠へ捨てられていたものだった。
戻って説明すると、ラザルはその手順を最後まで聞いた。相談料はと言いかけ、補給係に釜の数を尋ねられると、先に帳簿を閉じた。
翌日、班は許可された範囲で倉庫の整理を手伝った。傷みの出た袋は先に中を確かめ、食用へ出せる分と廃棄すべき分を補給係が分ける。勝手に混ぜて量を増やせないよう、監督兵が立ち会った。
レオンが袋の口を結んでいると、ラザルが作業の割振りを持ってきた。受領を待つ時間に人手を回せば、残りも運べるという。
「治療所で軽作業をしている者を、確認役に入れられませんか。座って荷の数を読むだけなら」
「ユリウのことですか」
「あなたの班に、木工の手伝いができる者がいると聞きましたが」
「箱へ線を引く仕事です。ここへ来るだけでも、今は長すぎます」
ラザルは手元の表へ目を落とした。
「荷は持たせませんよ」
「来て、待って、戻る時間も要ります。熱を出したら、リーネたちの仕事まで増えます」
言い切ると、レオンは自分の声が強くなっていたことに気づいた。だが言い直さなかった。ラザルは紙の端を指で折り、やがてその欄を消した。
「本人の状態を確かめていませんでした。作業の記録だけでは足りませんね」
不満そうではあったが、表は戻された。レオンは代わりに、今いる者が交代で確認へ回る案を示した。終わる時刻は遅くなる。ラザルは計算し直し、暗くなる前には済みますと答えた。
休憩に入ってからも、ラザルは表の同じ場所を眺めていた。レオンが袋の数を告げると、聞こえていますと返し、机の端に置いた小さな手帳を上着へしまった。開かれたページには細かな字があったが、レオンに内容は見えなかった。
「前にも、こういう仕事をしていたんですか」
ラザルは返事をせず、窓から運搬役を見た。ゴルドが荷台の前で待ち、先に立つ男の足が上がるのに合わせて押している。
「あの男は、自分が先に動けば速く済むとは考えないんですね」
「先に動いたら、前の人が倒れます」
「分かっていても、やる者はいるんですよ」
それきり、ラザルは帳簿へ戻った。レオンはもう少し尋ねたかったが、机の向こうから受取票が差し出され、会話は終わった。
作業を再開すると、別の班の男が、豆の袋を選り分ける様子を見て足を止めた。痩せた頬に泥が乾いている。
「そっちだけ、何か余計にもらうのか」
レオンが答えるより先に、監督兵が、倉庫の作業で配給は別だと告げた。男はしばらく袋を見ていたが、呼ばれると戻っていった。
レオンは自分が先ほど、城壁勤務の票へ向けた目を思い出した。相手の仕事は見えず、受け取る量だけが見える。説明しようにも、その男がどんな仕事をしているのか、自分は名前さえ知らなかった。
彼は監督兵へ、次に来る運搬班にも作業内容を伝えてほしいと頼んだ。兵は面倒そうにしたが、袋の行き先を記した札を外へ向け直した。
午後、補給係から夜番分の受取時間を変える許可が出た。炊事係は最後の釜の一部を交代時刻へ合わせることになったが、火を使う回数は増やせなかった。寝坊した者の分まで温め直すのは無理だと念を押され、ホバンが引取りの役を決めた。
班への総支給量は増えなかった。それでも、その夜は班の夜番が温かい物を食べられた。受取の布を広げると湯気が上がり、待っていた男が、まだ熱いぞと驚いた。
ゴルドの配給は、重労働に就く日の分だけわずかに調整された。代わりに楽な仕事へ回せば済むという話も出たが、今の作業から彼を抜いた場合に必要な人数を、ホバンが伝えたのだった。
「これで足りますか」
レオンに聞かれ、ゴルドは匙を止めた。
「腹いっぱいかと聞くなら、違う。だが、昨日よりは動ける」
ミラが横から器をのぞき、私も重い物を運べばよかったと言った。ゴルドは、明日は代わるかと返す。彼女は彼の斧を見て、それは先に外しておいてと答えた。
笑う声が戻ったのは短い間だった。食事の途中で、外郭に警戒を増す命令が届いた。見回りの兵が、北東の沢で新しい足跡を見つけていた。
翌朝、レオンはサイラスの前で班の状態を報告した。所属29人のうち、ユリウは引き続き療養する。外郭へ出せるのは28人で、昼の運搬から続けて夜まで立たせることはできない。
「昼の作業は減らす。外郭の受持ちは、お前たちだけではない」
サイラスは配置図へ指を置いた。北に別の作業班、その外側に正規兵の見張りがつく。レオンの班は仮置き倉庫の区画を担当し、危険があれば小門へ戻る。
「予定した物資は移せたか」
「油と乾燥布は。残りの材木は置いてあります」
「なら、それを取りに戻るな」
レオンは了解したと答え、撤退の条件を繰り返した。サイラスは最後まで聞いてから、見張りの報告を待つよう命じた。
夕方の外郭では、昨日運び出した荷の跡が四角く乾いていた。ネマは担架の金具を確かめ、ホバンは休ませる順番を伝えた。ゴルドは壁へ背を預けて目を閉じていたが、斧は手の届く場所にあった。
ミラが柵の近くから戻ってきた。耳を後ろへ向け、頬についた雨を拭う。
「風が回ってる。北の匂いが、さっきと違う」
それだけでは何が来るのか分からなかった。レオンは伝令を見張りへ送り、灯りの位置を確かめた。曲がり角の火が、風で細く伸びていた。
やがて外から笛が鳴った。見張りの交代を告げる長さではない。レオンが顔を上げたとき、北の正規兵がこちらへ駆けてきた。
「作業を止めろ。沢を越えてきた。灯りを消すな」
雨の向こうで、木をたたくような乾いた音が重なった。レオンは帰る方角を見てから、ホバンを呼んだ。




