命令の重さ
干した上着の袖が、朝の風を受けてレオンの頬を打った。横へよけると、今度は別の袖が首へ絡む。濡れた布を抱えたまま動けずにいると、洗い桶の前からミラの笑い声が聞こえた。
「そこ、私が通るから空けてって言ったよね」
「聞いていたけど、縄が下がってきて」
「干しすぎなの。全部同じところに掛けるから」
ミラが上着を数枚ずらした。その袖の縫い目を見つけ、ホバンが口を曲げる。
「そいつだけ腕が伸びたのか」
「破れたところを縫ったら縮んだの。着てみてから言って」
「俺の上着じゃねえだろうが」
笑い声の中で、レオンは空いた場所へ最後の布を掛けた。寝具を運ぶ仕事を終えた者が、兵舎の前で待っている。誰かに次の作業を聞かれ、レオンは修理する盾の数を確認してから答えると返した。
だが、その盾を置く場所には洗い桶が残っていた。桶をどかすため水を捨てに行くと、今度は薪割りへ回る人数を尋ねられる。レオンが斧を持ち上げたところで、ガレスの手が柄を押さえた。
「お前が割る必要があるか」
「手が空いているので」
「空いているなら、あそこで待っている者に仕事を渡せ」
レオンは兵舎を振り返った。濡れた靴を履き直していた男が、こちらを見て立ち上がりかける。待たせていたことに気づき、レオンは斧を下ろした。
ガレスは地面へ短い線を引き、薪と水と修理に必要な人数を聞いた。レオンが答えるたび、誰が担当するのか、いつ終えるのかと問いが続いた。途中でホバンが来て、夜番明けの者を寝かせるなら先に決めろと言う。
「交代の調整を、頼んでもいいですか」
「それを待ってたんだよ。最後に全部ひっくり返すなよ」
ホバンが人数を呼び分けると、止まっていた足が動き始めた。ネマには盾の修理を頼み、使える物と預ける物を分けてもらった。レオンがその列をもう1度数えようとすると、彼女は頑丈な指で盾の縁をたたいた。
「数が変わったら言う。あんたは水汲みの方へ行きな」
仕事が回り始めたころ、ガレスが訓練場の隅へレオンを呼んだ。塀の影には昨夜の雨が残り、泥に靴跡が重なっている。
「岩場で、ダンが倒れた後だ。お前は何をした」
レオンは泥から目を上げた。
「最初は、何も。名前を呼んだと思います」
「その間、担架は止まった。後ろが詰まり、ホバンが押し戻された」
聞こえなかった声を、ガレスが短く伝えていく。レオンが覚えているのは、動かなくなったダンの身体と、届くはずのない手だった。担架の後ろで誰が踏みとどまったかまでは見ていなかった。
「俺は謝っていました」
「誰にだ」
答えかけて、レオンは口を閉じた。
「ダンに、です。でも、聞いていたのは……」
「生きている者たちだ」
ガレスは声を荒らげなかった。その静けさの方が、レオンには堪えた。
「悲しむなと言っているのではない。お前が何も決めなくなった間も、後ろから魔物は来る。兵は、お前の後悔を聞くために命令を待っていたわけではない」
レオンは胸の前で握った手をほどいた。指先に冷たい汗が残った。
「どうしていれば、ダンは助かったんですか」
ガレスはすぐには答えなかった。
「あの場で必ず救えたと言えば、嘘になる。ただ、岩場へ入る前に確かめられたことはある」
地面へ道の形を描き、担架の幅を小石で示した。先へ見に行く者をどこまで出せたか。足場の狭い場所で、誰が前を止めるか。角鹿の気配を知ったとき、どこへ身を寄せられたか。正解を告げる代わりに、ガレスはレオンへ考えを返した。
岩場の両側を登れないかと答えると、担架をどう上げるのかと聞かれた。前へ走ればよかったと言えば、負傷者を運ぶ者の速さを問われる。考えるほど、あの道の狭さが変わって見えた。
「準備しても、間に合わないことはある。だからといって、間に合わなかった事実だけで準備の要否を決めるな」
やがて朝の作業を終えた班員が集められた。監督兵から認められた短い訓練時間で、木箱を並べて通路を作る。先頭が負傷した想定で、後続を通しながら担架を出す練習だった。
レオンは倒れ役の男を見て、すぐに前へ出た。肩へ手を回し、起こそうとする。その後ろから助けようとした者が続き、担架を持つネマが通路へ入れなくなった。
「いったん止めろ」
ガレスの声で、全員の動きが切れた。
「誰が後ろを見ていた」
レオンは振り向いた。前を向く顔ばかりが並んでいた。救うことを考えて飛び出したはずなのに、ここでも通路を塞いでいた。
木箱の間から出ると、倒れ役の男が土を払いながら言った。
「起こされても、足が折れてるって想定だったんで。どっちへ行けばいいのか分からなくて」
「ごめ……」
レオンは言いかけて、息をついた。
「次は、運ぶ役を先に決めます。ホバン、後ろを止めてもらえますか」
「前の見張りも要るぞ」
「ミラに頼みます。ネマは担架が通るか確認を。ゴルドには、途中の箱をずらしてほしい」
「箱だけなら技能は要らん」
ゴルドが木箱の底へ指を差し込み、持ち上げた。レオンは今度こそ通路の外へ残り、担架の向きと後続の間隔を見た。うまくいったのは最初の角までで、その先では声が届かず、また足が止まった。
残りの時間で直せたのは、合図を復唱する手順だけだった。訓練の終わりを告げる笛が鳴ると、木箱は倉庫へ返さねばならなかった。
「思ったより、できませんでした」
「最初からできるなら、訓練はいらん」
ガレスは借りた縄を巻きながら言った。
「お前が倒れたときの順番も決めておけ。全員がお前の声を待っていたら、そこで終わる」
昼過ぎ、レオンはネマと治療所を訪ねた。預けていた箱の仕切りを受け取るためだったが、廊下に入ると、リーネから声を落とすよう注意された。午前中に運ばれてきた正規兵が、熱を出して眠っていた。
ユリウは寝台で木片を持ち上げ、線の位置をネマへ示した。昨日より幅を変えた理由を説明すると、ネマは工具を入れるときの指の隙間について尋ねた。2人の話は、レオンが口を挟む間もなく進んだ。
「左手だけで削ろうとするんじゃないよ。寸法が読めれば、こっちで切れる」
「でも、それでは仕事を増やすだけです」
「違う寸法で切り直すより、よっぽど少ない」
ネマは箱を膝へ置いた。ユリウが少し首を伸ばし、中へ工具を並べる様子を見る。リーネはその背へ薄い布を掛け、長く座っていないよう伝えた。
帰り際、レオンは水瓶を持とうとして手を止めた。治療所の当番がすでに運んでいる。廊下の隅へよけると、リーネが隣へ来た。
「ユリウに、戻れと言わないでくれて助かります」
「言いたくなるんです。皆でいる方が、少しは……」
「それが身体にいいとは限りません」
彼女の目は、廊下を渡る当番へ向いていた。
「ここにいてできることまで、なくしたことにしないでください」
レオンは窓辺の寝台を振り返った。ネマが持ち帰る箱は傾いていたが、中の工具はずれなかった。
夕方、乾いた上着を取り込むと、ミラが縫った袖は確かに少し短かった。持ち主は腕を曲げたり伸ばしたりしてから、手を洗うときに濡れなくていいと言った。ミラが、それなら両方とも短くすると返し、今のままでいいと慌てて止められる。
レオンは笑いながら寝具を畳んだ。朝なら、その上着も自分で直そうとしたかもしれない。今は針仕事のうまい者に任せ、翌朝までに必要な寝具の数をホバンへ伝えた。
食事の前に、ホバンが翌日の当番を読み上げた。レオンは聞きながら、夜番明けの者が入っていないか確かめた。最初の3人について尋ねたところで、ホバンが紙を下ろした。
「全員をもう1度聞くつもりか」
「疲れている人がいないかと」
「それを見て組んだんだ。気になる奴がいるなら聞け。全部やり直すなら、最初からお前がやれ」
責める声ではなかった。それだけに、レオンは返す言葉を失った。紙には、右手にまめができた者を運搬から外した印まである。自分が昼間に見落としたものを、ホバンは見ていた。
「明日の夕方、交代で困ったことがなかったか聞かせてください」
「そいつならいい」
ホバンは紙を折った。レオンが話を終えた後も、親指で折り目を押さえていた。
「ダンはな、俺の盾の革も直してくれたんだ」
唐突な言葉に、レオンは顔を上げた。
「礼を言ったら、お前の手が遅いからだって言いやがった」
ホバンは脇に置いた盾を引き寄せ、裏の革へ指を通した。その間、レオンは何も言わなかった。やがてホバンが盾を戻し、飯へ行くぞと立ち上がったとき、初めて後に続いた。
兵舎の灯がともるころ、ガレスが外郭の作業命令を持ち帰った。班は明日から数日、倉庫脇の補修と資材整理に回される。北東側の柵が傷み、搬入の通路も狭くなっているという。
「作業を終えるだけでいいと思うな。そこで襲われたら、誰をどこへ通すか見てこい」
レオンは朝の訓練で詰まった木箱の間を思い出した。
「見たことを、先に相談してもいいですか」
「相談はしろ。ただし、俺の答えを待つためだけに考えるな」
受け取った紙には、作業の範囲と監督者の名が記されていた。自由に使える場所ではない。それでも、許された時間に見て、尋ねて、変えられることはあるはずだった。
レオンは紙をしまいかけ、もう1度ガレスへ向き直った。
「俺が指示を出せなくなったら、まずホバンに引き継いでもらいます。あなたには、その後ろを見ていてほしい」
ガレスは短くうなずいた。
「本人にも言え。お前だけが決めていても、引き継ぎにはならん」
ホバンは寝台へ座って足を揉んでいた。レオンが話をすると、眠っているとき以外にしろと言い、空いている場所を靴先で示した。レオンも腰を下ろし、外郭の紙を2人の間へ広げた。




