折れた角の誓い
朝の訓練場に、ダンの盾はなかった。
レオンは横列を見回し、空いた場所へ立つ兵士を決めた。ホバンが短く返事をし、槍の位置を調整する。今までダンが支えていた場所を、別の誰かが守らなければならない。
「そこ、もう少し右へ」
レオンが声をかけると、若い盾兵が足を開いた。だが盾が重いのか、すぐに肘が下がる。
「無理に高く上げなくていい。ダンは肘を身体へ寄せてた」
口にしてから、レオンは少し黙った。
ダンが教えてくれた盾の持ち方を思い出す。重い道具を腕だけで支えるなと言っていた。若い兵士の横に立ち、自分も盾を持ってみせる。
「俺も上手くないんだけど、こうすると少し楽になる」
「……確かに」
兵士が頷く。レオンは盾を返し、そのまま隊列の後ろへ下がった。
午前の訓練はいつもより短かった。帰還から数日が経ち、怪我をした者は治療所へ通いながら軽作業へ回されている。ユリウはまだ右腕を十分に使えず、戦闘訓練へ戻れる見込みも立っていない。
レオンが治療所へ立ち寄ると、ネマが小さな木箱を持っていた。
「ユリウに見てもらおうと思って」
「作業させるつもり?」
「違うよ。開け方を聞くだけ」
寝台のユリウは、箱の蝶番を見て眉を寄せた。
「ここ、木が膨らんでる。水に濡れたんだろ」
「よく分かるね」
「触れば分かる。削りすぎると蓋が緩くなるから、乾かしてから少しずつ直した方がいい」
ネマが頷き、レオンも箱へ目を向けた。ユリウはまだ右腕を動かせないが、説明している間は以前より表情が明るかった。
「何だよ」
視線に気づかれ、レオンは慌てて顔を逸らした。
「いや、助かるなと思って」
「俺はまだ何も直してない」
「教えてくれたよ」
ユリウは面倒そうに鼻を鳴らした。それでもネマがもう1つ質問すると、少し考えてから答えていた。
昼には食堂でミラと向かい合った。灰銀色の髪の下で耳が動き、彼女は黒パンをちぎりながらレオンの顔を見た。
「少しは寝られてる?」
「前よりは」
「また考え込んでる顔だけど」
「ダンの名前を、名簿のどこに残すか考えてた」
「別の紙に書いたんだろ」
「うん。訓練の記録にも残しておきたい」
ミラは少しパンを噛み、頷いた。
「あたし、あの人から盾の使い方を聞いたの覚えてる。こういうの、書いておけばいいんじゃない」
「……そうだね」
レオンは紙を出し、ダンが教えてくれたことを書いた。盾の重心、足の運び方、持ち手を確かめる癖。全部書いてもダンが戻るわけではないが、今日若い兵士に教えたことは彼の言葉だった。
食事の後、ガレスが声をかけてきた。
「監督官からの連絡だ。北の小拠点から兵を下げる準備をしているらしい」
「もう外哨を守らないんですか」
「全部じゃない。ただ、連絡が難しい場所に少人数を残すより、要塞の周辺へ集めたいようだ」
「灰谷村の人たちは」
「保護区域の警戒は続ける。お前らの次の任務はまだ決まってない」
レオンは頷いた。軍が手を打っていることに少し安堵したが、北で起きていることの規模を想像すると落ち着かなかった。
夕方、武器庫の裏でゴルドが待っていた。
大柄な鬼人は壁へ寄りかかり、いつもの大斧を隣へ立てていた。赤銅色の腕には新しい傷が増えているが、折れた左角は昔からそこにあった傷として残っている。
「少し話せるか」
「はい」
レオンが近づくと、ゴルドは周囲を見た。
「この前、お前とミラの契約の話を聞いたな」
「覚えています」
「俺は雇い主との約束を守って、角を折られた」
ゴルドは左角の付け根へ触れた。
「契約という言葉は嫌いだ。紙に書いてあっても、力のある奴が勝手に破れば終わりだからな」
レオンは黙って聞いた。ゴルドの目は怒っているようには見えない。ただ、言葉を選んでいるようだった。
「お前は俺が疲れると下がれと言う。強くても勝手に無理はさせん。だがダンは死んだ」
「……はい」
「俺も助けられなかった。お前だけの失敗じゃない」
レオンは胸の奥に残っていた重さを感じた。ダンが岩壁へ叩きつけられた瞬間は、何度思い出しても消えなかった。
「次も全員助けられるとは思えません」
口にすると、ゴルドは頷いた。
「そうだろうな」
「でも、誰かを道具として数えたくはないです」
「口では何とでも言える」
「はい」
レオンは顔を上げた。
「だから、俺にできていないことがあれば言ってください」
ゴルドはしばらく黙り、それから低く笑った。
「本当に妙な男だ。俺より弱いくせに、俺のことを叱ろうとする」
「叱るつもりはありません」
「なら、俺が言うことも聞け」
「もちろんです」
ゴルドは大きな手を差し出した。
「お前と契約したい」
レオンは返事ができなかった。聞き間違えたのかと思い、伸ばされた手を見つめる。
「……本当に?」
「俺が自分で決めた」
「でも、契約しなくても、今までと扱いは変えませんよ」
「分かってる。俺は強くなるためだけに言ってるんじゃない」
レオンはゴルドの顔を見た。折れた角の下の琥珀色の目が、まっすぐこちらを向いている。
「説明してもいいですか。俺も、全部分かっているわけではないんです」
「言え」
「契約すると、身体が少し動きやすくなると思います。でも《鬼神》の反動が消えるかは分かりません。俺がゴルドを思いどおりに操ることもできません」
ゴルドが頷いた。
「解除は自由なんだな」
「はい。互いの意思で終わらせられます。断っても、俺から何か罰を与えたりはしません」
「それなら結構だ」
ゴルドは手を下ろさなかった。
「俺はお前の力を借りたい。お前が俺の力を借りたいなら、それでいい」
レオンは左腕の《隷属環》を見た。帝国が自分たちへ押しつけた輪とは、違うものにしたかった。
「……俺も、あなたと契約したいです」
口にした瞬間、意識の奥で淡い光が揺れた。いつもの視界とは別の場所へ、細い文字が浮かぶ。
《対象:ゴルド・ヴァン》
《信頼度:53》
《契約可能》
レオンは数字を見た。ゴルドが自分をどう思っているのか、数字だけで分かるわけではない。目の前の男は、自分で決めたと言っている。
「それなら、契約を申し込みます」
ゴルドが頷いた。
「受ける」
差し出された手を握ると、掌の間に温かい光が集まった。強く握り返された指に、レオンは思わず息を止める。光は腕を伝うように広がったが、痛みも重さもなかった。
しばらくして消える。
ゴルドは手を離し、自分の腕を回した。
「……少し、動かしやすいな」
「本当ですか」
「大きく変わったわけじゃない。だが、斧を持つときの違いは分かる」
彼は斧の柄を握り、軽く持ち上げた。土を砕くような力は使わず、元の位置へ下ろす。
「《鬼神》は?」
レオンが尋ねると、ゴルドは首を振った。
「試さなくてもいい。無理に使えば疲れるのは変わらんだろ」
レオンは頷いた。今はそれでよかった。
「ありがとう、ゴルド」
「礼を言うのは俺の方かもしれん。だが、何が変わるかはこれから確かめればいい」
ゴルドが笑った。
武器庫から戻る途中、ミラが井戸の脇で待っていた。
「遅かったじゃん」
「ゴルドと話してた」
「知ってる。斧の音がしなかったから、喧嘩じゃないとは思ったけど」
レオンは少し迷ってから言った。
「契約したんだ」
ミラの耳がぴんと立った。
「ゴルドと?」
「うん。あっちから言ってくれた」
「へえ」
彼女はレオンの背後を覗く。ゴルドが大斧を担いで歩いてくるのを見つけると、すぐ声をかけた。
「ちょっと、明日の模擬戦、あたしが不利じゃない?」
ゴルドは低く笑った。
「元から俺の方が強いだろう」
「そういうこと言ってるんじゃない!」
「なら、お前も俺より鍛えればいい」
「契約しても口の悪さは変わらないんだな」
レオンが言うと、ミラもゴルドもこちらを向いた。
「王子様もだろ」
「元王子だよ」
いつもの返事が返ってきた。レオンは笑った。ゴルドが契約したからといって、突然自分へ頭を下げるようなことはなかった。
その夜、食堂ではホバンが鍋の底を覗いて不満を漏らしていた。
「人が増えてるのに、飯の量は変わらねえのか」
「北の拠点から移ってきた兵士がいるから」
ネマが答える。
「そういうことじゃねえよ。分け前が減ったら働けねえって話だ」
レオンは配給担当に確認しようと思いながら、自分の椀を取った。今夜の豆は少し硬かったが、全員が同じ鍋から食べている。
ゴルドが隣へ座る。
「俺の椀、小さくなってないか」
「最初からその大きさだろ」
ホバンが呆れた声を出す。
「お前の身体が大きいんだよ」
「そうだったな」
ゴルドは真面目な顔で頷いた。ネマが吹き出し、周囲で小さな笑いが起きる。
レオンは匙を止め、少し離れた空の席へ目を向けた。ダンが座っていたあたりだった。今は別の兵士が荷物を置いている。ふとした拍子に、黒髪と欠けた前歯が浮かぶ。
ミラがこちらを見る。レオンは黙って匙を動かした。
翌朝、城門の前には見知らぬ奴隷兵たちが列を作っていた。古い鎧を着た人間もいれば、角を持つ者、獣耳を隠そうとする者もいる。人数は数えきれず、馬車には寝具と食料の袋が積まれていた。
レオンはガレスと一緒に、倉庫の前で荷を受け取った。
「こんなに集めて、どこへ行かせるんでしょう」
「今はここに留めるらしい。北の小拠点から兵を下げてきたんだ」
「外哨を守る人が減ったら、魔物がもっと近づきませんか」
「そうなるかもしれん。だが、少人数で孤立するよりは、ここの壁の内側へ寄せた方が守れると判断したんだろう」
レオンは荷車を見た。食料袋の数を記録する兵士が、何度も書類を確かめている。人が増えれば食事も寝床も必要になる。北の外哨で見た壊れた塔が、頭から離れなかった。
「班の欠員はどうなります?」
「まだ補充の話はない。お前の班は現在29人だ」
「……はい」
レオンは頷いた。ユリウは治療所に残り、ダンは戻らない。新しい契約を結んでも、そのことは変わらなかった。
ミラが荷車の先で耳を動かした。
「また風が冷たくなったね」
レオンも北を見た。城壁の上では正規兵が矢束を運び、見張りの声が飛び交っている。
何が近づいているのか、まだ分からない。ただ、前より多くの人間がこの要塞へ集まっていた。
「レオン、ぼさっとするな。荷が残ってるぞ」
ホバンが呼ぶ。
「今行く!」
レオンは袋を持ち上げ、仲間の方へ歩き出した。




