妹
王籍を失ってから、離宮の空気は目に見えて変わった。
兵士が増えたことだけではない。これまでレオンの身の回りを担当していた侍女の半数が外され、食事を運ぶ者も毎回違うようになった。扉の前には常時2人の近衛兵が立ち、図書塔へ行く許可も取り消された。
当然だ、とレオンは思った。
昨日までの自分は、帝国が丁重に扱う必要のある外国王族だった。今は処遇が決まっていない戦時拘束者にすぎない。
分かっているつもりでも、朝になっていつもの侍女が来なかったときは少し寂しかった。
人は贅沢に慣れる。
王宮にいたころは、誰かに殴られない1日があれば、それだけでよかった。それが2年間穏やかに暮らしただけで、同じ顔の侍女が朝食を運んでくることまで当たり前だと思うようになっていた。
昼前、帝国官吏が2人やってきた。
「私物の確認を行います」
拒否権はない。
レオンは机から離れた。
衣服、本、筆記具、祖国から持参した小物まで、1つずつ卓上へ並べられていく。武器になるもの、暗号に利用できるもの、他者との連絡手段になるものがないか確かめるのだという。
官吏の手が、小さな紙包みに伸びた。
「あ、それは」
思わず声が出た。
男が手を止める。
「何ですか」
「……押し花です」
紙が開かれた。
白い小さな花は2年たって色が褪せ、花弁の縁が茶色くなっている。
官吏は裏表を確かめた。
「文字があります」
レオンの胸が冷えた。
『西の中庭の花です。忘れないように。セレスティア』
たったそれだけだ。
だが今は敵国王族から渡された物になる。
「暗号ではありません」
「確認します」
男は別の官吏へ紙を渡した。
「返してもらえますか」
自分でも驚くほど強い声になった。
2人がこちらを見る。
レオンは咄嗟に目を伏せそうになり、踏みとどまった。
「お願いします。それだけは」
官吏はしばらく黙っていたが、紙を光へ透かし、魔法具らしい小さな板を当てたあとで返した。
「魔力反応なし。問題ありません」
「ありがとうございます」
押し花を受け取った途端、指先から力が抜けた。
馬鹿みたいだと思う。
王籍を奪われた昨日より、こんな小さな紙切れを取り上げられそうになった今の方が必死だった。
官吏たちは淡々と確認を続け、30分ほどで帰っていった。
レオンは椅子へ座り、押し花を見つめた。
西の中庭を思い出して目を閉じると、白い花が咲く木が浮かぶ。
母が死んだのは、レオンが10歳のときだった。
病だった。
もともと身分の低い下級貴族家の娘で、王宮で強い後ろ盾を持たなかった母が亡くなると、レオンの立場は目に見えて悪くなった。
第8王子という呼び名だけは立派だったが、王位継承からは遠い。母方の家に政治力もなく、本人に目立った才能もなかった。
兄たちにとっては、暇を潰す相手としてちょうどよかったのだろう。
最初は言葉だけで、役立たず、妾腹、王家の余り物と罵られた。やがて物を隠され、食事を捨てられ、訓練場でわざと強い相手と組まされるようになった。
訴えればどうなっただろう。
考えたことはある。
だが使用人たちは目を逸らし、教師は「王子同士の戯れ」と言った。父王に直接話す勇気はなかったし、話したところで、兄たちより価値の低い自分のために何が変わるのか想像できなかった。
だから耐えた。
怒らせなければいい。
目立たなければいい。
自分が我慢すれば、そのうち終わる。
そう覚えた。
ただ1人だけ、そのやり方を理解しない子がいた。セレスティア・アルヴェリアという、レオンより3歳年下の異母妹だった。
彼女の母は王妃に近い有力公爵家の出身で、レオンとは本来ならほとんど接点がないはずだった。
それでもセレスティアは、なぜかよく西の中庭へ来た。
初めてまともに話した日のことを、レオンは今でも覚えている。
12歳の自分は兄たちに昼食を捨てられ、中庭の木陰で腹が鳴るのを我慢していた。
そこへ9歳の少女がやってきた。
淡い金色の髪は腰近くまで伸び、陽を受けると白く輝いた。大きな蒼い瞳はアルヴェリア王家らしい色をしていて、白い頬にはまだ幼さが残っていた。
彼女はレオンの顔を見るなり言った。
『お兄様、お腹が空いているのですか?』
『空いてない』
直後に腹が鳴った。
セレスティアは笑わなかった。
持っていた籠からパンを1つ取り出し、半分に割った。
『では、私が食べきれないので半分お願いします』
子供らしい、下手な嘘だった。
それがありがたかった。
哀れだから恵むのではなく、食べきれないから手伝ってほしいという形にしてくれた。
後で考えれば、9歳の少女がそこまで考えていたのかは分からない。
けれど、その日からセレスティアは見かけるたびに話しかけてきた。
レオンが避けても追ってきた。
本を読んでいれば隣に座り、怪我をしていれば理由を聞いた。
兄たちにされたことを全部話したことはない。
言えば、彼女が怒るからだ。
実際、1度だけ頬の痣を見つけられたとき、セレスティアは本気で父王へ訴えに行こうとした。
止めるのに苦労した。
『どうして止めるのですか』
『大したことじゃないから』
『大したことです』
『いいんだよ』
『よくありません』
あのころから、彼女だけはレオンが我慢することを美徳だとは思っていなかった。
15歳になった日もそうだった。
大聖堂で天賦技能を鑑定され、《テイマー》と告げられたとき、周囲はざわついた。
王族が得るには地味だが、強力な魔獣を従えられれば価値がある。
期待はすぐ失望に変わった。
用意された魔物にも、軍用獣にも、技能は1度も発動しなかった。
数か月後には「使えないテイマー」が定着した。
セレスティアだけは違った。
『まだ使い方が分からないだけかもしれません』
『鑑定ではテイマーなんだ』
『だから何です?』
『テイマーなのに、何も従えられない』
『なら従えなければいいではありませんか』
あまりに簡単に言うので、レオンは笑ってしまった。
『それじゃ何のための技能なんだよ』
『私は、お兄様が誰かを従えているところなんて想像できません』
褒められているのか分からなかった。
今思えば、あれほど自分の技能の本質に近い言葉はなかったのかもしれない。
もちろん、このときのレオンには知る由もない。
自分の《テイマー》がなぜ1度も発動しないのか、答えはどこにもなかった。
17歳になり、帝国へ人質として送られることが決まった夜、セレスティアは泣いた。
当時14歳だった彼女はすでに身長がレオンの肩近くまであり、淡い金髪も以前より長くなっていた。それでも泣き方だけは幼いころと同じで、何度拭っても蒼い瞳から涙が出た。
『私が父上にお願いします』
『決まったことだよ』
『嫌です』
『戦争を終わらせるためだ』
『どうしてお兄様なのですか』
答えられなかった。
死んでも困らないからだ、と言えば彼女はもっと泣く。
『2年くらいで戻る』
根拠のないことを言った。
『本当ですか』
『ああ』
『絶対ですか』
『絶対』
そのとき渡されたのが、今手の中にある押し花だった。
そして翌年、帝国にいるレオンのもとへ珍しく私的な手紙が届いた。
セレスティアが15歳になり、《天軍》という天賦技能が発現したこと、それが王国史でも希少な国家級技能と判定され、王宮中が騒ぎになったこと。
手紙にはそんなことより、最近読んだ本や城で飼い始めた猫の話の方が長く書かれていた。
最後には、
『お兄様が戻ったら、また西の中庭へ行きましょう』
とあった。
現在の彼女は16歳になっており、今や《天軍》を持つ王女でもある。
今ごろ何をしているのだろう。
自分の王籍が剥奪されたことを知っているのか。
知っていたなら、きっと怒ったはずだ。
父へ食ってかかったかもしれない。
そう考えた瞬間、レオンは首を振った。
期待するな。
彼女に何かできるはずがない。
16歳の王女が、父王と王太子を相手に国家の決定を覆せるはずがない。強い天賦技能があることと、政治的な権力があることは別だ。
それに、自分のせいでセレスティアの立場まで悪くなることは望んでいなかった。
扉が叩かれた。
レオンは押し花を急いで紙に包んだ。
入ってきたのは近衛兵だった。
「レオン殿」
殿下ではない。
それが初めてだった。
胸の奥がわずかに痛んだが、顔には出さなかった。
「何でしょう」
「明朝、離宮を移っていただきます」
「どこへ?」
「現在のところ、お伝えできません」
予想していたはずなのに、指先が冷たくなった。
「荷物は?」
「持参を許可された物のみです。詳細は後ほど」
兵士が去る。
レオンは紙包みを握った。
何を奪われても、これだけは持っていきたいと思った。
王子ではなくなった。
祖国にも帰れない。
明日どこへ連れていかれるのかも分からない。
それでも、自分にはまだ妹がいる。
国が自分を捨てても、あの子まで自分を捨てたと決まったわけではない。
そう考えることだけが、今夜を耐えるために必要だった。
レオンは押し花を胸元の内ポケットへしまった。
そして初めて、明日ここを出るときに振り返らないでいようと思った。
帰る場所を失ったのなら、せめて失った場所ばかり見続けるのはやめたかった。




