王籍剥奪
返事は翌日には来なかった。
2日目にも来なかった。
レオンは離宮から1歩も出ることを許されず、窓の外を通る兵士の数だけが増えていった。侍女は食事を運ぶとすぐに下がり、こちらから尋ねても戦況は知らされない。机の上には読みかけの地誌が置かれたままだったが、同じ1行を何度読んでも頭に入らなかった。
祖国は撤退するだろうか。
自分のために撤退するとは思っていない。そんな期待を持てるほど、アルヴェリアで大切にされた記憶はなかった。それでも自分が帝国にいる以上、交渉材料にはなるはずだった。第8王子であっても国王の実子には違いない。自分を殺されれば王家の体面に傷がつく。だから何らかの交渉はするだろうと考えていた。
考えているうちに、自分がまだ王族としての価値を計算していることに気づいた。
価値がなければ守られない。
それは王宮にいたころから知っていたはずなのに、どこかでまだ、血のつながった父なら最後には自分を切り捨てないのではないかと思っていたらしい。
3日目の午後、近衛兵が来た。
「皇帝陛下がお召しです」
レオンは立ち上がった。
膝に力が入りにくい。
何も聞かされていないのに、良い知らせではないと分かった。
皇帝に直接会うのは2年ぶりだった。人質として帝都へ到着した日に謁見して以来、公式行事で遠くから姿を見たことはあっても、言葉を交わしてはいない。
近衛兵に挟まれて皇城の中央部へ向かう。白い石床を歩く靴音がやけに響いた。すれ違う官吏たちはわずかにレオンを見て、すぐに目を逸らした。昨日までは小国の王子だった。今日は何なのか、自分にも分からない。
通されたのは謁見の大広間ではなく、軍議にも使われる小さな執務室だった。
部屋の奥に、ヴァルター・グランゼルがいた。
56歳で、身長は190cm近くあり、座っていても大柄だと分かる。短く整えた鋼色の髪には白いものが混じり、彫りの深い顔の中央にある暗灰色の瞳は、こちらの感情を量るように静かだった。軍人出身らしい厚い肩を濃灰色の皇帝服が包み、胸には小さな帝国章が1つあるだけだった。
華美な装飾を嫌うという噂を、レオンは思い出した。
右手には1枚の文書がある。
その脇には宰相と軍務官らしい男たちが並び、少し離れた場所にリシアも立っていた。黒髪をきっちりとまとめ、紫色の瞳はレオンを見た瞬間にわずかに揺れた。
その反応で、聞く前から分かってしまった。
「レオン・アルヴェリア」
皇帝の低い声が響いた。
レオンは片膝をついた。
「はい」
「アルヴェリア王国から正式な回答が届いた」
皇帝は文書を机の上へ置いた。
「読みたいか」
喉が乾いた。
「許されるのであれば」
近衛兵が文書を運んでくる。
紙を受け取った指先が、今度は少し震えた。
そこには王国の紋章と父王の署名があり、見間違える余地はなかった。
内容は短かった。
グランゼル帝国から要求されたラウネ地方からの撤兵を拒否すること。
国境に進駐した帝国軍を排除するまで軍事行動を継続すること。
そして、最後に記されていた。
『現時刻をもって、第8王子レオン・アルヴェリアを王族籍より除名する。以後、同人の身柄、生死及び処遇はアルヴェリア王国の外交判断に何ら影響を及ぼさない』
レオンはそこを2度読んだ。
3度目は読めなかった。
文字が揺れたからではない。意味が変わらないことが分かったからだ。
「……これは、いつ決まったのですか」
自分でも驚くほど普通の声が出た。
宰相が答えた。
「王国の回答によれば、昨日の臨時王国会議において決議されたとのことです」
昨日。
つまり2日間、祖国は考えた。
そのうえで決めた。
戦争を続けるためには、自分が邪魔だった。
だから王子ではなくした。
胸の中に何かが湧き上がると思った。
怒りや悲しみ、恐怖が出てくると思ったが、何も湧いてこなかった。
空っぽだった。
父王の顔が浮かぶ。最後にまともに会話したのはいつだっただろう。人質として出発する前の謁見だった気がする。
『王族としての務めを果たせ』
そう言われた。
レオンは、はい、と答えた。
王族ではなくなった今、自分は務めを果たしたことになるのだろうか。
「お父上の判断について、私から言うことはない」
ヴァルターが言った。
慰める気も、嘲る気もない声だった。
それがありがたくもあり、恐ろしくもあった。
「ただし、これによって状況が変わった。貴殿はもはや、帝国が外交上保護すべき外国王族ではない」
「……承知しています」
「承知している顔には見えんな」
レオンは顔を上げた。
皇帝と目が合う。
怖かった。
だが目を逸らすと、自分が本当に何も持たない人間になってしまう気がした。
「では、どんな顔をすればよいのでしょう」
部屋の空気が固まった。
自分でも、言ってから失礼だったと気づいた。
近衛兵が動きかけたが、皇帝が片手を上げて止めた。
「分からんか」
「分かりません。王籍を失うのは初めてですから」
短い沈黙の後、ヴァルターの口元がほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
「そうだな。私にも経験はない」
リシアがわずかに息を吐いた。
レオンはそこで初めて、自分が張り詰めていたことに気づいた。
皇帝は机の上の別の文書へ手を伸ばした。
「帝国としての貴殿の処遇は、まだ決定していない」
「処刑ではないのですか」
リシアが目を見開いた。
ヴァルターは表情を変えなかった。
「なぜそう思う」
「人質は約束を破った側への抑止です。役目を果たせなかったなら、殺すものでは?」
「昔ならな」
皇帝は椅子の背に身体を預けた。
「今ここで貴殿を処刑すれば、アルヴェリア王国はどう宣伝すると思う」
レオンは少し考えた。
「和平のために預けた王子を帝国が殺した、と」
「そうだ。王籍を奪っておきながら、死ねば殉教者として利用するだろう。死者は反論せんからな」
ひどく冷静な話だった。
しかし、その通りだと思った。
「なら、牢に?」
「それも選択肢だ」
皇帝はそこで言葉を切った。
「もっとも、貴殿1人を何年も帝都で養うにも金がかかる」
レオンは視線を落とした。
自分の人生が経費として計算されている。
本来なら侮辱なのだろう。
不思議と腹は立たなかった。
王宮でも似たようなものだったからだ。
そこでは自分の価値を、王家に何をもたらすかで測られていた。
帝国は少なくとも、それを隠そうとしない。
「陛下」
リシアが口を開いた。
「この場で処遇まで決める必要はありません。王籍剥奪が王国側の都合だけで行われた以上、和平保証人としての法的地位をどのように扱うか、諸外国への影響も検討すべきです」
皇帝が娘を見る。
「心配か」
「外交上の問題を申し上げています」
「そういうことにしておこう」
リシアの眉がわずかに寄った。
レオンは2人のやり取りを見ながら、奇妙な感覚を覚えた。
リシアは助けようとしている。
そのことが分かる。
だからこそ、申し訳なかった。
自分のために皇帝へ逆らわせたくない。
「陛下」
レオンが言った。
「1つだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「言え」
「私は、もうアルヴェリアへ帰れないのでしょうか」
口にして初めて、自分がそれを知りたかったのだと気づいた。
皇帝ではなく、宰相が答えた。
「王国が貴殿を王族籍から除名した以上、帝国が返還する外交上の義務はありません。また戦時中に敵国領へ解放することもできません」
「そうですか」
それだけだった。
帰れないと思った瞬間、セレスティアの顔が浮かんだ。
出立の日、14歳だった妹は泣いていた。淡い金髪を乱し、青い瞳を真っ赤にして、それでも最後には笑おうとしていた。
『帰ってきてください』
『帰るよ』
簡単に約束した。
王子なら、戦争が終われば帰れると思っていた。
もう王子ではない。
帰る権利すら、どこにあるのか分からない。
レオンは文書を折らずに返した。
「確認しました」
ヴァルターは近衛兵へ目を向けた。
「離宮へ戻せ。処遇が決まるまで監視を倍にする。危害は加えるな」
「はっ」
レオンは立ち上がった。
足元が少しふらついたが、転ばずに済んだ。
扉へ向かう途中、リシアの横を通る。
「レオン」
小さな声だった。
彼は足を止めなかった。
今振り返れば、何かが崩れそうだった。
廊下に出ると、窓から夕方の光が差し込んでいた。
帝都は昨日と変わらない。
人が歩き、馬車が走り、煙突から煙が上がっている。
世界は何も変わっていないように見える。
変わったのは自分だけだった。
第8王子レオン・アルヴェリアと名乗ってきた19年間が、1枚の文書で終わった。
では、今の自分は何者なのか。
答えはなかった。
離宮へ戻ったあと、レオンは机の引き出しを開けた。
祖国から持ってきたものはほとんどない。その中に、小さな白い押し花を挟んだ紙があった。
2年前、出立前にセレスティアから渡されたものだった。
『西の中庭の花です。忘れないように』
忘れてはいない。
忘れられるはずもなかった。
レオンは押し花へ触れようとして、手を止めた。
自分はもう、あの城の住人ではない。
妹の兄であることまで奪われたわけではない。それでも、アルヴェリアという名前を名乗ってよいのかすら分からなかった。
窓の外が暗くなっていく。
夕食には手をつけなかった。
腹が減っていないわけではない。
何かを飲み込めば、王籍を失ったことまで身体の中へ入ってきそうな気がした。
夜になってから、ようやく気づいた。
自分は父に捨てられたことよりも、セレスティアとの約束を守れなくなったことの方が苦しい。
その事実だけが、空っぽだった胸の奥で、鈍い痛みに変わって残っていた。




