人質の王子
帝都の朝は、アルヴェリアより少し早い。
少なくともレオンにはそう感じられた。高い城壁に囲まれた皇城の向こうから鐘が鳴り始めるころ、東向きの窓にはもう白い光が差し込んでいる。窓辺に立つ自分の影をぼんやり眺めてから、レオンは寝癖のついた銀灰色の髪を手で押さえた。19歳になった身体は2年前より少し伸び、身長は178cmほどになっていたが、肩幅はまだ細い。鏡の中の淡い青灰色の瞳は、王子だったころよりも少しだけ穏やかになったように見えた。
人質になって穏やかになったというのも、妙な話だと思う。
アルヴェリア王国の第8王子として暮らしていたころより、敵国であるグランゼル帝国での暮らしの方が静かだった。
自由ではない。皇城の外へ出るには許可がいるし、離宮の各所には帝国兵がいる。届いた手紙は検閲され、祖国から送られてくるのは季節ごとの形式的な文書だけだった。それでも、食事の皿をひっくり返されることもなければ、廊下ですれ違った兄たちに足を掛けられることもない。訓練と称して木剣で何度も打ち据えられ、痛がると笑われることもなかった。
ここでは少なくとも、自分は価値のある人質だった。
価値があるから丁寧に扱われる。
その程度のことでも、レオンには足りていた。
扉が2度叩かれた。
「どうぞ」
入ってきた侍女が軽く頭を下げた。
「第3皇女殿下がお見えです」
「こんな朝から?」
「朝食をこちらで、と仰せです」
レオンは少しだけ眉を上げた。リシアは予告なく現れることがある。最初は監視のためなのだと思っていたが、半年を過ぎたころには、どうやら単純に退屈すると来るらしいと分かった。
ほどなくして、侍女たちを連れたリシア・グランゼルが入ってきた。リシアは20歳で、身長は166cmほどあり、艶のある黒髪を肩甲骨の辺りまで伸ばしている。深い紫色の瞳は帝国皇族に多い特徴だと聞いた。華やかな顔立ちをしているのに、今日も宝石は小さな耳飾りだけで、紺色のドレスにも余計な装飾はない。
「おはようございます、レオン」
「おはようございます、殿下」
「2年たっても、それをやめませんね」
「何をです?」
「殿下、と呼ぶことです」
「皇女殿下を皇女殿下と呼ぶのは普通では?」
「人質のくせに妙なところだけ礼儀正しいのですね」
「人質だからでは?」
リシアは口元を緩めた。
この程度の冗談を言えるようになるまで1年近くかかった。最初のころのレオンは、彼女が部屋へ来るだけで何か失礼をしないかと緊張していた。
朝食が運ばれ、2人は窓際の小さな卓についた。焼いたパン、卵、野菜のスープ、薄切りの肉が並ぶ。王宮にいたころより質素だが、レオンはこのくらいの方が好きだった。食べ残せば料理人に申し訳ないと思う必要もない。
「今日も図書塔へ?」
リシアが尋ねた。
「そのつもりです。帝国北部の地誌を借りています」
「北部ですか。変わったものを読みますね」
「暇ですから」
「2年もいるのですから、もう帝都のことは私より詳しいのではありませんか?」
「それはないですよ」
「市場の菓子屋の場所を5軒も知っている人に言われても説得力がありません」
「あれは侍従に教えてもらっただけです」
「では帰国されたら、帝都案内の本でも書けばよいでしょう」
軽い口調だった。
レオンも笑いかけて、それから言葉が少し遅れた。
「帰っても、自分の部屋が残っているか分かりませんから」
リシアの手が止まった。
しまった、とレオンは思った。
自分としては冗談のつもりだった。だが彼女は、レオンが祖国でどう扱われていたかを断片的に知っている。
「……戻りたくないのですか?」
「戻りたいかどうかを考えても仕方ありません」
答えながら、胸の奥に小さな棘が刺さる。
戻りたい場所なら1つだけあり、それは城の西棟にある小さな中庭だった。春になると白い花が咲く木の下で、妹のセレスティアがよく本を読んでいた。3歳年下の彼女だけは、レオンを役立たずとは呼ばなかった。
だからといって、アルヴェリア王国そのものを恋しく思えるかと聞かれれば、答えに困る。
リシアはそれ以上追及しなかった。代わりに卓の横に置いてあった盤上遊戯の箱を指した。
「朝食後、1局どうです?」
「昨日3連敗したのを忘れたんですか?」
「だから今日取り返すのです」
「負けず嫌いですね」
「帝国皇族ですから」
「関係あります?」
「あります。たぶん」
レオンは笑った。
こうして笑えること自体が、2年前には想像できなかった。
15歳で《テイマー》という天賦技能を授かった日から、王宮での立場はさらに悪くなった。魔物を従える技能だと期待されたのに、どんな魔物にも使えなかった。犬1匹従えられない王子、王家に生まれた失敗作と、聞き飽きるほど言われた。
17歳で帝国への人質に選ばれたとき、驚きはしなかった。
死んでも困らない王族が必要なら、自分ほど適任はいなかったからだ。
それでも出立の日、セレスティアが泣きながら袖を掴んで離さなかったことだけは覚えている。
帰ってきてください、と何度も言われた。
レオンは、帰る、と答えた。
守れるかどうかも分からない約束だった。
食事を終え、盤を広げたところで、遠くから低い鐘の音が響いた。
鐘が1度、2度、3度と続けて鳴った。
リシアが顔を上げる。
レオンは意味を知らなかったが、彼女の表情が変わったことで、日常の鐘ではないと分かった。
廊下を兵士が走る音がした。
続いて別の鐘が重なる。皇城のあちこちで扉が開き、怒鳴り声が飛び交い始めた。
「何です?」
レオンが尋ねると、リシアは立ち上がった。
「軍務警報です」
「軍務?」
「皇城内の上級将校と皇族に緊急招集をかける鐘です」
彼女が窓の外を見る。先ほどまで整然としていた中庭を、伝令兵が何人も横切っている。
侍女の1人が扉の方へ向かった瞬間、外側から強く叩かれた。
「第3皇女殿下」
若い近衛兵が入ってきて片膝をついた。顔に緊張が浮かんでいる。
「陛下より、直ちに西議場へお越しになるようにとの命です」
「何が起きたのです?」
近衛兵がわずかにレオンを見る。
その視線だけで、レオンの胃の辺りが冷たくなった。
「申し上げます。今朝未明、アルヴェリア王国軍がラウネ国境線を越境しました」
リシアの表情から色が消えた。
レオンは言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
アルヴェリア軍が越境した。それは国境紛争ではない。
2年前、自分を差し出して成立した和平が破られたということだった。
「規模は?」
「確認されているだけで3個軍団です。国境守備隊とすでに交戦しています」
リシアがこちらを見る。
レオンは自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
3個軍団なら小競り合いではない。
祖国は、本気で帝国と戦争を始めた。
では、自分はどうなる。
その問いが浮かんだ瞬間、自分がそんなことを最初に考えたことが嫌になった。
国境では今も人が死んでいる。
けれど、レオンは軍人ではない。国王でもない。戦争を止める権限もない。
できるのは、人質としてここにいることだけだった。
リシアが近づいてきた。
「レオン」
普段の軽さがない。
「はい」
「ここから出ないでください」
「分かりました」
「私が戻るまで、誰が来ても勝手についていかないで」
その言い方に、胸の奥がざわついた。
「そこまで危険なんですか?」
リシアは答えなかった。
答えないことが答えだった。
彼女は踵を返し、近衛兵とともに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
盤上には、まだ1つも駒を動かしていない盤が残された。
レオンは椅子へ座ったまま、窓の外を見た。
鐘は鳴り続けている。
昼になってもリシアは戻らなかった。
離宮の周囲の警備兵が増えた。
侍女たちも必要最低限しか部屋へ入らなくなった。
夕方、食事が運ばれてきたが、ほとんど喉を通らなかった。
夜になり、ようやく鐘が止んだ。
静かになったはずなのに、耳の奥ではまだ鳴っているような気がした。
扉が開いたのは、月がかなり高くなってからだった。
リシアではなかった。
灰色の官服を着た中年の男と、武装した近衛兵が4人入ってきた。
男は無表情に書類を開いた。
「レオン・アルヴェリア殿下」
まだ殿下と呼ばれた。
そのことが、かえって不吉に思えた。
「帝国政府より正式に通告いたします。本日をもって、グランゼル帝国とアルヴェリア王国は戦争状態に入りました」
知っていたはずの言葉なのに、改めて口にされると胸に重く落ちた。
男は続ける。
「和平条約に基づく保証人として、貴殿の行動は本日より帝国政府の直接管理下に置かれます」
レオンは自分の手を見た。
震えてはいなかった。
それが不思議だった。
「アルヴェリアへは?」
「すでに通告を送っています」
「内容を聞いても?」
男は少しだけ間を置いた。
「王国軍の即時撤退です」
「拒否した場合は?」
今度は男が答えなかった。
レオンは目を閉じた。
聞かなくても分かる。
2年間、人質として生きてきた。
人質には1つだけ役割がある。
相手が約束を破ったとき、その代償になることだ。
窓の外には帝都の灯りが見えた。2年間見慣れた景色だった。
明日も見られるのかは分からない。
不思議なことに、死ぬのが怖いというより、最初に浮かんだのは妹の顔だった。
セレスティアとの約束を守れそうにない。
そう思ったとき、胸の奥が初めて強く痛んだ。
その夜、レオンは眠ることができなかった。
祖国が戦争を始めた。
そして今、自分の命は祖国が次に選ぶ答えに懸かっていた。




