帰れない道
担架は、思っていたより重かった。
レオンは最初の交代で後ろの持ち手を握った。木の棒が掌へ食い込み、石の段差を越えるたび、負傷した補助兵の身体が揺れる。痛みに呻く声が聞こえると、足を止めそうになった。
「持ち上げる前に声をかけろ」
ガレスが言った。
「はい。せーの、で行きます」
前を持つホバンと息を合わせ、段差を越える。担架の男は口を結び、目を閉じたまま耐えていた。
フェリス伍長はもう1人の兵士に肩を貸されて歩いている。額を打った女は比較的短い距離なら歩けるが、時折ふらつくので、交代で腕を支えた。荷物を減らしても、歩く速度は行きの半分ほどだった。
「少し先で休ませてください」
レオンが提案すると、サイラスは木々の間を見た。
「曲がり角まで進め。ここでは後ろが見えん」
レオンは頷いた。
先頭を行くミラが戻ってきた。
「道の左が崩れてる。担架は1つずつ持ち上げないと通れない」
「左側に避けられる場所はある?」
「少し先に岩の窪みがある。でも大勢で隠れるほど広くない」
レオンはガレスと地図を開き、迂回できる道を探した。北の旧山道へ戻る方が短いが、外哨から押し寄せた魔物がいるかもしれない。
サイラスは南東の岩場へ向かうよう命じた。
「石段を越えれば見通しがよくなる。そこで隊列を整える」
「分かりました」
林から獣の鳴き声が上がった。鹿のような高い声と、灰牙犬の低い唸りが重なる。レオンには敵同士が争っているのか、ただ逃げているのか分からなかった。
「後ろ、来るぞ!」
ダンが叫んだ。
盾兵が振り向き、灰牙犬を受け止めた。ミラはすぐに戻ってきて側面へ回るが、地面が悪く、思うように踏み込めない。
「岩へ寄せるよ!」
彼女は短剣で魔物の前脚を斬り、右へ跳んだ。灰牙犬が追いかけたところへ、ホバンたちの槍が突き出される。
「ミラ、深追いしないで!」
「分かってる!」
彼女の返事は荒かった。契約の恩恵があっても、濡れた石の上では足を取られる。レオンは槍兵の位置を少し下げ、動ける空間を作った。
ゴルドは《鬼神》を使わず、大斧の柄で別の灰牙犬を押し返した。狭い道では全力の一撃より、敵の進路を塞ぐ方が助かる。
短い戦闘で誰も倒れなかったが、担架を持つ者たちの息は荒くなっていた。
石段へ着くと、列が詰まった。先頭の兵士は通れるものの、担架を水平に保ったまま曲がるのが難しい。ネマが紐を短く結び直し、持ち手を変える。
「俺が持とう」
ダンが盾を背へ回した。
「でも、後ろの守りは?」
レオンが尋ねると、ダンは首を振る。
「この段だけだ。抜けたら戻る」
サイラスに確認し、ダンを含む数人が担架を持ち上げた。レオンは道の出口で人数を確認する。1人ずつ通るたび時間がかかり、後衛が立ち止まったままになった。
遠くの斜面で木が折れる音が続いている。
「急げないかな」
思わず呟くと、ガレスが横から答えた。
「急かして担架を落とせば、もっと時間を失う」
分かっている。それでも後方を見ずにはいられなかった。
そのとき、後ろの林から鈍い音がした。
振り向くと、太い枝が揺れ、灰牙犬が横へ逃げ出していた。続いて大きな角を持つ鹿が現れる。普通の鹿よりはるかに肩が高く、硬い岩を跳び越えて突進してくる。片方の角には折れた枝が絡まり、目を剥いたまま前へ進んでいた。
「角鹿だ、横へ避けろ!」
ガレスの叫びが響いた。
レオンは担架の横にいた。曲がり角のため、後ろの兵士が見えない。角鹿の進路には、段差を越えたばかりの負傷者と、盾を背へ回したダンがいる。
「ダン、右へ!」
レオンが叫ぶと、ダンは盾を引き戻し、担架と角鹿の間へ入った。避けようにも後ろは岩壁で、担架を持つ兵士が足を止めている。
角鹿は速度を落とさなかった。
硬い角が盾へ当たり、木の割れる音が響く。ダンの身体が跳ね上がり、岩壁へ叩きつけられた。鹿はそのまま斜面の方へ走り抜け、折れた盾の破片が足元へ落ちた。
レオンは何が起きたのか、すぐには分からなかった。
「ダン!」
剣を抜いたまま駆け寄る。ダンは岩壁の根元に倒れ、身体を横へ向けていた。いつも盾を締め直していた左手が、土を掴んでいる。
「ダン、聞こえますか」
肩へ触れる。返事がない。
ガレスが膝をつき、呼吸と首元を確かめた。レオンは自分の手が震えていることに気づいた。
「リーネなら……」
「ここにはいない」
ガレスの声は低かった。
「動かすな。もう息がない」
レオンは顔を上げた。
「でも、さっきまで」
「分かってる」
ダンの目は半ば開いたままだった。レオンは何度も名前を呼んだ。口を開けば返事をしてくれる気がしたが、欠けた前歯を見せて笑うこともなかった。
背後で別の獣の鳴き声が上がる。
「移動を再開しろ!」
サイラスが命じた。
「ここは狭い。もう1度突っ込まれたら隊列が崩れる」
レオンはダンの身体へ手を回しかけた。
「運べませんか。担架をもう1つ」
「時間がない」
「木を使えば」
「今ある担架もやっと通したんだぞ!」
軍曹が近づいてきた。青緑色の目が、倒れた兵士へ向く。短い沈黙のあと、サイラスが静かに言った。
「俺が判断する。後衛はまだここを通っていない。全員を止めている余裕はない」
レオンは言葉が出なかった。
ダンを置いていきたくない。ここで1人にしたくない。それでも負傷した3人は歩みを止めており、ほかの兵士たちも狭い道で身を寄せ合っている。
ガレスがダンの首元から番号札を外し、レオンへ差し出した。
「位置を記録する。戻れるかどうかは、要塞で判断を仰ぐ」
「……はい」
レオンは地図に目印を書いた。手が揺れ、線が曲がった。ガレスが横から岩の形を確かめ、正しい位置に小さな印を付け直してくれた。
ホバンがしゃがみ込み、割れた盾の端を見た。
「……あいつ、昨日も金具を直してたな」
誰も答えなかった。サイラスの命令が再び飛び、兵士たちが動き始める。
レオンは最後にダンの顔を見た。
「ごめんなさい」
声が掠れた。何に謝っているのかも、よく分からなかった。
ガレスが寄ってきてレオンにだけ聞こえるように言った。
「作戦中にリーダーが謝るな。前を向き続けろ」
レオンはガレスを思わず見たが、立ち上がり、担架の方へ歩いた。
「前を進めてください。段差はあと少しです」
言いながら涙が滲んだ。拭けばよいのに、手を上げることができなかった。
岩場の出口までたどり着くと、前方の斜面から別の大きな影が現れた。甲殻に覆われた鎧猪が1頭、鼻を鳴らして地面を掘っている。こちらに気づいたのか、頭を上げた。
「ゴルド!」
レオンは声を上げたが、すぐに周囲を見た。左右に槍兵がいる。後ろには担架がある。ここで《鬼神》を使わせ、反動で動けなくなれば運べない。
「槍兵、横へ開いて! 担架を岩の陰へ!」
ゴルドが大斧を下ろし、レオンへ目を向けた。
「《鬼神》を使うか」
「短くお願いします。道を開いたらすぐ下がってください」
「分かった」
赤黒い魔力が巨体を包み、ゴルドが一気に踏み込んだ。斧の柄が鎧猪の牙へ当たり、重い衝撃音が響く。正面から止めるのではなく、首の向きを岩場側へずらす。鎧猪は前脚を踏み外し、身体を横へ傾けた。
「今だ、通れ!」
サイラスが命じた。
ミラは灰牙犬の接近を警戒し、ガレスは担架の後ろで剣を構えた。レオンは移動する人の順番を確認する。鎧猪はまだ動いていたが、岩の陰を通り抜ければ進路から外れられる。
「ゴルド、戻って!」
ゴルドが斧を引き、赤黒い魔力を消した。顔には疲れが見えたが、脚は動いている。
「下がるぞ」
レオンは頷いた。盾兵たちが後衛の間隔を整え、全員が岩場の外へ出た。
その後もしばらく進んだが、追撃する魔物は見えなかった。夕暮れ前、サイラスが見通しのよい尾根の陰で休止を命じた。見張りを置き、傷の確認と食料の分配を始める。
レオンは名簿を開いた。
行動可能だった班員は29人。ダンを数えようとして、指が止まった。
「……28人です」
自分の声が遠く聞こえた。正規兵4人と救出した3人は全員いる。班員だけが1人少ない。
ミラがレオンの隣へ座り、黒パンを差し出した。
「食べなよ」
「……今は」
「少しでいい」
彼女は自分もパンをちぎり、口へ運んだ。笑顔はなかった。ダンの話をしないことが、気遣いなのか、自分も言葉を見つけられないのか、レオンには分からなかった。
少し離れたところで、ホバンが折れかけた槍の柄を確かめていた。いつもなら文句を言いながら直すのに、今日は黙ったままだ。
ガレスが横へ来た。
「食え。明日はまだ歩く」
「俺がもっと早く下がらせていれば」
「さっき言っただろう、まだ作戦中だ。どこで、何を見落としたかは後で考えろ。今は生きてる奴の手が必要だ」
レオンはパンを握った。ダンの顔が浮かぶ。昨日、橋のことを話してくれた。自分で作った橋をもう1度見たいと言っていた。
「分かってます!だけど俺、あの人に帰れたらいいですねって言ったんです」
ガレスは返事をしなかった。
「なのに、置いてきた」
「……ああ」
それだけだった。レオンはパンを少しかじった。味は分からなかった。
夜になると風が強くなり、焚き火の火が揺れた。レオンは地図を開き、ダンが倒れた場所の印を確かめる。周囲の地形を書き足し、もう1度折り畳んだ。番号札は小さな布袋へ入れて胸元にしまった。
眠れる気はしなかったが、横になった。遠くで獣の声が聞こえるたび、身体が強張る。
夜明け前、交代の見張りが戻ってくる。レオンは立ち上がり、3人の負傷者の様子を確かめた。全員、生きていた。
サイラスが出発を命じる。
レオンは28人を数え直し、南へ続く道へ歩き出した。




