黒岩外哨
黒岩外哨へ近づくにつれ、レオンは歩く速度を落とした。
昨夜まで立っていた霧は薄くなり、山肌の黒い岩がはっきり見える。旧山道の上には枝が散らばり、折れた幹が進路を塞いでいた。横を通り抜けるたび、木の皮を剥がしたような生々しい傷が目に入る。
「足音は?」
レオンが尋ねると、ミラは耳を動かした。
「小さいのはいる。でも、近くにはそんなにいないと思う」
「人の声は?」
「聞こえない」
それだけの返事が重く感じられた。
サイラスは前進を止め、正規兵の1人を高い岩へ登らせた。遠眼鏡を覗いた男が手を上げる。
「外哨が見えます。塔が崩れています」
誰もすぐには声を出さなかった。
レオンが岩の陰から覗くと、遠くの尾根に石造りの砦が見えた。見張り塔の上部は折れ、門の片側は内側へ倒れている。壁には黒い筋が走り、かつて旗を掲げていたらしい柱だけが斜めに残っていた。
「人は見えるか」
サイラスが聞いた。
「動く影はありません」
「全員、武器を持て。声を出すな」
細い道を抜けて近づくと、外哨の規模が分かってきた。外壁は高くないが、狭い谷を見張るには十分な場所だったのだろう。中央に石の建物、側面に倉庫、奥には物見塔がある。そこへ何かが無理やり押し入ったような跡があった。
門の木材が内側へ散らばり、石畳には深い爪痕と大きな蹄の跡が重なっている。
「……こんなに」
レオンは言葉を止めた。
中庭に倒れた帝国兵がいた。盾を握ったまま動かず、鎧には土が詰まっている。その向こうにも人影があり、顔の上に破れた外套がかかっていた。
サイラスは膝をついて脈を確かめ、静かに首を振った。
「遺体は後で確認する。まず生きている者を探せ。建物へ入るときは2人以上で動くこと」
レオンは頷いた。死者を見た途端に足がすくんだ自分が情けなくなったが、そこで立ち止まるわけにはいかない。
ガレスとミラ、ネマを連れて倉庫側へ回る。窓の格子は曲がり、石壁の一部が崩れていた。
「これ、内側から壊したんじゃないですね」
レオンが言うと、少し離れた場所を調べていたダンが振り向いた。
「上の石がこっちへ落ちてる。外から押されたんだ」
ダンは崩れた壁の下へしゃがみ、砕けた石を指先で動かした。
「支えの石が抜けてる。塔も同じだろうな。上に乗っている重さを横から押されると、案外簡単に崩れる」
「何がこんなことを?」
「知らん。だが、まともに受けたくないな」
欠けた前歯を見せる笑い方が、いつもより小さかった。
倉庫の扉は歪んで開かなかった。ネマが錆びた蝶番を確かめ、持参した小さな鋸と槌を取り出す。
「片方を外せば開く。音が出るけどいい?」
「ミラ、周りを見てくれる?」
「分かった」
彼女は耳を立て、少し離れたところへ移動した。レオンは扉を支え、ネマが金具を外すのを待った。力を入れすぎて板を割らないようにすることだけで精一杯だった。
扉が動いた瞬間、暗い倉庫の中から乾いた臭いが流れてきた。穀物袋は破れて床へ散り、壁際には水樽が倒れている。
「ここには誰もいないかな」
レオンが呟いたとき、ミラの耳がぴんと立った。
「待って。下で音がした」
「地下?」
「木が擦れたみたいな音。人かどうかは分からない」
足元を調べると、空になった棚の下に鉄輪のついた板があった。床の一部が地下貯蔵庫の蓋になっているらしい。
レオンはすぐに持ち上げようとしたが、ガレスが腕を掴んだ。
「向こうに誰かいるなら、急に開けるな。敵だと思われる」
「……分かりました」
ガレスが蓋へ向かって名乗った。
「帝国軍の調査隊だ。中に人はいるか」
返事はなかった。
再び呼ぶと、かすかに金属を叩く音がした。続いて、弱々しい男の声が聞こえる。
「……本当に帝国軍か」
サイラスが呼ばれ、所属と合言葉を答えた。少しして、内側の留め金が外れる音がした。
蓋を開けると、冷たい湿気が上がってきた。
下には3人がいた。正規兵の下士官らしい40歳前後の男は、茶色の髪がほとんど白くなりかけ、右のこめかみに深い傷があった。暗い茶色の目は落ち窪み、左肩を布で吊っている。ほかの2人は補助兵らしく、痩せた若い女は額に包帯を巻き、もう1人の長身の男は右脚を伸ばしたまま座っていた。いずれも唇が乾いている。
「水を」
レオンが水筒を渡そうとすると、リーネの言葉が頭に浮かんだ。
「少しずつ飲んでください。急には飲まないで」
男は水を受け取り、手を震わせながら口をつけた。
サイラスが地下へ降り、下士官の胸元に残った階級章を確かめた。
「氏名と所属を」
「フェリス・オルド伍長。黒岩外哨の見張り担当です」
声は枯れていたが、男は姿勢を正そうとした。サイラスが手で制する。
「襲撃を受けたのか」
「……そう呼んでいいのか分かりません」
フェリスは暗い階段の上を見た。
「北の斜面から鹿が来たんです。すぐ後ろに灰牙犬、その後ろに鎧猪が何頭も。全部が一緒に走ってきました」
「何頭だ」
「数えられませんでした。見張り塔へ登ったときは、もう谷いっぱいに動く影がいて」
フェリスは咳き込み、しばらく答えられなかった。
隣の女が小さな声を出した。
「門を閉めたら、ぶつかってきたんです。逃げようとしたのか、壊そうとしたのかも分かりません」
レオンは折れた門を思い浮かべた。灰谷村を襲った鎧猪も、家畜に追い立てられるように方向を変えていた。こちらを狙うというより、前にあるものを見ずに走る姿だった。
「兵士は何人いたんですか」
「当直を含めて20人ほどです。外で見回っていた奴らもいた」
フェリスの視線が下がった。
「何人が逃げたか分かりません。門が破れたときに俺たちは倉庫へ下がりました。ここに隠れて、助けが来るのを待ったんです」
「灯火は?」
サイラスが尋ねる。
「最初の衝突で塔が倒れました。伝令を出す前でした」
レオンは地下の空気を吸った。2晩、ここにいたのだろうか。暗いところで足音と物音を聞きながら、誰かが開けるのを待つ時間を想像すると喉が詰まった。
サイラスは口を結び、背後の正規兵に指示した。
「確認できた遺体の特徴と階級章を記録しろ。建物の残りも急いで見る。長居はしない」
フェリスが声を上げた。
「連れていってもらえるんですか」
その問いに、レオンは答えられなかった。決定するのはサイラスだ。軍曹は負傷者の状態を見ている。
「運べるかどうかを調べる。動かすことで全員が危険になるなら、その場で判断する」
女の顔が強張った。レオンは思わず前へ出かけ、踏みとどまった。
「担架を作れます」
サイラスがこちらを向いた。
「作れることと運べることは違う」
「はい。誰がどれだけ歩けるか確かめてから、人員を割り振ります。ガレスにも見てもらいます」
「10分だけやる。近くに魔物が戻れば終わりだ」
レオンはガレスとネマを呼び、地下の3人を診た。フェリスは肩に痛みがあるものの、支えがあれば歩ける。女は頭を打っており、立ち上がると眩暈がするという。脚の悪い男は腫れが強く、無理に体重をかけられない。
「担架は2つあれば足りるかな」
レオンが言うと、ネマは首を振った。
「山道で2つも運ぶと、通れない場所が増えるよ。1つを交代で運んで、歩ける人には肩を貸す方がいい」
「なるほど」
「ただし女の人が歩けないなら、途中で代わらないと」
レオンは班員を集めた。力のある者だけを選べばよいわけではない。ゴルドが担架を持てば重さは問題にならないが、狭い道では彼の体格が邪魔になる場所もある。盾兵を全員運搬に回せば、敵が来たとき防げない。
ガレスが地図を指差した。
「外哨の南を抜ければ旧山道へ戻れる。途中の石段は担架を持ち上げて運ぶ必要があるな」
「その場所で交代を増やします。荷は何を置いていけますか」
「予備の炊事道具と使わない布を残そう。食料と水は減らすな」
レオンが人数を書き込んでいると、ダンが寄ってきた。
「担架の柄を補強していいか」
「頼めますか」
「石段で折れたら困るからな」
ダンは崩れた棚から丈夫な木を選び、ネマと長さを合わせた。左手の甲の白い傷が、木を押さえるたび動いていた。
サイラスへ計画を見せると、軍曹は静かに読んだ。
「後衛が薄い。担架の持ち手を増やしすぎるな」
「交代する人も、戦えるように配置します」
「負傷者がさらに増えたら?」
レオンは言葉を詰まらせた。すべてを運ぶ余裕はない。
「……そのときは人数と道を見て、もう1度判断します」
サイラスはガレスへ顔を向けた。
「お前はこれで行けると思うか」
「危険はあります。だが今の地形なら、運べる見込みはある。後衛は俺が見ます」
軍曹はしばらく考え、頷いた。
「全員連れて帰る。だが撤退を命じたらすぐ動け。助けるために残って別の死者を出すな」
「はい」
レオンは頭を下げた。救助を認めてもらえたことに安心しかけたが、ここから帰らなければ何も終わらない。
外へ出ると、サイラスたちが遺体の識別を終えていた。確認できた者の階級章や遺品を小さな袋へ収めている。レオンは中庭の倒れた盾を見た。持ち主がどんな人だったのか、今は知ることができない。
「これ、全部は持てないんですね」
小声で言うと、ガレスは頷いた。
「今ここでできることをやるしかない」
レオンは言葉を飲み込んだ。残せるものは記録する。生きている人は運ぶ。自分が望んだ形で全部を救えるわけではない。
撤退の準備を始めると、フェリスが腕を押さえながら近づいてきた。
「伍長として、何か手伝いたいんですが」
サイラスが答えた。
「まず生きて帰れ」
フェリスは目を伏せ、それから短く頷いた。
レオンは彼の横を通り、担架の紐を引いてみた。木がきしむが、外れない。ダンがもう1度結び目を締めた。
「重さは大丈夫ですか」
「人を乗せてから確かめるさ」
ダンは欠けた前歯を見せて笑った。
外哨を出る前、ミラが北の林へ耳を向けた。顔から笑みが消えている。
「……また何か動いてる」
「どこ?」
「遠いけど、木が折れる音が続いてる」
皆が耳を澄ませた。レオンにも、風の向こうで乾いた音が何度か聞こえた。木を切る斧の音ではない。重いものが林を押し分けているようだった。
サイラスが命じた。
「これ以上調べるな。南へ移動する」
レオンは担架の後ろを歩き出した。振り返ると、外哨の壊れた塔が岩の向こうへ沈んでいく。その上にはもう、定時連絡の灯が点る場所もなかった。




