北へ続く足跡
朝の霧は、要塞の門を出たときから濃かった。
レオンは前を歩く兵士の背中を見失わないように歩いた。濡れた靴底が小石を踏み、時折滑る。東寄りの旧山道は地図で見るより細く、片側が切り立った斜面になっている場所もあった。
「そこは左へ寄れ」
ガレスが後ろから声をかける。レオンは足元を見ると、道の右端で土が崩れかけていた。
「ありがとうございます」
「礼より先に足を動かせ」
振り向けば、サイラスが正規兵3人と歩いていた。軍曹は途中の分岐で何度か立ち止まり、地図と実際の地形を確かめている。レオンに意見を聞くこともあったが、進む道は必ず自分で決めた。
ミラは先頭からあまり離れずに偵察していた。灰銀色の髪へ霧の水滴がつき、狼耳が忙しく動いている。
「何か見つかった?」
「古い臭いばっかり。雨に流されてる」
「足跡は?」
「少しあるけど、何日前か分からない」
レオンは頷いた。ミラが何も見つけられなくても、彼女の注意が足りないわけではない。これほど濡れた山なら、人間の目にも狼獣人の鼻にも分からないことがあるのだろう。
途中の開けた場所で、奇妙な死骸を見つけた。
鹿が横倒しになり、そのすぐ先に灰牙犬が倒れている。どちらも食べられたようには見えない。鹿の胴はひどく潰れ、灰牙犬の片脚も不自然な方向へ曲がっていた。
「誰かが戦ったのかな」
レオンが近づこうとすると、サイラスが腕で制した。
「勝手に触るな。周囲を確かめろ」
ミラが風下へ回り、ガレスが斜面の上を調べる。安全を確かめてから、レオンは少し離れた場所で傷を見た。
「牙の跡より踏まれた跡が多い」
ガレスが言った。
「ここを何か大きなものが通ったんでしょうか」
「その可能性はある。こっちを見ろ」
道脇の木には、高い位置まで擦れた跡が残っていた。根元では太い枝が折れ、土が深く掘り返されている。
「鎧猪でしょうか」
「似ているが、決めつけるな」
ガレスの言葉を聞き、レオンは枝の高さを書き留めた。何が通ったのか分からない方が怖かったが、勝手に名前をつけても危険が減るわけではない。
昼を過ぎたころ、右側の藪が揺れた。
「灰牙犬!」
ミラの声で前衛が盾を上げる。灰色の獣が斜面を駆け下り、盾へ飛びついた。続けて2匹が横から現れる。
「左右へ槍! 後ろは間隔を空けて!」
レオンが叫ぶと、ホバンたちが動いた。ダンは盾を斜めに構え、横へ滑ろうとした灰牙犬を受け止める。衝撃で靴が土へ沈んだが、彼は下がらなかった。
「ホバン、今だ!」
槍が獣の脇腹へ入る。ミラは別の個体を追わず、木の根を踏んで位置を変えた。灰牙犬がそれにつられて向きを変えたところへ、ガレスの剣が走る。
3匹目はゴルドのいる後方へ向かったが、大斧を一振りされて逃げた。《鬼神》は使っていない。
「追うな」
サイラスが命じた。
森へ走っていく背を見送り、レオンは荒い呼吸を整えた。追わなくても、自分たちの身は守れた。先ほどの戦闘で誰も怪我をしていないか確かめ、人数を数える。
「29人、全員います」
サイラスは短く頷いた。
「敵が倍ならどうしていた」
「退路を開けて、まとまって下がります」
「下がる先は?」
レオンは先ほど通った道を指した。しかしそこは片側が崩れかけている。
「……あの場所は通りたくありません」
「なら戦闘が終わる前に別の場所を見つけておけ」
軍曹はそう言って地図を開いた。
午後は比較的静かだった。岩に挟まれた坂道を下り、古い石造倉庫が見えるころには日が傾いていた。壁の一部が崩れていたが、屋根は残っている。サイラスが周囲を確認させ、野営の許可を出した。
倉庫の中は石の匂いと古い藁の匂いがした。焚き火は外から見えにくい位置へ小さく作り、兵士たちは濡れた外套を乾かした。
「ここ、俺の寝台より硬いんじゃないか」
ホバンが床を叩いた。
「お前の寝台も大差ないだろ」
ダンが返すと、近くにいた兵士たちが笑った。
ゴルドは入口を横向きにくぐり、梁の下へ腰を下ろした。角が石壁へ当たり、鈍い音がする。
「俺だけ立って寝ろってことか」
「座ったまま眠れるだろ」
ミラが言う。
「お前が代わってみろ」
「その身体にはなりたくないね」
「いいだろう。肉がたくさん食えるぞ」
「それはちょっと羨ましい」
レオンは笑いながら、皆の顔を見た。野営では交代で見張りをする。寝られる時間は短くても、こうして冗談が出るのは助かった。
夕食は乾いた黒パンと豆を煮た薄い汁だった。レオンは自分の袋を開いて干し肉を出す。ミラがそれを見て、満足そうに頷いた。
「今日はちゃんと食べるんだ」
「昨日、言われたから」
「明日もそうして」
「分かってるよ」
少し離れたところでネマが盾の持ち手を確かめていた。ダンが手を貸し、紐を通す穴の位置について話している。
レオンも座った。
「さっきは助かりました。ダンが受け止めなかったら、右へ抜けられていました」
「横から飛んできた奴か。盾の端へ当たっただけだ」
ダンは照れたように鼻をこすった。
「でも、よく足が動きましたね」
「石工の仕事をしてると、崩れた足場で踏ん張ることもあるからな」
「危ない仕事ですね」
「危なくない仕事なんか、俺はあまり知らない」
ダンは欠けた前歯を見せて笑った。
レオンが古傷について尋ねると、男は左手の甲を見せた。白い傷は親指の付け根から手首の方まで伸びていた。
「石を吊り上げた綱が切れたんだ。落ちてきた石を避けようとして、腕を擦った。上に人がいなきゃ、もっと大怪我してたな」
「建てていたのは家ですか」
「橋の支柱だ。村と村をつなぐ橋でな。川を渡るたびに荷馬車が泥へはまってたから、完成したときはみんな喜んだ」
ダンは鍋の中を見た。
「その橋、まだあるかな」
聞いてよいのか迷っていると、ダンが先に続けた。
「借金の取り立てが来てから、見に行けなくなった。もう何年も前のことだ」
レオンは自分の左腕へ目を落とした。番号のついた布と《隷属環》。作った橋を見に帰ることすら、この男には許されない。
「……帰って見られるといいですね」
ダンは笑って言った。
「そうだな。自分で建てたものが残ってるかくらい、見てみたいもんだ」
ネマが修理した盾を差し出した。
「終わったよ。金具はしばらく大丈夫。明日も確認して」
「助かる」
ダンは盾を受け取り、手で重心を確かめた。レオンはその仕草を覚えておこうと思った。
食事の後、サイラスが見張りの順番を告げた。正規兵も奴隷兵も交代で夜番に立ち、サイラス自身も途中で巡回するという。
「軍曹も寝なくていいんですか」
レオンが尋ねると、サイラスは一瞬だけ眉を上げた。
「寝るために見張りを置くんだ。俺だけ寝ないなら見張りを置く意味がない」
「それもそうですね」
「お前も必要な時間は休め。自分が一番働いた顔をする班長は、長く持たんぞ」
淡々とした声で言われ、レオンは少し驚いた。サイラスが奴隷兵の身体を気遣っているのか、それとも単に指揮の効率を考えているだけなのかは分からない。どちらにしても、休めと言われて悪い気はしなかった。
寝床へ戻る途中、ミラが入口へ立っていた。
「外、見てくる」
「次の見張りはまだじゃない?」
「耳が気になる。遠くで何か動いてるような気がする」
レオンは一緒に外へ出た。星はほとんど見えず、雲が山の上へかかっている。木々の間から風が吹き、乾いた葉が石壁へ擦れた。
「何が聞こえる?」
「……何も」
ミラは小さく首を振った。
「それが変なんだよ。虫も小動物も少ない。ずっと遠くまで空っぽみたいで」
レオンも耳を澄ませた。風と火の音しか分からない。彼女の言う静けさは、自分にはただの夜だった。
「生き物が移動したから?」
「かもしれない。でも全部いなくなるなんて、変だろ」
ミラの尻尾は動かなかった。
「あたしの故郷でも、森が静かになることはあった。大きい魔物が歩いた後とか。でもここは、どこまで行っても同じ臭いがする」
「どんな臭い?」
「濡れた土と折れた枝。それに、古い血」
レオンは暗い木立を見た。見えないものが迫っているようで、背筋が冷えた。
「サイラス軍曹に伝えてくる」
「うん。見張りを減らさないでって」
レオンが報告すると、軍曹は地図へ手を置いた。
「異常の範囲が分からないなら、見張りは予定どおり続ける。勝手に森へ入るな」
「はい」
「お前の狼獣人にはよく聞いておけ。だが耳が良いからといって、夜中に1人で走らせるな」
「分かっています」
薪を足す兵士の背を見ながら、レオンは倉庫へ戻った。皆を起こして不安を広めるわけにはいかない。今できることは、見張りの交代を確かめて、睡眠を取ることだった。
横になると石床の冷たさが背中から伝わった。隣でホバンが寝返りを打つ。誰かの小さなくしゃみが聞こえ、それから静かになった。
明け方、レオンはガレスに肩を揺すられて起きた。
「来い。道で見つかったものがある」
寝ぼけた頭で立ち上がり、外へ出る。霧は薄くなっていたが、山肌に白い帯が残っている。
街道の曲がり角に、正規兵が集まっていた。湿った岩へ黒い布が引っかかっている。近づくと帝国軍の制服の外套だと分かった。肩に外哨所属を示す印があり、裾のあたりへ黒く乾いた血が広がっている。
「人は?」
レオンが尋ねると、ガレスは首を振った。
「見つかっていない」
サイラスは外套を布で包ませ、周囲の足跡を調べさせた。レオンには、その持ち主が歩いてここへ来たのか、何かに引きずられたのか分からなかった。
ミラが足元の土を確かめた後、小さく呟いた。
「ここを走って通った奴が何匹もいる。人の臭いは古い」
レオンは血のついた外套を見た。そこに誰がいたのか、今はどこにいるのか。名前さえ分からない人の安否を考えながら、剣の柄を握り直した。




