消えた灯
軍務区画の門が開く音で、レオンは目を覚ました。
まだ夜明け前だった。隣の寝台ではホバンが毛布に顔を埋め、低いいびきをかいている。外から車輪の軋む音が続き、見張りの交代を知らせる短い笛が鳴った。
窓の隙間から覗くと、正規兵が荷車へ矢束を積んでいた。大きな革袋も次々に運び込まれている。
「どこかへ出撃するのかな」
呟いた声に、向かいの寝台から返事があった。
「北だろ。ほかに行く場所があるかよ」
ガレスはすでに軍靴を履いていた。灰色の瞳が窓の外を見ている。
灰谷村のさらに北にある外哨から、連絡が途絶えた。昨夜、城壁を走る伝令が叫んでいた言葉をレオンは思い出した。あの村の人々がようやく眠れる場所を見つけたばかりなのに、山の異変はまだ収まらないらしい。
朝の点呼は普段より早く終わった。監督官の命令で城壁用の石材を運ぶことになり、班員たちは食事も半ばで作業場へ向かった。
「こんなときまで石を運ばせるのかよ」
ホバンが肩へ材木を載せながらぼやく。赤茶色の短い髪に埃が積もり、曲がった鼻筋の下で口が歪んでいた。
「城壁が壊れたら困るのは俺たちも同じだから」
「分かってるから腹が立つんだよ」
言い返す言葉が見つからず、レオンも石を抱えた。腕の《隷属環》が冷たく、重さに耐えるたび金属の縁が肌へ当たった。
昼前に呼び出しが来た。
監督官の詰所には、見知らぬ帝国兵が立っていた。30歳ほどの長身の男で、短く刈った金髪と青緑色の目が印象に残る。左耳の上部が欠け、頬には細い刀傷が走っていた。胸の徽章には軍曹を示す刻印がある。
「サイラス・ヴェンだ。第6中隊の臨時調査隊を指揮する」
言葉は必要な分しかなかった。レオンが敬礼すると、サイラスは机の地図へ指を置いた。
「黒岩外哨との定時連絡が2晩途切れた。灰谷村からさらに北へ約5kmだ。知らせに来るはずの伝令も到着していない」
「見張り台の灯が壊れただけでは?」
レオンが尋ねると、サイラスは顔を上げた。
「だから人を送る。主街道からは正規軍部隊が向かい、我々は東寄りの旧山道から接近し、南側を確認する」
「黒岩外哨に入るんですか」
「安全ならな」
サイラスはレオンの隷属環を一瞥した。
「お前が臨時班長の8741か。意見は聞くが、判断は俺がする」
「分かりました」
「今回はお前の班から行動可能な29人を出す。俺を含む正規兵4人が同行する。負傷した魔族の兵は残せ」
ユリウのことだった。灰谷村で腕を深く傷つけた彼は、まだ包帯を外せない。レオンは胸の奥が少し痛んだが、出撃しろと言われずに済んだことにも安堵した。
「出発は明朝。食料は3日分だ。装備と人員を今日中に確認しろ」
詰所を出ると、ガレスが待っていた。
「正規兵が主街道を行き、俺たちは裏から回るんですね」
「そうだ。外哨の周囲を両側から確かめられる。ただし片方が何か見つけても、すぐ連絡できるとは限らん」
レオンは地図を見た。山道は曲がりくねり、林の間を何度も折れていた。荷車を引くには向かないらしい。
「負傷者がいたら、どうやって運びます?」
「現地で考える前に、準備だけはしておけ」
ガレスが答えた。
兵舎に戻ると、レオンは班員たちを集めた。ミラは革鎧の紐を締め直し、ゴルドは大斧の刃を拭いている。ネマが修理道具を広げ、ホバンが槍の数を数えた。皆の動きには慣れがある。少し前まで、レオンの号令を聞いても顔すら上げない者がいたとは思えなかった。
盾を並べた列の端で、ダン・ロウがしゃがんでいた。30歳半ばの人間の男で、短い黒髪と太い眉を持ち、笑うと欠けた前歯が覗く。左手の甲には白い古傷があり、石を削った跡だと以前聞いたことがある。寡黙だが、盾の留め具を確かめるときは誰より熱心だった。
「ダン、昨日も直していませんでした?」
「直したからって、明日も無事とは限らんさ」
彼は金具を軽く叩き、隣の盾も引き寄せた。
「若い奴の持ち手が緩んでた。戦ってる途中で抜けたら困るだろ」
「ネマには見せました?」
「見せたよ。鋲を替えてもらったから、後は革を締めるだけだ」
指の動きが丁寧で、レオンはしばらく眺めてしまった。
「盾って、重そうですね」
「重いぞ。持ってみるか」
受け取ると予想以上に重心が前にあり、腕が下がった。ダンが笑うと欠けた前歯が見えた。
「肩に力を入れると先に疲れる。こっちへ少し傾けるんだ」
「なるほど……」
真似すると、ほんの少し持ちやすくなった。
「石工の仕事でも、重い石は腕だけで持たん。足と腰で支える。似たようなもんだな」
「石工だったんですか」
「前はな。今は盾で壁を作ってる」
ダンは自分の言葉に小さく笑った。レオンも笑い、盾を返した。
午後、治療所へ顔を出した。ユリウは寝台の端へ座り、左手だけで紐を結ぶ練習をしていた。藍色の髪の下に黒い角が伸び、欠けた先端が灯に照らされている。右腕はまだ厚い包帯で覆われていた。
「北へ行くんだって?」
「うん。様子を調べに」
「俺は留守番か」
ユリウは結びかけの紐を強く引いた。
「まだ腕が痛むだろ」
「分かってるよ」
それだけ言って、彼は結び目をほどいた。レオンは横へ座り、少し迷ってから口を開いた。
「ネマが、荷車の軸について聞きたいって」
「……あいつ、まだ覚えてたのか」
「君が元気になったら教えてほしいって。急がなくていいから」
ユリウは紐を眺め、指先で結び直した。
「こんな手で教えられることがあるかな」
「あると思う。俺なんか両手が使えても知らないことだらけだし」
「お前は元王子だからな」
「それ、関係ある?」
「知らん」
ユリウは少し笑った。レオンは初めて見る表情に安心した。
リーネが薬棚から戻り、レオンの荷物を見た。
「包帯は持ちましたか」
「はい」
「水は?」
「持っています」
「ご自分が怪我をしたら、すぐ報告するんですよ」
「そんなに信用がないんですか」
「人を助けるとき、いつも自分のことが最後になりますから」
リーネは蜂蜜色の目を細めて笑った。レオンは受け取った薬包を胸元へしまった。
治療所の外へ出ると、ネマが小さな工具袋を持って待っていた。
「山道でも釘は役に立つからね」
「こんなに持っていくの?」
「全部は持たないよ。担架を組むときの紐と、小さい鋸だけ。重すぎる道具は置いていく」
ネマはひとつずつ見せてくれた。レオンは急に外哨で怪我人が見つかったときのことを思い浮かべたが、何人いるのかすら分からない。担架が必要なら作れるようにしておこうと、余分の丈夫な布を荷へ加えた。
夕方、ミラと携行食を詰めた。彼女は干し肉の枚数を確かめ、レオンの袋を覗く。
「そっち、少なくない?」
「同じ量だよ」
「どうせ途中で誰かに分けるんだろ」
「分けないよ。たぶん」
「たぶんって言った」
ミラは干し肉を彼の袋へ押し戻した。
「腹が減ってたら逃げ足も鈍るぞ」
「ミラが言うと説得力があるね」
「あたしと違って、あんたは空腹だとふらつくから」
レオンは反論を諦めた。ミラは自分の袋も確かめ、満足そうに口を結んだ。
武器庫の裏でゴルドを見つけた。大柄な鬼人は修理した靴の紐を締め、折れた左角の下に汗を光らせていた。
「《鬼神》のこと、もう少し聞いてもいいですか」
「またか」
「山道だと、動けなくなった後に運べません」
ゴルドは口元を緩めた。
「全力なら数分。その後は腕から重くなる。無理をすれば斧も握れん」
「なら、使うときは先に知らせてください。逃げ道を確保します」
「俺に命令するのも慣れたな」
「怒られるのに慣れただけです」
「違いない」
ゴルドが笑い、靴紐を固く結んだ。
日暮れの点呼が終わると、サイラスが兵舎に現れた。ガレスとレオンを入口へ呼び、明朝の行軍順序を告げる。ミラを先行偵察に出す案を伝えると、サイラスはしばらく考えた。
「見えなくなる距離まで離すな。狼獣人の鼻が利くとしても、救援できなければ意味がない」
「分かりました」
「野営場所は予定地へ着いてから決める。安全と判断できなければ引き返す」
「その場合、外哨の人たちは」
サイラスはレオンを見た。
「いるかどうかも分からん者のために、こちら全員を死なせる気はない」
冷たい言い方だったが、嘘はなかった。レオンは胸が痛んだまま頷いた。
サイラスが去ると、ガレスが腕を組んだ。
「嫌な顔をしていたな」
「助けられるなら助けたいです」
「なら、そのために何ができるか考えておけ。考えなしに飛び込むのは救助じゃない」
レオンは布を束ねた荷物を見た。自分が運べる重さには限界がある。何人も助けるなら、誰かに役割を頼まなければならない。
夜更け、窓辺にミラが立っていた。冷たい風が短い髪を揺らし、狼耳が時折動いている。
「何かいる?」
「獣の臭い。ずっと遠くだと思う。焦げた木みたいな臭いもするけど、よく分からない」
「そうか」
「怖い?」
レオンは少し考えた。
「怖いよ。外哨に誰もいなかったら、と思うと」
「いたとしても、助けられるか分かんないしな」
ミラは窓から離れた。無理に励まさない声がありがたかった。
寝台へ戻るとホバンのいびきが聞こえた。レオンは枕元の剣を確かめ、目を閉じた。北へ伸びる山道が頭に浮かび、しばらく眠れなかった。




