灰の向こうの灯
要塞の門が見えたころには、空が赤く染まっていた。レオンはユリウを載せた担架の横を歩きながら、何度も顔色を確かめた。布で強く押さえた右腕からはまだ血が滲んでいる。ユリウは歯を食いしばり、こちらを見ても何も言わなかった。
「もう少しで治療所だよ」
レオンが声をかけると、ユリウはわずかに頷いた。その小さな動きだけで、胸の奥が少し緩んだ。
門を通ると、連絡を受けていたリーネが待っていた。肩までの栗色の髪を結び、白い上衣の袖をまくっている。蜂蜜色の目が担架の腕を見て、すぐに顔つきを変えた。
「こちらへ運んでください。まず出血を止めます」
レオンもついていこうとしたが、入口で止められた。
「水と清潔な布を持ってきてください。それが済んだら外で待っていて」
「俺にも何か」
「今は指示したことをしてください」
強い声だった。レオンは頷き、桶を抱えて走った。自分にできることが限られていると分かっていても、待つのはつらかった。
治療が終わったころ、夜になっていた。リーネは血のついた手を洗い、深く息を吐いた。
「命は助かります。でも腕の傷は深く、骨や筋にも損傷があります」
「治癒魔法で治せませんか」
「傷を閉じるだけならできますが、無理に進めれば組織が正しく戻らないこともあります。《生命賦活》で回復を支えても、身体そのものが耐えられなければ意味がありません」
彼女は右手首を拭い、寝台を見た。
「槍を前と同じように握れるかは、まだ分かりません」
レオンは言葉を失った。ユリウは老人を背負っていた。あそこで自分が先に魔物へ気づいていたら、別の人を護衛につけていたら。考え始めると止まらない。
「レオンさん」
リーネの声で顔を上げた。
「責任を考えるのは大切です。でも、今は彼を休ませてください。あなたも休まないと、明日の仕事ができません」
レオンは頷き、治療所を出た。
翌朝、保護区域へ行くと、先に避難した20人に村から逃れてきた約50人が加わり、天幕の間がひどく狭くなっていた。小さな子供が寝具を引きずり、老人が毛布を分け合っている。村の家から持ち出せたものは多くない。家畜を失った者もいた。
エルナは井戸の脇で、持参した袋の数を確かめていた。黒髪に混じる白い髪が乱れ、日焼けした頬には深い疲れが見える。
「村のこと、何か分かりましたか」
エルナは首を振った。
「軍が確認に行くまでは戻れないそうだよ。畑が残ってるかも分からない」
「食べ物や寝具で足りないものを教えてください。軍へ相談します」
「昨日も助けてもらったのに、悪いね」
「俺たちの仕事だけで何とかできるとは思ってません。村の人たちが何を必要としているか、俺には分からないので」
エルナは袋を開いた。
「毛布が足りない。子供の靴も。あとは濡れた天幕を直す布が欲しい。食事は今の支給だけじゃ心配だよ」
レオンは帳面へ記した。寒さで眠れず、靴がなければ歩けない。食料だけあっても暮らせないのだ。
監督官の詰所へ行くと、予想通り簡単には話が通らなかった。
「保護区域の配給は決まっている。余分な毛布はない」
「廃棄予定の布でも構いません。天幕を補強できれば」
「使い物になるなら廃棄はせん」
レオンは返事に困った。そこでガレスが持参した修理の見積もりを広げた。
「軍の倉庫に残る端切れと破れた天幕を補修すれば、新しい天幕を配るより安く済みます。技師と村人が修理するので、追加の人員も必要ありません」
監督官は紙を眺め、しばらく黙った。
「勝手に物を持ち出すな。補給係が検品して許可した分だけだ」
「分かりました」
外へ出ると、ガレスが小さく肩をすくめた。
「相手が何を嫌がるか分かれば、通る話もある」
「俺は毛布が欲しいとしか考えてませんでした」
「それじゃ、ないで終わる。何と交換できるかまで考えろ」
レオンは頷いた。村で避難の話をしたときと同じだった。相手の事情を知らなければ、相談もできない。
昼にはネマと村の若者たちが、使える布を選んで天幕の縫い合わせを始めた。レオンは木の杭を運び、エルナが布の枚数を記録する。ゴルドは支柱を立てる仕事を引き受けたが、力を入れすぎないようネマに何度も注意されていた。
「そんなに押したら地面の方が壊れるよ」
「分かっている」
「分かってないから言ってるんだ」
いつもの言い合いに、近くの村人が小さく笑った。レオンも笑い、風に煽られた天幕の縄を押さえた。
夕方、リーネに許可をもらってユリウの寝台へ行った。顔色はまだ悪かったが、熱は下がり始めているらしい。右腕には厚い包帯が巻かれ、枕元には水の入った木椀が置かれていた。
「老人は?」
ユリウが最初に尋ねた。
「無事だよ。石切り場から一緒に戻れた」
「そうか」
ユリウは目を閉じた。少しして、固定した右腕へ視線を落とす。
「もう槍は持てないかもしれない」
「リーネは、まだ分からないって」
「分からないなら軍は使えない方だと思う」
その言葉が刺さった。自分も《テイマー》が役立たずだと言われ、王宮で居場所を失った。ここでは戦えない奴隷兵がどう扱われるのか、考えたくなかった。
「俺は名前を教えたの、間違いだったかな」
ユリウが小さく言う。
「どうして?」
「また番号だけで呼ばれるなら、最初から教えない方がよかった」
レオンはすぐに答えられなかった。名前を知っていても、腕を治すことはできない。軍の制度まで変えられるわけでもない。
「少なくとも、俺はユリウって呼ぶよ」
「それで何が変わる」
「今すぐ何かが変わるとは言えない。でも、何をしたいのか聞きたい。怪我がよくなってからでいいから」
ユリウはレオンを見た後、窓の方へ顔を向けた。
「……今は、何も考えたくない」
「分かった。また来る」
廊下へ出ると、ネマが工具袋を抱えて待っていた。
「会えた?」
「うん。でも、まだつらそうだ」
「そうだろうね。右腕があれじゃ、今までみたいにはできないだろうし」
ネマは少し考えた。
「あの人、荷車の木軸を直すのが上手かった。治ったら、私に教えてもらえないかな」
「そう言ってくれたら嬉しいと思う。でも今は休ませたい」
「もちろん。私だって怪我人を作業台へ縛りつけたりしないよ」
ネマが笑った。レオンも笑い、本人の回復を待とうと思った。
数日後、軍は護衛つきで灰谷村の一部を確認した。戻ってきたエルナは、倒れた柵と荒らされた畑の話をしてくれた。家そのものは残ったところも多いが、家畜は何頭か行方が分からず、倉庫の扉も壊されていたという。
「戻れそうですか」
「まだ危ない場所があるそうだよ。畑もすぐには使えないね」
彼女は疲れた顔で笑った。
「でも、村が全部なくなったわけじゃない。直せるものは直しておきたい」
レオンは監督官へ許可を求め、村から回収した壊れた農具を軍需工房へ持ち込んだ。鍬や鎌の柄が折れ、金属部分が曲がっている。ドルガンは煤のついた手で1つずつ確かめた。
「この鍬は柄を替えれば使える。こっちは刃が足りん」
「全部は無理ですか」
「材料がないものは直せん。俺は神様じゃないからな」
ドルガンは髭を揺らして鼻を鳴らした。
「鐘は鳴ったのか」
「はい。村の人が逃げる時間を作れました」
「なら、作った甲斐があった」
レオンは深く頭を下げた。ドルガンの仕事がなければ、あの夜明けに何人が鐘へ気づけただろう。想像しただけで胸が冷えた。
「礼を言う暇があるなら、部品を数えろ」
「はい」
レオンは笑って工具箱を開いた。数えるくらいなら自分にもできる。
さらに数日が過ぎた。保護区域では村人たちが交代で炊事をし、天幕の修繕も少しずつ進んだ。帰還できる者は軍の許可を待っている。全員が明るくなったわけではなく、夜には泣く子供の声も聞こえた。
レオンが水桶を運んでいると、例の男の子が駆け寄ってきた。黒髪を跳ねさせ、そばかすの頬を膨らませている。
「ミラ姉ちゃんは?」
「向こうで見張りをしてるよ」
「鳥のおうち、作りたい」
木彫りの鳥を握っている。レオンが材料を集めると、ミラが戻ってきた。
「またあたしを姉ちゃんって呼ぶのか」
「だってお姉ちゃんじゃん」
「名前で呼べって言っただろ」
口では文句を言いながら、ミラは木切れを拾って並べた。2人で小さな鳥小屋を組み始めたが、柱が傾き、屋根が上手く乗らない。
「レオン、これ、どうするの」
「俺も分からない」
「元王子、役に立たないな」
「だから元だって」
ネマが通りかかり、呆れた顔で小屋を取り上げた。釘の位置を変え、板を削ると、あっという間に形が整った。
「こんな簡単なものも作れないのかい」
「ネマがいて助かったよ」
子供が歓声を上げて鳥を中へ置く。ミラは得意そうな顔をしたが、手柄のほとんどはネマのものだった。
夜、エルナがレオンを呼び止めた。
「あんたたちは自由じゃないのに、私らのために働いてくれたんだね」
レオンは左腕の隷属環を見た。
「軍の命令で来たのも事実です」
「それだけじゃないと、見てれば分かるよ」
エルナは灯の並ぶ天幕を見た。
「家も畑も元通りじゃない。でも、あの鐘が鳴ったから逃げられた。それは覚えておくよ」
「ありがとうございます」
レオンはゆっくり頭を下げた。守れなかったものは多い。それでも、何もできなかったわけではないと思えた。
要塞の城壁近くへ戻ると、ガレスとミラが待っていた。保護区域には小さな灯がいくつも点り、天幕の間から人の話し声が聞こえてくる。
「王宮にいたころ、こんな場所で暮らすとは思ってなかった」
レオンが呟くと、ミラが顔を上げた。
「嫌になった?」
「不便だし、怖いことも多い。でも、帰ってきたと思える場所があるのは嬉しい」
ガレスが肩をすくめる。
「考え込むのはいいが、眠る時間は取れよ」
「はい。明日も仕事がありますから」
そのとき、城壁から伝令兵が走ってきた。
「灰谷村よりさらに北の軍の外哨と連絡が取れない! 昨夜から合図の灯が確認できていない!」
レオンは足を止めた。灰谷村の見張り台は避難後に無人となっているが、その先には帝国軍が守る別の監視拠点がある。そこまで連絡が途絶えるのは、ただの修理不足では済まないかもしれなかった。
ミラは北の暗い山を見つめ、ガレスも険しい顔になった。レオンは灯の並ぶ保護区域を振り返った。あそこで寝ている人たちに、同じ思いをさせたくない。何が起きているのか確かめるためにも、まずは伝令の報告を聞かなければならなかった。




