警鐘が鳴る
鐘の音で目が覚めた。レオンは寝台代わりの毛布から跳ね起き、天幕の外へ出た。空はまだ薄暗く、東の山の縁だけが白んでいる。監督官から村の警戒を続けるよう命じられ、班の30人は村の南端に天幕を張って交代で休んでいた。昨夜も見張りをした兵士たちが、眠そうな顔で起き出してくる。北の見張り台から、間を空けずに鐘が鳴り続けていた。短く2回鳴らす試験とは違う、危険を知らせる音だった。
「レオン、起きて!」
ミラが走ってきた。短い灰銀色の髪が汗で額へ張りつき、狼耳は北へ向いている。
「足音がすごい。鹿も灰牙犬も、重い奴もいる」
「どれくらい近い?」
「まだ沢の向こう。でもずっと南へ動いてる。数は分からない」
ほどなく見張りの伝令が駆け込んできた。北の尾根を越えた何種類もの魔物が、谷を下っているという。見張りが早く異変に気づき、警鐘を鳴らして伝令を走らせたのだった。
「鎧猪も確認しました。まだ村へ着いてはいませんが、群れの先頭は林へ入っています」
レオンは地図を広げた。石切り場までは約1kmだ。道を整え、荷車も直してある。それでも50人が移動するには時間がかかる。
「ガレス、村の鐘をお願いします。中継所にも合図を送ってください」
「正規兵には俺から報告する。お前はエルナを起こせ」
言われてレオンは走った。村の中央の鐘も続けて鳴らされ、家々の扉が開き始める。眠そうな顔の者もいたが、広場の荷物を手にして出てくる者は多かった。
エルナはすでに上着を羽織り、井戸の前で声を張っていた。
「荷は決めた分だけ持っておいで! 家へ戻ってあれこれ探すんじゃないよ!」
レオンは息を整えた。
「見張り台から報告が来ました。北の沢へ何種類もの魔物が下りています」
「なら、決めた通りに動くよ。子供たちはもう避難させてある。残る50人を石切り場へ連れていく」
エルナの言葉を聞き、レオンの胸が少し軽くなった。誰かが自分の命令を待っているのではない。村の人は自分たちで備え、動こうとしている。
「俺たちは道を守ります」
「頼むよ」
ガレスが戻ってきた。監督の正規兵は避難路の警備を認め、要塞への伝令も出したという。見張り台の灯は中継所から確認できたらしいが、そこから要塞へ知らせが届くにはまだ時間が必要だった。
「本当に、皆を連れていけるでしょうか」
レオンが尋ねると、ガレスは広場に集まった村人を見た。
「昨日までに決めたことを使え。あれこれ考え直している時間はない。道が塞がれたら知らせろ。俺も状況を見て動く」
「……分かりました」
レオンは深く息を吸った。怖いことに変わりはないが、村の鐘が鳴るまでに準備できたことはある。荷車も、道も、逃げる先も確かめてきた。その全部を無駄にしたくなかった。
「俺は後衛をまとめる。レオンはエルナと人数を確認して、先頭を動かせ」
「分かりました。ミラは先を見てきて。危なければ無理に戦わず戻って!」
「了解!」
ミラが走る。ホバンたちは槍を持って左右へ散り、ネマは荷車の金具を最後に確かめた。ゴルドは《鬼神》を使わず、斧を担いで後衛に立つ。
最初の荷車が動いた。車輪が石を踏んで揺れ、御者が慌てて手綱を引く。ネマが横から支え、道の中央へ戻した。
「急ぎすぎるな! 横転したらもっと遅れるよ!」
レオンは家ごとの人数を数えた。50人のうち、荷車に乗るのは脚の悪い老人たちと荷物の一部だ。歩ける者には互いを支えてもらう。
北の畑から獣の声が響いた。
「灰牙犬が来た!」
ガレスの声に振り向くと、石垣の間から灰色の獣が現れた。2匹、続いて3匹が畑を突っ切る。まだ前衛の位置までは遠いが、こちらへ向かっていた。
「先頭は進んで! 止まらないで!」
レオンは叫んだ。自分も剣を抜いて北へ走りかける。しかし荷車の列が狭い道で詰まりそうになっているのが見え、足を止めた。ガレスとミラが北を守っている。自分が向かえば、この列を整える人間が減る。
ミラが石垣を跳び越えた。灰牙犬の進路へ斜めに入り、短剣で前脚を浅く斬る。魔物が彼女へ向いたところで、待ち構えていたホバンたちの槍が伸びた。
「こっちへ引くよ!」
ミラは追撃せず、別の灰牙犬を畑の端へ誘った。契約で身体の反応が少しよくなったとはいえ、3匹も4匹も続く敵へ飛び込めるほどではない。自分が守りやすい場所へ引きつけて、槍兵と一緒に倒している。
レオンはその動きを横目で確かめ、エルナへ声をかけた。
「広場の人数は?」
「47人が出た。残りは牛舎の人と、畑の老夫婦だよ」
家畜を置いていけないと悩んでいた農夫が、まだ戻っていなかった。老夫婦は薬袋を取りに行ったらしい。
「場所は分かりますか」
「分かるよ。あたしが案内する」
「ホバンを呼びます。俺は列を進めます」
レオンがそう言うと、エルナは短く頷いた。ホバンと村の若者が農夫を迎えに行き、老夫婦の方へはユリウとネマが向かった。
少し前の自分なら、どちらへも走ろうとしただろう。今も自分の目で無事を確かめたくて仕方がない。しかし自分がいなくなれば、先頭の歩く速さや最後尾の人数を誰が見ているのか分からなくなる。
農夫は家畜の柵を開けて戻ってきた。涙を堪えていたが、エルナに肩を叩かれ、避難の列へ加わった。
ユリウは老夫婦のうち、脚の弱い男を背負っていた。藍色の髪と欠けた角が見え、もう1人の老人はネマが支えている。
「もう戻らなくていい。先へ行こう」
レオンが声をかけると、ユリウは短く頷いた。
ようやく村から全員を出せたと思ったとき、北側から地面を揺らす音が響いた。家畜の悲鳴が上がり、黒い巨体が柵を壊して現れる。
「鎧猪だ!」
背を黒い甲殻で覆った巨大な猪が、湾曲した牙で石垣を跳ね飛ばした。牛の群れに突っ込まれたのか、ひどく興奮しているようだった。頭を低くして何度も向きを変え、逃げ惑う家畜の方へ走る。
だが、その先には石切り場へ続く道があった。
「ゴルド、《鬼神》はまだ使わないで!」
レオンが叫ぶ。
「分かってる! だが近づけば止めるぞ!」
レオンは道の脇にある古い水路を見た。深さは大人の膝を越え、崩れた石で縁が狭くなっている。鎧猪の巨体なら踏み外せばしばらく足を取られるかもしれない。
「ミラ、あの水路の向こうへ誘える?」
「1人じゃ無理だよ。あんな牙に触れたら終わりだ」
「分かってる。ゴルドと槍兵にも頼む。近づきすぎないで」
ミラは唇を結び、迂回して水路の向こうへ走った。石を投げて音を立て、鎧猪の注意を引こうとする。魔物は首を振り、彼女の方へ頭を向けた。
そのとき灰牙犬が茂みから飛び出した。ミラは進路を変えてかわしたが、石に足を取られ、膝をついた。
「ミラ!」
レオンは反射的に駆け出しかけた。しかし目の前では老人を背負ったユリウが道を進んでいる。彼が抜けなければ、後ろの人も進めない。
「ホバン、ミラの左を援護して! ガレス、避難路をお願いします!」
声を張ると、ホバンたちが槍を構え直した。ミラは灰牙犬を牽制しながら離れ、鎧猪との距離を取る。
その直後、牛が道へ飛び出した。鎧猪が追い、避難路へ向かって突進する。
「ゴルド!」
「任せろ!」
赤黒い魔力がゴルドの身体を包んだ。《鬼神》を発動した彼が大斧の柄を鎧猪の肩へ当て、真横へ押し返そうとする。轟音が響き、足元の土がえぐれた。
止めきれない。
だが巨体の向きが少し変わり、片方の前脚が古い水路の縁へ落ちた。石が崩れ、鎧猪は傾きながら溝へ踏み込む。暴れればすぐ抜け出せるかもしれないが、足が取られて速度は落ちた。
「今のうちに進んで!」
レオンは叫んだ。ゴルドが荒く息を吐き、後退する。ミラは右腕を押さえていたが、自分で立てている。レオンは彼女の無事を確かめたい気持ちを抑え、列の後ろへ目を向けた。
灰牙犬が横から跳んだ。
ユリウは老人を背負ったまま振り返り、自分の右腕を獣の前へ出してしまった。牙が深く食い込み、魔物が首を振る。布が赤く染まり、ユリウが膝をついた。
「ユリウ!」
レオンは喉が裂けるほど叫んだ。ホバンの槍が魔物の脇腹を貫き、ミラが横から首を斬る。灰牙犬が倒れると、レオンは駆け寄った。
腕の傷は深かった。肘の下が裂け、押さえた布へ赤い血が広がっている。レオンは息を呑んだが、リーネから教わった手順を思い出した。
「傷を押さえて! ネマ、板で腕を固定できる?」
「できるよ。布も持ってる!」
ユリウは歯を食いしばった。
「置いていけ。俺はもう走れない」
「担架で運ぶ。君は老人を守ってくれたんだろ」
「でも……」
「俺1人で背負うんじゃない。手伝ってくれる人がいる」
レオンは周囲へ声をかけ、板と槍の柄を使って担架を組ませた。運搬役は2人ずつ交代させる。ユリウが老人を背負っていた分は、村の若者が引き受けてくれた。
石切り場へたどり着くと、岩壁の陰でエルナが村人を数えていた。レオンも班員を確認する。
「村の人は50人、全員そろっているよ」
「班も30人います。重傷者が1人、ほかにも怪我人がいます」
安堵と同時に、ユリウのうめき声が耳へ入る。助けられたことと、無事だったことは同じではない。
少しして中継所からの伝令が届いた。要塞には警報が伝わり、正規兵の援護がこちらへ向かっているという。レオンたちは岩壁を背に警戒を続けた。鎧猪はまだ村の方で暴れているらしく、遠くから低い咆哮が聞こえた。
援護隊が到着すると、石切り場から要塞までの道を守りながら進んだ。レオンは担架の横を歩き、ユリウの顔色を確かめ続けた。
振り返ると、灰谷村の方へ土煙が上がっている。畑や家がどうなったのか、ここからは分からない。レオンは冷たい風を吸い込み、痛むほど唇を噛んだ。
鐘は鳴った。皆が逃げるための時間も作れた。それでも、全員を怪我なく帰すことはできなかった。




