村の灯と夕餉
灰谷村の鐘を試す朝、エルナは井戸の前へ人を集めていた。レオンが見張り台を見上げると、ネマが支柱の根元をもう1度確かめている。前日に取り付けた金具はずれていないが、木の梁に余計な負担がかからないか不安だった。
「皆さん、今日は危険を知らせる鐘ではありません。短く2回鳴らします」
レオンが説明すると、エルナは横から付け加えた。
「家へ戻らず、この井戸へ集まっておくれ。何を持ってこられるか確かめたいんだ」
村人たちの返事はばらばらだった。畑へ出たい者も、家畜の餌をやりたい者もいる。普段の仕事を止めてもらうことが申し訳なかったが、昨日壊された家畜の柵を見た後では、何もせずにいられなかった。
やがて谷へ鐘が響いた。ネマが間隔を空けて2回だけ鳴らす。畑にいる人が顔を上げ、家から出た老婆が杖をつきながら歩いてきた。子供は音に驚いて泣き、別の家では誰かが戸を閉めてしまった。
「おばあさん、大丈夫ですか」
レオンが駆け寄ると、老婆は頷いた。
「分かってるよ。でも足は急に速くならないね」
井戸へ集まるだけでも時間がかかった。鐘の意味を取り違えた人をエルナが呼び戻し、寝ていた老人を家族が起こしに行く。レオンは皆がそろうまでに流れた時間を帳面へ記した。
「本当に魔物が来ていたら、どうなるんでしょう」
つい口にすると、エルナも足の悪い老婆を見た。
「昔は家へ隠れればよかった。灰牙犬なら夜番が追い払えたからね。でもそれだけじゃ心もとないよ」
「村の外で、魔物を避けられる場所はありますか」
「南西の石切り場なら岩壁がある。けど、そこまで歩くのは大変だね」
「1度、道を見に行ってもいいですか」
エルナは考え込んだ。
「まず、足の悪い人と荷車で通れるかを確かめよう。村を出ると決めたわけじゃないからね」
レオンは頷いた。その言葉に少し安心した。自分が村の暮らしを勝手に決めることなどできないし、するべきでもなかった。
午後、ガレスとミラ、エルナを含む数人で南西へ歩いた。石切り場までは約1kmだが、途中の水路は細く、雨の後にはぬかるむ。足の悪い老婆は荷車へ乗せられるかもしれないが、村にある荷車は2台だけだった。
「ここ、車輪が落ちそう」
ミラが道端を指す。レオンが覗くと、土が削れ、深い溝ができている。
「直せますか」
「板があれば埋められるよ」
ネマが荷車を引く村の若者へ話しかけた。若者は倉庫に古い板があると教えてくれたが、畑の修理にも使う予定だという。
「勝手に持ってきたら駄目ですよね」
レオンが言うと、エルナが苦笑した。
「最初に聞いてくれるなら、必要なだけ使えるよう相談するよ」
石切り場は岩壁が北側を塞ぎ、南には要塞へ続く道があった。見晴らしはよいが、屋根も水も十分ではない。長く暮らす場所ではなく、危険な時間をやり過ごして人数を数えるための場所だとレオンには思えた。
「ここまで来られたら、要塞へ伝令を出せますね」
「中継所から知らせが届いていれば、向こうも動くはずだ。ただし時間はかかる」
ガレスは地図を畳んだ。
「鐘は逃げるための時間を作るものだ。兵が急に現れて守ってくれる魔法じゃない」
レオンは頷いた。見張り台の鐘が鳴っても、村から石切り場まで歩かなければならない。その間の道を守る人も要る。
夕方、村へ戻ると、ネマが荷車の車輪を外していた。横にいた魔族の青年が、折れかけた木の留め具を手際よく扱っている。藍色の短髪の下で黒角の片方が欠けている、名前をまだ教えてくれない兵士だった。
「上手だね」
レオンが言うと、青年は目を伏せた。
「昔、荷車を直していたから」
「この車輪は直せる?」
「木の軸を替えれば。ネマなら金具も直せる」
ネマが笑う。
「こっちの方が教わることもあるよ」
青年はしばらく黙った後、小さく言った。
「……ユリウだ」
「え?」
「俺の名前。ユリウっていう」
レオンは嬉しくなったが、相手が気まずそうにしているのを見て、普通に頷くことにした。
「ありがとう、ユリウ。これからもよろしく」
「ほかの奴に言いふらすなよ」
「分かった。君が話したい相手へ、自分で言って」
ユリウは短く頷き、作業へ戻った。名前を聞くまでに時間がかかったことより、今日も一緒に働いていることが嬉しかった。
翌日は柵の補強と道の整備を手伝った。ゴルドが薪割りを引き受けたが、小さな斧で丸太を割るつもりが、土台の切り株まで砕いてしまった。
「ゴルド、台まで割らなくていいよ!」
「先に言え」
「普通は分かるだろ!」
ミラが腹を抱えて笑い、見ていた村の老人も吹き出した。ゴルドは文句を言いつつ、新しい切り株を運んでくる。レオンはその横で薪を積み、子供たちが近づきすぎないよう見ていた。
夕食には、村の共同炊事場で豆と根菜の温かい煮込みが出た。奴隷兵たちも持参した黒パンと干し肉を差し出し、村人と同じ鍋を囲んだ。村の食料を当然にもらってよいとは思えなかったからだ。
ミラは湯気の立つ椀を持ち、少しだけ目を細めた。
「懐かしい匂いがする」
「故郷の料理に似てる?」
「冬の前になると、みんなでこういうのを作ったんだよ。肉はもっと入ってたけどね」
彼女は笑って匙を動かした。レオンはそれ以上聞かなかった。思い出を話すかどうかは、ミラ自身が決めればいい。
小さな女の子が近づき、ミラの耳を見上げた。
「触ってもいい?」
「駄目。あたしの耳は玩具じゃない」
女の子は驚いて手を引っ込めた。
「ごめんなさい」
「謝ったならいいよ。くすぐったいから嫌なんだ」
ミラが少し柔らかく答えると、女の子はほっとして隣へ座った。レオンが笑いそうになると、ミラはすぐに気づいて睨んできた。
食事が終わるころ、見張りの兵士が北側から戻ってきた。レオンとガレスは席を立ち、聞き取った内容を帳面へ記した。鹿と小型の魔物が普段より多く、さらに北の尾根では黒い影が何度も移動していたという。
「足跡だけじゃないんですね」
「ああ。今夜も警戒が必要だ」
ガレスは言った。レオンはエルナへ報告し、明日もう1度見張り台から確認する約束をした。
帰り道、ミラが空を見上げた。
「……あたし、また故郷へ帰れるかな」
レオンは足を止めた。帰れると約束できる立場ではない。自分たちは許可なく要塞を出られず、彼女の故郷が今どうなっているのかも知らなかった。
「分からない。でも、帰りたいって言ったことは忘れないよ」
「そんなの、簡単に言うなよ」
「簡単なつもりはないよ」
ミラは少し黙り、やがて先へ歩き出した。
「じゃあ、腹いっぱい食えるようになったら案内してやる」
「楽しみにしてる」
「まだ約束してないからな」
彼女の尻尾が揺れ、レオンは少し笑った。
次の朝、北の見張り台から新しい報告が来た。見張りが遠くの尾根で、鎧猪を含む何種類もの魔物が南西へ移動する姿を確認したという。まだ村へ押し寄せる距離ではなかったが、畑のすぐ北でも灰牙犬の足跡が増えていた。
レオンはエルナに報告した。エルナは村の井戸へ人々を集め、昨日の避難経路の確認も含めて話し合いを始めた。
「子供や足の悪い人を、先に要塞の近くへ移した方がいいかもしれない」
言い出したのは、エルナだった。
「村を離れたら家畜はどうする?」
「畑の見張りが減るだろう」
反対の声も上がった。レオンは自分の案を押しつけず、見張り台の報告と、昨日実際に石切り場まで歩いた時間を説明した。
「全員に今すぐ出てほしいとは言えません。ただ、足の悪い人ほど、鐘が鳴ってから歩くのは難しいと思います」
エルナが腕を組んだ。
「希望する人を先に送ろう。残る者は交代で見張りをする。ただ、村を捨てると決めたわけじゃないよ」
村人たちは家ごとに相談した。長く暮らした家を離れたくない老人もおり、畑や家畜の世話のため残ると決めた高齢者もいた。誰かが命じればすぐに動くわけではなかった。話し合いの末、幼い子供と身体の弱い人、付き添いを含む20人が先に移ることを希望した。
軍の許可も必要だった。監督官は村からの納入が減ると渋ったが、エルナが自ら要塞まで行き、今後の農作業を続けるためにも人手を残す案だと説明した。ガレスは魔物の移動記録と修理した連絡設備の報告を添えた。
「勝手に村を空にするな。移動するのは申請した20人だけだ」
監督官はそう言って、要塞外側の保護区域と護衛に許可を出した。
翌日、荷車2台に荷物を積み、20人が村を離れた。先日ミラを姉ちゃんと呼んだ男の子も、木彫りの鳥を握って乗っている。
「おうち、なくならない?」
男の子が尋ねると、エルナは荷車の横へしゃがんだ。
「誰にも分からない。だから、できるだけ守っておくよ」
嘘をつかなかった。レオンはその答えに胸が詰まった。
荷車が見えなくなると、村には50人ほどが残った。家畜の世話をし、畑を見回り、夜番の順番を確かめる人々がいる。鐘の音を聞いてすぐに動けるよう、広場には軽い荷物がまとめて置かれた。
レオンは夕暮れの見張り台で、村から中継所へ向けた灯の試験を見守った。少し遅れて中継所の光が返ってくる。霧の濃い日なら同じようには見えないだろう。それでも、今夜は知らせが届いた。
「今は何も見えないよ」
ミラが北の山を睨みながら言った。
「何か聞こえる?」
「風ばっかり。でも、北へ戻っていく獣の臭いがしない」
レオンは村に残った人々の家を見下ろした。灯はまだいくつも点っている。皆が自分の意思でここへ残ったことを思うと、その灯がひどく大切に見えた。




