狼が逃げる道
灰谷村の屋根が見えたとき、レオンは思っていたより小さな集落だと感じた。谷の斜面に木造の家が寄り添い、畑の奥には石積みの倉庫が並んでいる。薪を割る音が響き、道端では小さな子供が水桶を運んでいた。北の山で魔物が増えていると聞いてから落ち着かなかったが、村には普段どおりの朝があった。
「70人もいるのかな」
「家の中にもいるだろ。数えに来たわけじゃないぞ」
ガレスに言われ、レオンは背筋を伸ばした。班の30人に監督役の正規兵2人が同行している。村の警備と見張り台の修繕を命じられても、自分が村へ命令できるわけではなかった。
柵の前では、黒髪を後ろで固く結んだ女が待っていた。40代後半ほどで、髪には白いものが混じり、日に焼けた頬と厚い肩が目立つ。灰色の瞳は鋭く、農作業で荒れた指が腰の布を握っていた。
「村の代表のエルナだよ。軍から話は聞いたけど、来たのは奴隷兵なんだね」
「レオンです。見張り台の点検と、周辺の調査を命じられました」
命令書を差し出すと、エルナは印章を確かめた。
「前に来た兵士は食料倉庫を勝手に開けようとした。あんたたちは違うのかい」
「食料は持参しています。村の物が必要になれば相談します」
「口だけなら誰でも言えるからね」
厳しい目で見られ、レオンは言い返せなかった。帝国の軍服を着ているかどうかに関係なく、村人には軍に逆らいにくい事情がある。自分が奴隷兵だからといって、最初から信じてもらえるはずもない。
「使う物と返す物を、記録に残します。確認していただけますか」
エルナは少し驚いた顔をしたが、うなずいた。
「まず見張り台へ案内するよ」
北へ向かう細道には枯れ葉がたまり、所々で土が湿っていた。ミラが列の先を歩き、何度も立ち止まって地面へ鼻を近づける。灰銀色の短い髪が狼耳を隠しきれず、尻尾の動きもいつもより小さかった。
「何かいる?」
「灰牙犬の臭いが残ってる。何匹も通ったみたい」
「今も近くに?」
「風向きが変わってるから分からない。いたとしても、もう移動してるかも」
ミラは北の林を見た。彼女が何も分からないと言うと、むしろ慎重にならなければと思う。嗅覚が優れているからといって、すべてを見通せるわけではない。
沢の手前で、ガレスが大きな蹄の跡を見つけた。
「こいつは鎧猪かもしれんな」
レオンの頭に、監視所で襲ってきた巨大な猪が浮かんだ。背を黒い岩のような甲殻で覆い、湾曲した牙で石壁を砕いた魔物だ。
「村のすぐ近くまで来ているんですか」
「足跡だけでは、いつ来たか断定できん。ほかの跡も調べよう」
自分の不安を急いで結論へ変えてはいけない。レオンは地面を確かめ、跡の位置を地図へ記した。
見張り台は低い石積みの上に木の支柱を組んだ造りで、鐘の支持金具には細い亀裂があった。信号灯の台座も傾いており、強い風が吹けば外れてしまいそうだった。
ネマは赤毛を耳の後ろへ押し込み、工具袋から測り紐を出した。
「ドルガンが作ってくれた金具は使えるよ。でも横木が腐りかけてるね」
「替えの木はありますか」
エルナは少し顔をしかめた。
「冬の家の修理に取ってある乾いた木ならある。何本も使われちゃ困るよ」
「必要な寸法を測ってから相談します。運搬は俺たちでやります」
「勝手に切らないならいいよ」
ネマが採寸を続ける間、レオンはミラとガレスを連れて北の沢を調べた。濡れた土には鹿の蹄と灰牙犬の爪痕が重なっていた。小動物が踏み荒らした形跡もあり、沢の水辺に生えていた草がなぎ倒されている。
「餌を探しに来たのかな」
「それにしちゃ、食べた跡が少ない」
ミラがしゃがみ込んで土を指で払った。
「鹿も灰牙犬も、北から南西へ向かってる。こいつらが仲良く歩いたわけじゃないだろうけど、進んだ方向は同じだ」
「何かに追われているの?」
「そうかもしれない。でも、追ってきた奴の臭いまではしない」
レオンは林の奥を見た。木々の間は薄暗く、先の様子は分からない。分からないというだけで、心臓が少し速くなった。
茂みが大きく揺れた。
「伏せて!」
ミラの叫びで身を沈めると、灰牙犬が頭上を飛び越えた。背後の盾兵が盾を上げ、魔物の身体がぶつかる。もう1匹が沢から飛び上がった。
「左へ回る!」
ミラは低い姿勢で横へ走り、短剣で最初の灰牙犬の後脚を裂いた。獣が振り向いたところへガレスの剣が入り、首筋から血が噴き出す。
レオンも剣を抜いた。2匹目が盾兵の脇を抜けようとする。
「盾を下げないで! 俺が横から行く!」
踏み込んで剣を突き出すと、刃は肩へ浅く入った。すぐに魔物がこちらを向き、牙を剥く。足がすくみかけた瞬間、ミラが横から割り込み、湾曲刀を首の下へ滑らせた。
灰牙犬が倒れた。
「大丈夫?」
「うん。助かった」
返事をしながら、レオンは自分の剣を見つめた。ガレスに教わった通り突けたが、1撃では止められなかった。ミラが間に合わなければ、噛みつかれていたかもしれない。
「深追いはするな。周りを見て戻るぞ」
ガレスが言った。魔物が潜んでいた茂みには、北から折れてきた枝が重なっている。敵を倒した喜びより、村にこんな近くまで来ていた怖さの方が大きかった。
戻る途中、村の北端から騒ぐ声が聞こえた。エルナが数人の村人と柵の前に立っている。木の横桟が折れ、土には蹄と爪の跡が残っていた。
「今朝、山羊が1頭いなくなったんだよ」
エルナが言った。
「夜の間に柵を壊されたらしい。前にも狐みたいな魔物が来ることはあったけど、これほど太い柵が折れたのは久しぶりだ」
レオンは折れた木を拾った。根元の割れ目は新しく、周囲には山羊の毛が引っかかっている。
「灰牙犬を見ました。見張り台の近くで2匹と戦っています」
「そんなところまで……」
村人の顔が曇った。
「まず、どこから魔物が来るのか確かめたいです。見張りを増やした方がいいとは思います」
「そうしてくれると助かるよ」
エルナは折れた柵を見下ろした。
「村の人だけじゃ夜通し全部を見て回れないからね」
レオンはガレスと相談して、同行の正規兵へ警戒配置の変更を申請した。村内で勝手に兵を動かせないのがもどかしかったが、灰牙犬との遭遇と柵の破損を記した報告書が役に立ち、夜の見張りを増やす許可が下りた。
村の柵を補強していると、1人の魔族の青年が重い梁を担いで来た。短い藍色の髪の間から黒い角が2本伸び、左の角は先が欠けている。灰褐色の肌に細身の身体をしており、伏せがちな暗い金色の瞳は、こちらを見るとすぐ逸らされた。レオンの班にいる、まだ名前を教えてくれていない兵士だった。
「重くない?」
青年は首を横へ振った。梁を置くと、ネマへ何も言わず手を貸し、支柱の端を押さえている。
「こういう作業に慣れてるんだね」
「……荷車を直してたから」
初めて聞く話だった。レオンが「今度ネマにも教えてくれる?」と尋ねると、青年は少し考えて頷いた。
「名前も、教えてもらえるかな」
「まだ、いい」
「分かった。無理には聞かないよ」
青年は不思議そうな目でレオンを見た後、作業へ戻った。皆が戦えるかどうかばかり数えていたころ、自分はこの青年が梁を扱えることにも気づいていなかった。彼が慣れた手で木を押さえるのを見ていると、班にいる30人をまだよく知らないのだと感じた。
午後、ネマは傷んだ横木を交換し、鐘の支持具を取り付けた。短く鳴らすと、澄んだ音が谷へ広がる。レオンはほっとしたが、ネマは鐘の揺れを見つめた。
「木が新しいから、しばらく馴染ませたい。今夜は強く何度も鳴らさないで」
「分かった。村の人にも伝えるよ」
エルナは鐘を見上げ、小さく頷いた。
村へ下りる道で、子供がミラの尻尾を指さした。くせのある黒髪にそばかすが散る、6歳ほどの男の子だった。手には小さな木彫りの鳥を握っている。
「狼なの?」
「狼獣人だよ。あたしにも名前がある」
「何ていうの?」
「ミラ」
「ミラ姉ちゃん!」
彼女は目を丸くした。男の子が鳥を落とすと、ミラは屈んで拾い、土を払って返す。
「落とすなよ」
「ありがとう、ミラ姉ちゃん!」
走り去る背中を見送り、レオンは笑いをこらえた。
「笑ってるだろ」
「笑ってないよ」
「尻尾を見るなって」
今度は少し笑ってしまった。ミラが睨むので、レオンは慌てて顔を逸らした。
夕方、村の家々から夕餉の匂いが漂ってきた。見張り台の修理や柵の補強をしただけで、危険が消えたわけではない。エルナは山羊の飼い主と相談し、夜は家畜を北側の柵から離すことにしていた。
レオンは鐘の音を思い返した。魔物が来たとき、音を聞いた人はどうするのだろう。家へ戻るのか、広場へ集まるのか。それを尋ねると、エルナは少し困った顔をした。
「昔から、鐘が鳴れば家に入って戸を閉めるんだよ。夜番が外を見て回る」
「大きな魔物が来たら、木の扉では止められないかもしれません」
「それは分かってる。けど、じゃあどうしろと言われてもね」
レオンは返事ができなかった。村の外へ逃げろと言えるほど、自分はここの暮らしを知らない。明日、鐘の合図を試すときに、実際に何ができるか一緒に確かめてみようと思った。
見張り台へ戻ると、日が沈み、家々に小さな灯が点っていた。ミラは北の林へ耳を向けたまま、しばらく黙っている。
「何か聞こえる?」
「今は静か。でも鹿がこんな時間に走るのは、あまり見ない」
レオンも暗い山並みを見た。怖さは消えなかったが、少なくとも鐘は鳴る。明日は音を聞いた人がどう動けるか、村の人たちに聞いてみたかった。




