鍛冶場の火
工房の前に立つと、レオンは思わず足を止めた。建物の中から鉄を叩く音が響き、開いた窓から熱気が流れてくる。灰の辺境で寒さに震えることは多かったが、こんな暑さは久しぶりだった。
「何してるんだい、早く来な」
ネマが先に扉を開けた。短い赤毛の下で茶色い目を輝かせ、工具袋を腰へ結び直す。いつも不機嫌そうに修理をしている彼女が、今日は少し浮き立って見えた。
「工房が好きなの?」
「好きも何も、ここならまともな道具がある。兵舎じゃ釘1本探すのも大変なんだよ」
レオンが続いて入ると、炎の明かりが壁を赤く染めていた。作業台には鋲や鎖、車輪の金具が並び、数人の技師が無言で働いている。奥の炉では赤熱した鉄が火花を散らしていた。
「入口で突っ立ってる奴は誰だ!」
低い怒声が飛んだ。
声の主は、鍛冶台の向こうに立つドワーフの男だった。身長は150cmほどだが、肩幅はレオンより広い。赤銅色の長い髭には灰色が混じり、編んだ束が胸へ垂れている。鼻筋には古い切り傷があり、煤の染みた革の前掛けから太い腕と古い火傷痕が覗いた。目は暗い緑色で、こちらを見るなり険しく細められた。
「修理の申請を持ってきました」
レオンは監督官の押印がある書類を見せた。
「奴隷兵の班長、レオンです」
「元王子だか何だか知らん。ここじゃ書類より鉄が先だ」
男は金槌を置かずに答えた。
ネマが横から声を上げた。
「ドルガン・ガルムさんだよね。私、ネマ。ここの炉の修理を見たことがある」
「見たことがあるだけで分かった気になるな」
「そんなつもりじゃないよ。あの送風口、よくできてると思って」
男がようやく手を止めた。
「どこがだ」
「風が炉の底を回るようになってる。少ない炭で温度を保てるから」
ドルガンはネマを少し見て、鼻を鳴らした。
「その程度は分かるか。用件を言え」
レオンは破損した警鐘の保守記録を広げた。灰谷村北側の見張り台は鐘の支持金具に亀裂が入り、夜間信号灯の台座も壊れているらしい。
「明日、現地へ行きます。持っていける修理部品が必要なんです」
「必要なのは誰でも分かる。材料があるかは別だ」
ドルガンは棚から曲がった金具を取り、机へ投げた。
「今あるのは廃棄待ちの部品ばかりだ。新品の金具なんぞ軍が出さん。魔導灯を丸ごと直せというなら、魔晶石も要る」
「魔晶石はありません」
「なら新しい灯は作れん」
レオンは言葉に詰まった。命令には設備を直せとあるのに、軍から渡された物は工房の利用許可だけだった。
ネマが金具を拾い、断面を調べる。
「これ、切って穴を開け直せば支持具に使えない?」
ドルガンの眉が動いた。
「強度が足りん」
「2枚重ねなら?」
「重くなる。鐘が揺れたとき、根元が裂ける」
「じゃあ端だけ厚くすれば」
話が速すぎて、レオンには半分も分からない。2人は金具を並べ、紙に形を描き、何度か短い言葉を交わした。
「そこなら溶接できる」
「それを支柱へ留めれば」
「現地の木材が腐っていなければな」
レオンは口を挟まず待った。王宮では職人の会話をじっくり聞いたことがない。自分が分からない言葉を無理に理解したふりをするより、2人の相談が終わる方が大切だった。
「工房の使用時間は限られてる」
ドルガンが言った。
「今日は軍の修理が山ほどある。使える炉は夕方からだ」
「待ちます。俺にできる仕事は?」
「邪魔しないことだ」
ネマが笑った。
「レオン、部品を数えるのはできるだろ?」
「それなら多分」
「多分って何だよ」
ドルガンが呆れる。レオンは傷のない金具を数え始めた。
昼過ぎには、ドルガンの天賦技能《魔導鍛造》を見ることになった。金属を炉へ差し込み、男が掌を添えると、赤く熱した鉄の表面に細い光が走った。金槌の動きに合わせて金属が均一に伸び、継ぎ目が目立たなくなっていく。
「魔法で一瞬に直せるんですか」
レオンが尋ねると、ドルガンが睨んだ。
「一瞬に見えるなら、目を洗ってこい」
「すみません」
「炉の熱も材料も必要だ。俺の技能は鉄を思いどおりに動かす助けにはなるが、ない金属を生み出せるわけじゃない」
男は新しい鋲を差し込み、接合部分を確かめた。
「よし。これなら鐘が揺れても持つだろう」
ネマが顔を寄せる。
「すごい。私じゃここまで均一にできない」
「褒めても弟子にはせんぞ」
「頼んでないよ」
2人が言い合うのを聞きながら、レオンは少し笑った。工房の熱さにも、鉄を打つ音にも慣れてきた。
「そこ、押さえろ」
ドルガンが突然言った。レオンは指差された金具へ手を伸ばした。
「素手で触るな!」
怒声に反射的に手を引く。金具の表面はまだ熱く、触れていれば火傷していただろう。
「すみません」
「指がなくなってから謝るな。火箸を使え」
ミラが入口で声を上げて笑った。
「王子様、鍛冶も向いてないんだ」
「向いている仕事を探す方が難しいよ」
「なら数える方へ戻れ」
ネマが真顔で言い、レオンは素直に頷いた。
夕方、支柱用の金具と信号灯の台座が完成した。ただし魔晶石の予備はなく、元の灯を使える時間は延びない。しかも修理した部品が現地の支柱に合うかは、実際に見なければ分からなかった。
ドルガンは一式を布で包み、ネマへ渡した。
「鐘を支えてる木が腐ってたら、先にそっちを直せ。金具だけ替えても落ちる」
「分かった。寸法が違ってたら削る」
「薄くしすぎるなよ」
「分かってるって」
レオンは包みの重さを手で確かめた。警鐘が役に立つかどうかは、明日村へ運び、見張り台へ取り付けて初めて分かる。
「あの、ありがとうございます」
礼を言うと、ドルガンはレオンの足元を見た。
「そんな靴で山を歩くのか」
「え?」
「底が浮いてる。石に引っかけたら転ぶぞ」
レオンは足を上げた。確かに踵の縫い目が緩んでいる。
「直せますか」
「俺は靴屋じゃない。だが革紐と鋲くらいはある」
そう言って、男は余った革片を取り出した。レオンは椅子へ座らされ、ネマと2人がかりで靴底を留め直される。
「無理に踏み込むから、こうなる」
ネマが言った。
「ガレスに足を動かせって毎日言われるんだ」
「靴を壊すほど動かせとは言ってないだろ」
ドルガンも鼻を鳴らした。
靴底が直ると歩きやすくなった。立って足を踏みしめると、今まで靴の中で踵が少し浮いていたのが分かる。
「助かりました」
「現地で転ばれたら運ぶ奴が迷惑する」
ドルガンはもう作業台へ戻っていた。言い方は厳しいが、靴の修理に礼を要求しない。その背中へレオンは深く頭を下げた。
帰り道、ネマは包みを抱えて嬉しそうだった。
「いい職人だね、あの人」
「怖かったけどね」
「怖いのは手順を間違えた奴だよ。鉄に触れば火傷するのは当たり前だろ」
「それはそうだ」
ミラが横からレオンの靴を覗いた。
「試しに走ってみたら?」
「走らせたいだけだろ」
「ばれた?」
笑いながら歩いていると、要塞の鐘が夕方の時刻を告げた。レオンは顔を上げた。こうして決まった時刻に鐘が鳴ることを、これまで当たり前だと思っていた。
だが鐘を吊るす金具が折れれば、音は届かない。灯が点かなければ、危険を知らせることも難しくなる。誰かが危険を見つけても、別の誰かへ伝えられなければ意味がない。
ネマの腕の中の部品が、小さく金属音を立てた。レオンはその音を聞きながら、明日の村で何から調べるべきか考え直した。
食堂へ戻ると、ガレスが干し肉の袋を配っていた。
「工房はどうだった」
「部品はできました。でも、現地の柱が傷んでいたら取り付けられません」
「なら柱の材木も調べろ。村なら木はあるだろうが、勝手に切るなよ」
「分かっています」
ガレスが意外そうに眉を上げた。
「少しは学んだな」
「村の人が使うものですから。必要なら頼みます」
「それでいい」
レオンは自分の椀へスープを注いだ。隣のネマは、食事中なのに紙へ金具の寸法を書いている。
「休まなくていいの?」
「現地で合わなかったら、あんたが困るだろ」
「俺だけじゃないよ。見張りの人も困る」
ネマは筆を止め、少し笑った。
「なら、なおさらちゃんと見ておかないとね」
夜の点呼が終わると、レオンはガレスに頼んで兵舎の机へ地図を広げた。村の北の見張り台から要塞へ直接灯火を送れれば簡単だが、途中の林と尾根が視界を遮る。
「中継所を使うしかないですね」
「そうだ。見張り台から村へ伝えて、村から中継所、中継所から要塞へ送る」
「霧が深いときは?」
「伝令だ。走れる者を残しておけ」
ミラが隣へ座った。
「馬でもいいんじゃない?」
「村には荷運びの馬が少しいるらしい。でも、全部を伝令に使えば避難の荷車が動かせない」
「じゃあ足の速い奴を決めとくか」
レオンは頷いた。警鐘の修理だけを考えていたが、鳴らす人、合図を受ける人、知らせを運ぶ人まで必要なのだ。
「お前が全部走るなよ」
ガレスが言った。
「分かってます」
「本当か?」
「……できるだけ」
ミラが呆れたように笑った。
「まだ信用できないね」
そのやり取りにレオンも笑ったが、地図を畳むときには少しだけ緊張した。明日会う村人たちは、こちらの都合で暮らしているわけではない。軍の命令書を見せるだけで協力してくれるとは限らなかった。
寝台へ横になると、昼間見た炉の火が目に浮かんだ。ドルガンが金属へ金槌を振るたび、光が散っていた。あの部品を村へ持っていけば、暗い谷へ警報を伝えられるかもしれない。
レオンは直したばかりの靴を寝台の下へ揃え、明日は自分の足で歩き、確かめようと思いながら目を閉じた。




