北東の異変
「北東方面で魔物の目撃が増えている。第6中隊の各班は、次の命令まで要塞内で待機しろ」
伝令兵の声が広場に響くと、隣にいたホバンが露骨に顔をしかめた。
「待機って、また石を運ぶだけだろ。腹が減る仕事ばっかり増やしやがって」
レオンも似たようなことを考えていた。ただし、魔物が増えていると聞いて安心できるわけではない。先日の補給隊護衛で見た灰牙犬は、負傷した仲間まで置き去りにして南へ逃げていった。ミラが不思議がっていた光景を、レオンは忘れられなかった。
「ホバン、あとで右側の盾兵の具合を見てくれる?」
「また俺かよ」
「この前、腕を痛めていたから」
「分かったよ。お前は余計な仕事を増やすのが上手いな」
そう言いながらホバンは兵舎へ戻っていった。短い赤茶色の髪を掻く後ろ姿を見送り、レオンは小さく息を吐いた。
班長と呼ばれるようになってから、休み時間にも考えることが増えた。訓練の順番、傷んだ装備、倉庫への申請、怪我人の配置。30人をまとめると言われたときは、戦闘の指示を出すのが主な仕事だと思っていたが、実際には誰の靴底が剥がれたかを確認する時間の方が長い。
「変な顔してる」
振り向くとミラが立っていた。灰銀色の短い髪の間で狼耳が動き、琥珀色の目がレオンの顔を覗き込む。
「寝不足?」
「少しね。北の魔物のことが気になって」
「気にしたって臭いは分からないだろ」
「それはそうだけど」
「なら飯食おう。食い損ねたらもっと困る」
ミラは当然のように言い、先に食堂へ向かった。追いかけながら、レオンは自分がまた考え込んでいたことに気づいた。彼女にとって、空腹のまま危険に備える方がよほど愚かなのだろう。
食堂では魔物の噂が飛び交っていた。北の山で巨大な獣が目覚めた、帝国軍が何かを掘り当てた、獣王国の呪術師が魔物を送ってきたらしい。言う者ごとに話が変わり、昨日の目撃情報がいつの間にか1000匹の大群になっている。
「どれが本当なんでしょう」
レオンが尋ねると、向かいのガレスは豆をすくう手を止めなかった。
「お前が見たものは何だ」
「灰牙犬が、隠れられる岩場とは別の方向へ逃げました。ミラも変だと言っていました」
「それは事実だ。じゃあ北の山に怪物がいるという話は?」
「見ていません」
「それなら噂だ。混ぜて考えるな」
レオンは頷いた。王宮で聞いた兄たちの悪評も、いつも誰かから聞いた話だった。自分が確かめられないまま不安ばかりが大きくなった記憶がある。
「北の見張り台から連絡が遅れたって聞いた」
ミラがパンをちぎりながら言った。
「誰に?」
「夜番してた獣人。昨夜は合図の灯が見えなかったって」
「霧のせいかもしれないな」
ガレスは窓の外へ目を向けた。灰の辺境では朝夕に薄い霧が出る。見えなかっただけなのか、灯そのものが点かなかったのか、話だけでは分からない。
食事を終えたところで、兵舎の前から呼び出しがかかった。軍務区画へ向かうと、左頬に火傷痕のある監督官が地図を広げていた。
「8741。お前の班は明後日、灰谷村の警備と北の見張り台の設備点検へ行く」
「灰谷村ですか」
「要塞から北東へ約6kmだ。木材と農作物を納める村で、70人ほど住んでいる。近ごろ獣害が増えたらしい」
監督官は村の北側を指で叩いた。
「見張り台の鐘も傷んでいる。工房で部品を受け取り、現地で直させろ。村の周囲を確認して、魔物の足跡があれば記録してこい」
「住民の避難が必要だと思った場合は?」
男の眉が寄った。
「お前が勝手に決めることじゃない。調査して報告しろ。村には村の代表がおり、軍には軍の判断がある」
「分かりました」
「護衛の正規兵もつける。余計な英雄気取りで命令に逆らうなよ」
左腕の隷属環が冷たく感じられた。レオンは頷き、地図と命令書を受け取った。
詰所を出ると、ガレスが隣へ来た。
「準備を始めるぞ。村で必要なものは剣だけじゃない」
「食料と水、それに修理道具ですか」
「まず道を見ろ。お前は30人を歩かせるんだ」
ガレスは地図を広げ、村へ通じる街道と谷の位置を教えた。北には林があり、南西へ抜ける道の途中には古い石切り場がある。
「ここ、近道じゃないですか」
レオンが細い道を指すと、ガレスが首を振った。
「雨が降ると泥になる。荷車が通れん」
横からミラが覗き込んだ。
「それに獣道が何本もある。地図だと道に見えないけど、魔物はそっちから来るよ」
「獣道って、見ただけで分かる?」
「地面を見れば。臭いでも分かるけど、風が強いと遠くの臭いなんか拾えない」
彼女は細い指で林の縁をなぞった。
「この谷は風が抜ける。北風の日は、南にいる方が臭いを拾いやすい」
レオンは地図の余白へ書き込んだ。ミラが持つ知識は王宮の本には載っていない。彼女が普段どんなふうに周囲を見ているのか知るだけで、地図の線が別の意味を持ち始めた。
午後は装備の点検に費やした。ホバンが槍の石突きを確かめ、ネマが盾の留め具を外している。身長140cmほどのドワーフの女は、赤毛を短く切り、太い指で金具を器用に扱っていた。
「これ、もう限界だよ」
ネマが曲がった鋲を持ち上げる。
「工房へ修理を頼めますか」
「頼むだけなら。ただし軍の仕事が先だろうね」
「俺が監督官に申請してみます」
「期待しないで待ってるよ」
ネマは笑い、また道具を動かした。
その隣ではゴルドが大斧の刃を磨いている。207cmの巨体は座っていても大きく、折れた左角が夕陽を受けて黒く光った。
「ゴルドは装備に問題ありませんか」
「斧はな。靴の方が心配だ」
足元を見ると、厚い靴底の縫い目が裂けかけていた。戦場で踏ん張ったときに破れれば危険だ。
「それも修理に出しましょう」
「靴まで気にする班長とはな」
「ガレスに言われました。足が動かなければ斧も振れませんから」
ゴルドは短く笑った。
夜、レオンは自分の剣を拭きながら、隣のミラへ尋ねた。
「ミラの故郷にも見張り台はあった?」
「森の入口に小屋があったよ。冬は大人たちが交代で夜番してた」
「何を見張るの?」
「魔物とか、よそから来る奴とか。子供のころは眠らずに番をする大人が格好よく見えた」
ミラは短剣を指先で回しかけ、すぐ鞘へ戻した。
「でも、見張りがいれば何でも防げるわけじゃないんだな」
彼女の声が静かになった。奴隷狩りに連れ去られた故郷のことを思い出しているのだろうか。レオンには分からず、安易に尋ねることもできなかった。
「見張りがいなくてもいい、とは思わないよ」
レオンが言うと、ミラは顔を上げた。
「何それ」
「俺たちだって、ミラが先に気づいてくれたから助かったことがある。全部防げなくても、知らせてもらえるだけで違うと思う」
「……そっか」
ミラは小さく頷き、短剣の鞘を布で拭き始めた。
寝る前、ガレスが地図を取りに来た。
「北の魔物が増えた理由、どう思います?」
レオンが聞くと、ガレスは少し考えた。
「食料が減ったのか、縄張りを追われたのか、あるいはもっと別の何かか。今は分からん」
「怖いですね」
「ああ。分からないものは怖い」
ガレスは窓の向こうの闇を見た。
「だから見に行く。ただし、帰って報告するまでが仕事だ」
レオンは頷いた。明後日、村には70人が暮らしている。誰もが自分たちの生活を続けているはずだ。危険があるのなら、できるだけ早く知らせたかった。
翌朝は冷たい雨が降った。レオンが兵舎の裏で靴紐を締めていると、ホバンが欠伸をしながらやってきた。
「昨日の盾兵はどうでした?」
「リーネに診せた。腕は悪くないが、今朝の石運びは軽い荷へ替えろってさ」
「ありがとう」
「班長が全員の腕まで触って回ってたら日が暮れるだろ」
ホバンはぶっきらぼうに言い、槍を肩へ担いだ。
「俺は右側を見ておく。変な奴がいたら言う」
レオンは嬉しくなったが、顔に出すとまたからかわれそうだったので、黙って頷いた。
昼には軍から干し肉と黒パンが配られた。明日からの出張任務用で、村の食料を当てにするなと伝えられている。レオンが分配していると、ネマが金具を数えながら顔を上げた。
「補修用の鋲が足りないよ。これじゃ鐘どころか、持っていく盾も直らない」
「工房の許可は今日中にもらいます」
「無理なら、せめて針金をもらってきな。現場じゃそれが役に立つ」
横からミラが覗き込んだ。
「こっちの袋、やけに軽くない?」
「君の食料だよ」
「じゃあ増やして」
「全員分が同じ支給量なんだ」
「冗談だよ」
ミラは笑って袋を持ち上げた。
「でも足りなかったら言うからね。空腹で走れないのは嫌だ」
「分かった。俺にもちゃんと言って」
「それはこっちの台詞」
レオンは返す言葉がなくなった。ミラは嬉しそうに笑い、荷物を背負って去っていく。
午後、ガレスに連れられて城壁の見張り場へ上がった。ここからは灰谷村の家々は見えず、谷の入口にある中継所の屋根だけがかすかに見える。
「村へ合図を送るときは?」
レオンが聞くと、見張り兵は雨で濡れた灯火台を示した。
「昼なら煙だ。夜なら灯を使う。霧が深ければ伝令を走らせるしかない」
「鐘の音だけじゃ届きませんか」
「谷を越えて6kmだぞ。風向きが悪けりゃ無理だ」
レオンは頷いた。村の鐘を直しただけでは、要塞へ危険を知らせることにはならない。
壁の向こうでは、雨に濡れた街道が北東へ伸びていた。そこを自分たちは30人で歩いていく。レオンは地図の中継所へ新しい印をつけ、もう1度荷物の数を確かめようと階段を下りた。




