30人の帰り道
「《鬼神》を使ったら、どれくらい休む必要がありますか」
朝の訓練場で、レオンはゴルドへ尋ねた。
鬼人は大斧を肩に担ぎ、うんざりした顔をした。
「またか。昨日も聞いただろう」
「昨日は短い戦闘の後の話でした。今日は護衛なので、長く動けなくなるのは困るんです」
「全力で使えば数分で身体が重くなる。その後はしばらくまともに斧を振れん」
「なら、最初から頼りきりにはしません」
「俺の力が要らんと?」
「必要だから、いつ使うか一緒に考えたいんです」
ゴルドは少しだけ口元を緩めた。
「前よりはましなことを言う」
ミラが横で笑う。
「最初から聞けばよかっただけだけどね」
「本当にその通りだよ」
レオンは苦笑した。
班を任されて約3週間が過ぎた。名前を覚え、皆の得意なことも少しは分かったが、監視所での失敗を思い出すと胸が痛む。
今日の任務は北方街道を進む補給隊の護衛だった。荷車は4台で、食料、薬、弓矢、修理用の金具などが載っている。御者や作業員も同行する。目的地で物資を渡した後、荷車を連れて要塞へ戻る予定だった。
出発前、レオンは名簿を開いた。
「ホバン、右側の槍兵は疲れていませんか」
「昨日の石運びで2人が少しへばってる。途中で交代させたい」
「分かった。ネマ、荷車の車輪を見てもらえる?」
ネマは工具袋を叩いた。
「見ておくよ。最初から緩んでる金具があると厄介だからね」
レオンは頷いた。自分より詳しい者へ聞くことに慣れてきた。
ガレスと地図を広げる。
「ここが気になります」
レオンは北側の岩場を指した。
「見通しが悪いので、ミラに先を見てもらいます。荷車の前後には盾兵、側面には槍兵をつけたいです」
「襲われたら?」
「まず御者を荷車の陰へ下げます。左右から挟まれたら、後ろへ退く道を確保します」
「荷車が動けなくなったら?」
レオンは少し迷った。
監視所で捨てた2台が頭に浮かぶ。
「守れる限りは守ります。でも、守れなければ人を先に下げます」
「よし」
ガレスは短く答えた。少し安心した。
レオンは治療所にも立ち寄った。リーネが包帯と小さな薬瓶を包んで渡してくれる。
「怪我をしたら、無理に動かさずに帰ってきてください」
「分かっています」
「特にあなたが心配なんです」
「俺ですか」
「人を助けようとすると、自分が傷ついていることを忘れますから」
ガレスとミラが同時に頷いた。
「そんなにですか」
「そんなにです」
リーネの即答に、レオンは何も言えなくなった。
「使わずに済むよう気をつけます」
包みを胸元へしまった。
城門を出ると、遠くの山までよく見えた。レオンは車輪や兵士の歩調を確かめながら、荷車の中央を歩いた。
「班長」
ホバンが横へ来る。
「何?」
「左の盾兵、腕が疲れてる。交代させた方がいい」
男の肩が落ちている。
「ありがとう。代わりを出そう」
「俺が伝えてくる」
ホバンはすぐに歩いていった。初対面では名乗るのさえ嫌がっていた相手が、今は見落としを知らせてくれる。
「にやけるな」
ガレスが小声で言った。
「してません」
「顔に出てる」
レオンは慌てて前を向いた。
昼過ぎ、補給隊は岩場へ入った。道が狭くなり、荷車同士の間隔が開く。ミラが先行していたが、曲がり角で急に戻ってきた。
「レオン、変な臭いがする」
「魔物?」
「灰牙犬の臭い。でも血も混じってる。何匹も動いた跡がある」
「今も近くに?」
「いると思う。風で分かりにくいけど」
彼女の耳が緊張したように立っている。レオンはガレスへ合図した。
「隊列を詰めます。御者にも気をつけるよう伝えてください」
盾兵が前へ出て、槍兵が両脇へ移動した。数分後、岩陰から灰牙犬が飛び出した。
最初の1匹が盾へぶつかり、横から槍が伸びる。獣が悲鳴を上げた直後、別の影が斜面を駆け下りてきた。
「右からも来る!」
ホバンが叫ぶ。
レオンは剣を抜いた。
「盾を右へ回して! 荷車は止めて!」
声が重なる。正面の灰牙犬を受け止めているところへ、奥からさらに数匹が現れる。群れは12匹以上いそうだった。
「ゴルド、中央を!」
「任せろ」
ゴルドが大斧を構えた。今日は《鬼神》を使っていない。それでも近づく魔物は斧の一撃を警戒し、簡単には荷車へ寄れない。
レオンは周囲を見続けた。自分の剣の先ばかり見ないようにするだけで、ひどく神経を使う。
「左が薄いぞ!」
ガレスの声。
「ホバン、左へ2人!」
「分かった!」
返事が来た。
岩場の上からミラの声が響いた。
「左の奥、抜けてくる!」
振り向くと、灰牙犬が3匹、荷車へ向かっていた。左の盾兵は正面を守るので精一杯だ。武器を持たない御者が2人、車輪の陰で固まっている。
「ミラ!」
「分かってる!」
彼女は身を低くし、斜面を駆け下りた。最初の灰牙犬が荷車へ跳ぶ直前、その進路へ滑り込む。湾曲刀が前脚を裂き、獣は荷車の手前で地面へ転がった。
倒したのではない。動きを変えただけだった。
ミラは追撃しなかった。残る2匹が御者へ向かったからだ。
「そこから離れろ!」
叫ばれて、御者たちが走る。
2匹目がミラへ飛びかかった。彼女はわずかに半身をずらし、牙を肩先へかすらせながら短剣を脇腹へ突き込んだ。
「くっ」
刃は浅く、獣が暴れて腕を弾いた。
3匹目が背後へ迫る。
「ミラ、後ろ!」
レオンが叫んだ。ミラは振り返らず、地面へ片手をついて身体を沈める。頭上を灰牙犬が飛び越え、着地する。湾曲刀が後脚を浅く斬り、速度が落ちた。
「今!」
彼女の声より少し早く、レオンは駆け出していた。ガレスから教わったように剣を大きく振らず、前へ突き出す。
刃が肩口へ入った。
浅い。
灰牙犬が振り向き、黒い牙を剥く。
怖い。足が地面へ張りつきそうになる。だが、背後にはまだ御者がいる。
レオンは剣を引いて半歩下がった。魔物が跳ぼうとした瞬間、横からミラが踏み込む。
湾曲刀が首筋を切り裂き、獣が倒れた。
「ぼさっとするな!」
「助かった!」
「礼は後!」
残る2匹は傷ついていても、まだ動いた。ミラは肩で息をし、右腕から血を流している。契約で身体が少し動きやすくなっても、敵が3匹いれば危険なことは変わらない。
「ホバン、援護して!」
レオンが叫んだ。
ホバンともう1人の槍兵が駆けつける。ミラは灰牙犬の目を引き、槍が届く位置へ誘い込んだ。
「今だ!」
槍が胸を貫き、1匹が倒れる。最後の獣も、ホバンの槍に追い詰められ、ミラの湾曲刀で倒された。
「御者は?」
ミラが聞いた。
「無事だよ」
「荷車は?」
「こっちも無事」
「なら上出来じゃん」
彼女は笑ったが、すぐに腕を押さえた。
「怪我してる」
「かすり傷」
「リーネには見せて」
「分かったって」
レオンは自分の胸がまだ激しく上下していることに気づいた。ミラが深追いしていれば、御者を守れなかった。何を守るか判断できるのが、彼女の強さだった。
「ありがとう、ミラ」
「何だよ、改まって」
「本当に助かった」
ミラは少し目を逸らした。
「……あんたも、前より剣がまともになったじゃん」
「ガレスに毎日叩かれてるから」
「もっと叩いてもらえば?」
「それ以上は勘弁して」
彼女が笑う。レオンも笑いかけたところで、ガレスから「油断するな!」と怒鳴られた。
残る灰牙犬たちは撤退し始めていた。ただし妙な方向だった。もともと隠れていた北の岩場へ戻らず、南側の開けた荒野へ走っていく。
「変だな」
ミラが鼻を動かす。
「怪我した仲間まで置いていった。普段ならもう少し様子を見るのに」
「逃げたいほど怖かったんじゃない?」
「それなら、隠れられる方へ行くと思う」
ガレスも北側の斜面を睨んだ。
「近頃、魔物の動きがおかしいな」
レオンは黒い山並みを見た。あそこには何がいるのだろう。考えても分からないが、胸の奥が落ち着かなかった。
帰路は無理に急がず、途中で交代を増やした。御者たちも怯えていたが、荷車は4台とも動いている。要塞の城門が見えたころ、夕陽が城壁の縁を赤く染めていた。
「人数を確認します」
レオンが全員を集める。負傷者は4人で、いずれも歩ける。名簿を見ながら1人ずつ顔を確かめ、最後にガレスとミラへ目を向けた。
「30人、全員います」
胸の奥が少し温かくなった。
「当たり前だろ」
ホバンが言った。
「……うん。その当たり前が嬉しいんだ」
ホバンは何か言いかけて、鼻を鳴らしただけだった。
夕食は兵舎前の大鍋を囲んだ。人間も獣人も、訓練で組んだ者同士で座っている。まだ種族の違いを嫌う者もいるが、以前のように露骨に場所を空ける者は減っていた。
レオンが座る場所を探していると、ゴルドが隣を叩いた。
「ここ、空いてるぞ」
「いいんですか」
「飯を食うのに許可が要るのか」
ミラが向かいから笑った。
「王子様は礼儀正しいんだよ」
「元だってば」
近くから笑いが起きる。
ガレスがスープを飲みながら言った。
「少しは班長らしくなったな」
「まだガレスがいなければ何もできません」
「それを分かっているなら、悪くない」
レオンは椀を見つめた。自分は弱く、指揮の経験も少ない。契約者もミラ1人だけだ。
それでも今日、30人は自分の声を聞いて動いてくれた。ミラは自分で敵の進路を変え、ホバンは仲間の疲れを知らせ、ゴルドは力を使いすぎないように戦ってくれた。誰もただ命令を待っていたわけではない。
その夜、寝台へ戻ったレオンは左腕の《隷属環》へ触れた。皆と食事をしていると忘れそうになるが、自分たちはまだ奴隷だった。明日、危険な任務を命じられても断れない。誰かを捨てろと言われれば、また選ばなければならない。
それでも、命令をただ伝えるだけの人間にはなりたくなかった。レオンは隣の寝台から聞こえるいびきを聞きながら目を閉じた。明日もこの人たちの声を聞こうと思った。
翌朝、広場へ出ると伝令兵が駆け込んできた。
「北東方面で魔物の目撃が増えている! 各班は待機命令に従え!」
ざわめきが広がる。ガレスが表情を険しくした。
レオンはミラと目を合わせた。彼女の耳は北を向いている。
「……また、何か来るのかな」
小さく尋ねると、ミラは答えずに遠くの山を見た。
冷たい風が城壁を越えて吹いてきた。レオンは剣の柄に手を置き、30人の顔を思い浮かべた。知らないことはまだ多い。それでも、今できることを確かめておきたかった。




