足りない鍋
「おい、これだけか」
ホバンが鍋の底を覗き込み、不満を隠さずに言った。レオンも木椀を持ったまま覗く。薄い豆のスープに野菜の切れ端が浮いているだけで、いつも入っていた小さな肉片は見当たらなかった。
「特別配給が止められてるからな」
ガレスが言った。
「知ってるよ。だから聞いてんだ」
ホバンは椀を引き寄せ、レオンを睨む。
「荷車2台、どこへやったんだっけな」
「監視所へ置いてきました」
「お前のせいで俺まで腹減らしてるわけだ」
「……そうです。ごめんなさい」
謝ると、ホバンはますます不機嫌そうになった。
「謝れば増えるのか?」
その言葉に答えられない。レオンは自分の椀へ目を落とした。捨てた荷車に人が乗っていたわけではない。けれど、失われた資材には値段がつき、その値段の代わりに班の食事と労働時間が削られた。
「そもそも、あいつはどうなんだよ」
ホバンの視線を追うと、ゴルドが大きな木椀を持っていた。彼の前には、軍票で買った黒パンも置かれている。
「図体のでかい奴ばかり食いやがって」
ゴルドの手が止まった。
「俺のパンは自分の軍票で買った」
「本当かどうか分かったもんじゃねえ」
長椅子がきしみ、ゴルドが立ち上がった。目線の高さが違いすぎる。ホバンは身を引きかけたが、周りの兵士の手前、引っ込みがつかないらしい。
「待ってください」
レオンは2人の間へ入った。
「ゴルドは班の分を多くもらっていません。俺も売店で買っているところを見ています」
ホバンが舌打ちする。
「元王子は鬼人の味方か」
「そうじゃなくて、事実を」
「じゃあ何とかしろよ、班長」
言われて胸が詰まった。全員が同じ鍋から同じ量を受け取れば、公平だと説明できるのではないか。
「明日から、俺が同じ量ずつ分けます」
その場の何人かが頷いた。だがゴルドは椀を置いた。
「それで足りると思うのか」
「足りないのは分かってます。でも」
「人間と同じ量を俺が食って、同じだけ働けると思うか」
レオンは答えられなかった。ゴルドはそれ以上何も言わず、パンを手に食堂を出ていった。
翌朝、レオンは配給担当の兵士へ班の支給量を尋ねた。特別配給は確かに3日分止められているが、基本配給まで取り上げられたわけではない。
「中身を増やしてほしいんです」
「俺に言うな。軍が決めた量だ」
「班の中で配る割合を変えるのは?」
「その分を記録に残すなら勝手にしろ。ただし揉めても知らんぞ」
許されたのは配給の変更ではなく、支給されたものの扱いだけだった。レオンは困り果て、治療所へ向かった。
リーネは帳面へ目を落とすと、すぐに首を振った。
「同じ量を配れば公平とは限りません」
「でも、誰かだけ多いと争いになります」
「ゴルドさんの身体とネマさんの身体を比べてください。必要な食事量が同じだと思いますか」
「思いません」
「昨日のように石を運んだ人と、熱を出して休養している人でも違います。種族だけで決めるのも危険ですよ」
レオンは唇を噛んだ。平等にすれば文句がなくなると考えていた。実際には、全員が同じ必要量ではない。
「なら、どう分けたら」
「まず本人へ聞いてください。何が足りないのか、何なら食べられるのか。私も病人の分は見ます」
「それで納得しますかね」
「全員が満足する量はありません。だから、納得できない人はいると思います」
リーネは静かに言った。
「でも何も説明されずに決められるより、ずっとましでしょう」
レオンは頷いた。王宮で自分の扱いを変えられたとき、理由を聞いても答えてもらえなかった。決まったことだから従えと言われるだけだった。何も選べない苦しさなら、少しは覚えている。
夕方、班の者を集めた。
「食料のことを相談したいです」
ホバンが腕を組む。
「またお前が勝手に決めるのか」
「いいえ。昨日は勝手に決めかけました。今日は皆の話を聞きたい」
レオンは支給量を書いた紙を壁へ貼った。豆、野菜、穀物、肉の量を、帳面で確かめたまま書いてある。
「特別配給はあと2日止まります。これ以上増やせないので、欲しい時間と体調を聞かせてください」
「昼を増やしてくれ。朝から石を運んでると腹が減る」
ホバンが最初に口を開いた。
ネマは朝に食べたいと言った。午前の作業で工具を使うからだ。別の獣人は、夜には疲れて食欲が出ないと言う。傷の残る男は硬いパンを噛むのがつらいらしかった。
話すほど、誰もが違う理由で困っていると分かる。
「俺は朝を少し減らしても大丈夫」
レオンが言うと、ガレスが横から頭を小突いた。
「自分だけ我慢して終わらせるな」
「でも」
「明日倒れたら誰が班をまとめる」
「……俺です」
「だったら食え」
誰かが小さく笑った。レオンも苦笑する。自分の食事を減らしたところで、30人の不足が埋まるわけではない。
「病人には消化のいいものを回しましょう」
リーネが言った。
「重い仕事の日は昼を厚くする。ただし、食べられない人へ無理に押しつけないこと。全員の分を見ながら調整します」
ネマが手を上げた。
「具を先に分けて、スープは最後に量を合わせればいい。大きな椀に入れただけで多く取ったと思う奴がいる」
「それ、いいですね」
レオンは紙に書き込んだ。
「それでも足りねえぞ」
ホバンが言う。
その通りだった。何度分け直しても、食料そのものは増えない。
「追加で軍票を得られる作業があると聞きました」
レオンはガレスへ顔を向けた。ガレスが頷く。
「許可があれば、罰の仕事とは別に倉庫の夜番や道具の修繕でわずかに軍票が出る。ただし希望者だけだ。身体が悪い奴は参加するな」
「罰で働かされた後に、また働くのかよ」
ホバンが顔をしかめる。
「俺も嫌だと思います」
レオンは正直に答えた。
「でも、他に方法が見つからなくて。俺はできる範囲でやります。強制はしません」
「俺らが働いて買ったものも、班の鍋へ入れるのか」
別の兵士が聞いた。
「そこも相談したいです。出したくない人からは取りません」
沈黙が落ちた。すぐに誰かが賛成するとは思っていなかった。
最初に口を開いたのはミラだった。
「あたしは夜番ならやる。暗いところでも人間より見えるし、音も聞こえる」
「私は工具の修繕ができるよ」
ネマが続く。ガレスも「荷の検品なら引き受けよう」と言った。
ホバンは最後まで黙っていたが、皆が帰り始めたころ、レオンへ近づいてきた。
「俺も荷を運ぶならやる」
「いいの?」
「よくねえよ。でも、飯が少ないのは俺だけじゃないしな」
「ありがとう」
「礼はいい。次は荷車を捨てる前に、もっと考えろよ」
レオンは頷いた。
監督官から許されたのは、作業時間外の限られた業務だけだった。しかも軍票はわずかで、店の棚も豊かではない。班の者が稼いだ分の使い道を毎晩確かめ、希望者から少しずつ食料を買い足す。レオンも倉庫で木箱を運び、寝台へ戻るころには腕が上がらなかった。
ミラは夜番から戻ると、薄明かりの下で大きく欠伸をした。
「眠そうだね」
「夜番だもん。当たり前だろ」
「昼はちゃんと寝て」
「だからあんたも寝ろって」
2人で顔を見合わせ、少し笑った。
3日目が終わるころには、鍋に入る豆が少しだけ増えた。誰も十分とは言えなかったが、前の晩より不満の声は減っていた。
配給停止が解けた夜、久しぶりに小さな肉片の浮いたスープが並んだ。ホバンが椀を持ち上げる。
「やっとまともな飯だ」
「俺のせいで減った分、ごめんなさい」
レオンが言うと、ホバンは眉をひそめた。
「だから謝るな。次は上手くやれ」
「はい」
「まあ、今日くらいは食え」
不器用な言い方だったが、少し気が楽になった。
食後、ミラと水場で椀を洗った。石槽には冷たい水が流れ、遠くの城壁から交代の鐘が聞こえてくる。
「王子様って、もっと頭いいもんだと思ってた」
ミラが言った。
「期待を裏切ってごめん」
「馬鹿だって言ってるんじゃない」
「違うの?」
「知らないことを知らないって言えるのは、そんな悪いことじゃないだろ」
レオンは布を絞った。
「王宮では、知らないと笑われたから」
「ここじゃ知ったかぶりされる方が危ないよ」
「確かに」
「それに、間違えたら直そうとするだろ。あんた」
言われて顔が熱くなった。ミラは気づかないふりをして、懐から干し果実を出した。
「余ったから、やる」
「ミラが甘いものを余らせたの?」
「いらないなら返せ」
「いる」
口に入れると、疲れた身体へ甘みが広がった。
「美味しい」
「だろ」
彼女の尻尾が小さく揺れる。
「……ちゃんと夕飯食べた?」
「食べたよ」
「全部?」
「全部」
「ならいい」
レオンは笑った。
自分の食事を気にかけてくれる人が、ここにもいる。セレスティアがまだ城にいたころ、パンを半分にしてくれたことを思い出した。いま彼女は何をしているだろう。
「何、急に黙って」
ミラが顔を覗く。
「妹のこと、少し思い出した」
「仲がよかったんだっけ」
「うん。また会えるか分からないけど」
ミラはしばらく黙ってから、残りの皿をレオンへ寄せた。
「さっさと終わらせて寝よう。明日も早いんだろ」
「そうだね」
彼女の言葉は慰めでも約束でもなかった。それでも、一緒に明日のことを考えられる人がいるのは悪くないと思った。




