治療所の小さな約束
「休ませてください。少なくとも2日は走らせないで」
リーネがはっきり言った。
レオンは寝台に横たわる男と手元の名簿を交互に見た。男は昨日まで歩いていた。今朝も自分の足で広場へ来たので、レオンは他の兵士と一緒に走るよう指示してしまった。
「歩けていたので、大丈夫かと」
「歩けることと走れることは違います。腫れた足首で無理をさせれば、しばらく立てなくなりますよ」
リーネは患者の足へ冷やした布を当てた。肩までの栗色の髪を束ね、蜂蜜色の目を真剣に細めている。白い上衣の袖から覗く右手首には、昔の火傷痕が輪になって残っていた。
「でも、監督官に休めと言って通りますか」
「軽作業へ回す理由なら説明できます。あなたも一緒に来てください」
「もちろんです」
「それから、同じことを起こさないでくださいね」
優しい顔で言われると、余計にこたえる。
レオンは小さく頭を下げた。30人を任されたといっても、彼らの身体について何も知らない。足に古傷がある者を走らせておきながら、敵が来れば守りたいなど、よく言えたものだ。
「他の29人も、少しずつ診てもらえませんか」
「いいですよ。ただ、治療所は人手不足です」
「何をすればいいですか」
リーネが指差した先に、汚れた包帯でいっぱいの桶が3つあった。
「洗って、使えるものを分けてください」
「……全部ですか」
「全部です」
昼の水場は混んでいた。レオンが桶を運ぶと、近くにいた兵士が顔をしかめて場所を空ける。布に染みた血の臭いは、洗ってもなかなか消えない。
「また洗濯?」
声の方を見るとミラがいた。灰銀色の髪の間から耳を覗かせ、琥珀色の目で桶を覗くなり鼻をしかめる。
「臭い。こっちまで来る」
「ごめん。これを洗わないと新しい包帯が足りないらしい」
「謝ることじゃないけど」
ミラは少し離れた石槽へ腰掛けた。レオンが布をこすっていると、横から「破れたのは別にした方がいい」と教えてくれる。
「詳しいね」
「怪我したら自分で手当てすることもあるから」
「俺、王宮じゃ洗濯さえしたことなかった」
「知ってる。粉を桶ごと入れかけた奴だもんな」
「いつまで言うの」
ミラが笑う。その笑い声は、じめじめした水場で聞くと妙に明るかった。
午後、レオンは治療所でリーネの記録を手伝った。班員の中には腰痛を隠していた者も、古い傷を放置して膿ませた者もいた。熱が出ても黙って仕事へ出ていた男が、リーネから寝台へ戻るよう叱られる。
「こういう傷も治癒魔法で治せますか」
「傷口を閉じるだけならできます。でも汚れを残せばまた悪くなります」
「全部を魔法で済ませるわけにはいかないんですね」
「魔法があっても、清潔な水や食事、休息は必要です」
リーネは薬棚から小瓶を取り出した。
「それに、この薬を誰にでも同じ量使えるわけではありません。狼獣人と兎獣人だって身体のつくりは違いますし、魔族という呼び方はさらに幅広いんです」
レオンは瓶の文字を見た。読めない種類の薬草が書いてある。
「魔族は、1つの種族じゃないんですか」
リーネが信じられないものを見るような顔になった。
「王国ではどう教えているんです?」
「角や翼を持っていて、魔力が強く、人間とよく争う種族だと」
「それだけでは、治療できませんよ」
彼女は呆れながら、角魔族と影人族では体質も得意な魔法も違うことを話してくれた。血の巡りが独特な種族もいて、同じ薬でも効き方を見ながら量を変える必要があるという。
教本では一緒くたに扱われていた人々が、目の前では別々に傷つき、別々の薬を必要としていた。
リーネは右手首の布を直した。その下に覗いた火傷痕へ、つい目が行く。
「……その傷は、神殿で?」
口にしてから後悔した。聞く権利などない。
「ごめんなさい。無理に答えなくていいです」
「構いませんよ」
リーネは袖を上げた。火傷は、何かの紋章を焼き潰したように輪郭が歪んでいる。
「ルミナリア聖教国で神官資格を剥奪されたときのものです」
「何をしたんですか」
「魔族の子供を治療しました。捕虜になった子でした。神殿の上層部は治療を認めていませんでしたが、放っておけば死んでしまうと思ったので」
「それだけで?」
「無許可の治癒と教義違反だと言われました。資格を失い、国から追い出されました」
「それから、ここへ?」
「国境を越えたあたりで人買いに捕まりました。今思えば、もっと警戒すべきでしたね」
リーネは困ったように笑う。
レオンは目を逸らせなかった。自分の王籍剥奪も、紙に署名があるだけで決まった。人が勝手に引いた境界で、昨日まで許されていたことが罰になる。
「治したことを、後悔していますか」
リーネの返事は速かった。
「いいえ。あの子が助かったのなら」
「でも、あなたは奴隷兵団へ」
「それは悔しいです。今もここから出たいと思っています。でも、あの子を見捨てていればよかったとは思えません」
その言い方が胸に残った。岩場で自分が命令を拒んだときと、少し似ている。しかし彼女は長い時間、その決断の結果を生きてきたのだろう。
「俺、帝国へ来るまで魔族が少し怖かったんです」
正直に言うと、リーネは黙って聞いてくれた。
「王宮では危険な者だと教わりました。でも、ここで話してみると、知らなかったことばかりで」
「知らないのは仕方ありません。知った後にどうするかは選べます」
レオンは頷いた。
翌朝、レオンは監督官の詰所へ行った。最初から全員を休ませてくれと頼んでも通らないだろう。リーネが書いてくれた症状と、本人ができる作業を記した紙を握る。
「負傷した者を2日だけ軽作業に回していただきたいんです」
監督官は紙を見て鼻を鳴らした。
「奴隷兵を休ませる余裕はない」
「休暇ではなく、修繕や仕分けへ回します。走らせて歩けなくなれば、人手を失います」
「今さら人手の心配か」
「……はい。昨日、無理をさせて悪くしました」
失敗を認めると、男は少し呆れた顔になった。
「元王子は変わってるな。普通は部下の怠け癖のせいにする」
「怠けてはいませんでした。本人も傷を隠して働こうとしていたので」
監督官はしばらく紙を読んだ。やがて、治療所の印とガレスの補記を見つけ、指で叩いた。
「2日だけだ。回復しなければ配置はこっちで決める。お前が勝手に兵士を休ませるなよ」
「ありがとうございます」
胸の奥で張り詰めていたものが少し緩んだ。いつでも上手くいくわけではないだろう。それでも、何も言わず諦めれば、この男は今日も痛む脚で走らされていた。
戻るとリーネが水を汲んでいた。
「どうでした?」
「2日だけ、軽作業にしてくれるそうです」
「よかったです。これで腫れも落ち着くと思います」
彼女が安心したように笑う。レオンは自分も笑っていることに気づいた。たった1人の仕事を変えるために、午前中を使ってしまった。それでも無駄な時間だったとは思わなかった。
夜、リーネに頼んで、班の希望者へ手当てと衛生の話をしてもらった。最初は不満そうだったホバンも、靴擦れを放置すると歩けなくなると聞くと、自分の踵を確かめていた。
「休めって言われても、監督兵が認めるかよ」
ホバンが尋ねる。
「休ませる理由が必要なら、俺が相談します」
レオンが答えると、「お前の言葉で通るか?」と返された。
「俺だけだと難しいかもしれません。でも、リーネとガレスにも確認してもらいます」
ガレスが腕を組んだ。
「戦えん奴を前へ出しても損だ。軽作業へ回せるなら俺も監督官へ話す」
ホバンはまだ不満そうだったが、黙って自分の靴紐を締め直した。
片付けのあと、リーネが笑顔で近づいてきた。
「あなたの班の人たち、案外話を聞いてくれましたね」
「ガレスのおかげです」
「あなたが頭を下げて相談したのも大きいと思います」
そんなふうに言われると、どう受け取ってよいか分からない。レオンが黙っていると、リーネは包帯の桶を指した。
「ところで、明日も手伝っていただけますか」
「……まだあるんですか」
「怪我人がいる限り、なくなりません」
「分かりました。朝の訓練の後で」
リーネは礼を言った。治療所を出ると、外には食事の煙が立っていた。剣を持つ人ばかりが仲間を守っているのではない。レオンは洗いすぎて赤くなった自分の指を見た。この指にも、できることはあるらしかった。




