30人の名前
「腰が入ってない。床まで磨くつもりでやれ」
ガレスの声が厩舎の入口から飛んできた。レオンは濡れたブラシを握り直し、泥と干し草のこびりついた床へ押し当てた。右肩は鈍く痛み、左腕の《隷属環》には、先日の命令違反で与えられた刺激の感覚がまだ残っているようだった。
「監視に来たんですか」
「倒れてないか見に来た。ついでに水だ」
差し出された水筒を受け取ると、水は温かったが、喉に染みるほど美味かった。灰の辺境へ来てから、何もせず座って飲む水さえ贅沢に思えるようになった。
「3日間の追加労役も今日で終わりだ。反省したか」
「上官の命令を無視すると、掃除が上手くなることは分かりました」
「口も達者になったな」
ガレスは少し笑ったが、すぐに表情を戻した。
「反省したのかと聞いてる」
レオンは床を見た。岩場で囮にされかけた年配の奴隷兵が、命令に逆らえず俯いていた姿を思い出す。彼を残して退けば、自分は今より楽に暮らせたのだろうか。
「言い方と手順は悪かったと思います。でも、置いてくればよかったとは思いません」
「なら次は、罰を受けずに連れ帰る方法を考えろ」
「そんな都合のいい方法がありますか」
「最初からないと決めたら、見つかるもんも見つからん」
ガレスは水筒を取り上げた。レオンが再びブラシを動かすと、入口から「レオン!」と呼ぶ声が聞こえた。灰銀色の短い髪を揺らし、狼耳を立てたミラが立っている。
「まだ終わらないの?」
「終わりたいとは思ってる」
「こっちは洗濯の順番を取ってきたんだけど」
「ありがとう。あと少しだけ」
ミラは床を覗いて顔をしかめた。
「すごい臭い。あたしなら3分で逃げる」
「頼むから置いていかないで」
「背負ってもらった借りがあるから、あと5分なら待つ」
「短くない?」
「狼獣人の鼻には長いんだよ」
笑いながら去っていく彼女の背を、レオンは見送った。3日前に《テイマー》の契約が成立してから、ミラは自分の足運びが少しだけ滑らかになったと言っていた。実際、石槽の縁から跳び降りたときに体勢を崩さなくなっていたが、重いものを持てるようになったわけでも、傷が消えたわけでもない。
その程度の変化でも、彼女は喜んでくれた。役立たずと言われ続けた自分の技能が、人の役に立っている。そのことだけは素直に嬉しかった。
作業を終えて水場へ向かう途中、軍務区画の監督官に呼び止められた。40代半ばほどのがっしりした男で、刈り込んだ黒髪と左頬の火傷痕が目立つ。灰色の軍服の腰には、奴隷兵の隷属環を操作する制御具が吊られていた。
「明朝は詰所へ来い。班を組み直す」
「何か問題があったんでしょうか」
「問題だらけだから組み直すんだ。余計なことを聞くな」
男は答えを待たずに立ち去った。レオンは胸の番号布へ目を落とす。名前で呼ばれないことにはまだ慣れない。ここへ来てから、自分に名前があると確認する機会の方が少ない気がしていた。
翌朝、詰所にはガレスもいた。監督官は机に名簿を広げ、無造作に指を置いた。
「第6中隊は欠員が出た。生き残りと新入りをまとめ、30人の臨時班を作る。班長はお前だ。8741」
「……俺がですか」
「元王子なら人を使うのも得意だろう」
「王子だったころは、どちらかといえば使われる側でした」
監督官の目が細くなり、レオンは口を閉じた。
「指揮官になれると思うなよ。お前がするのは命令の伝達、作業と隊列の管理、人数の報告だ。班員が逃げても、仕事をしくじっても、お前から責任を問う」
「ガレスの方が適任では」
「軍籍を剥奪された元中佐に、帝国軍が役職を与えると思うか」
監督官は書類を閉じた。横のガレスは苦い顔もせず、「俺が補佐する。受けろ」と言う。
「断ればどうなりますか」
「別の奴を選ぶ。それだけだ」
誰になるかは分からない。何も考えず正規兵の命令を伝えるだけの人間が選ばれたら、岩場で起きたことが何度も繰り返されるかもしれない。そんな想像をしてしまうと、嫌だとは言えなかった。
「分かりました」
広場に出ると、集められた30人が待っていた。ガレスとミラのほかには、見覚えのある顔も知らない顔もいる。人間、獣人、ドワーフ、鬼人、魔族が入り交じり、武器の手入れも揃っていなかった。鎧の紐が切れている者がいれば、足を引きずっている者もいる。
レオンは列の前に立ち、唾を飲んだ。母を亡くした王宮で、兄たちの前へ呼び出されたときに似た緊張が走った。しかし今は、誰かを笑いものにするための集まりではない。少なくとも自分はそうしたくなかった。
「レオンです。今日から皆さんの班をまとめるよう言われました」
「番号は8741だろ」
前列の男が吐き捨てた。30歳を少し越えたくらいに見え、日に焼けた頬には濃い無精髭がある。短い赤茶色の髪は寝癖で跳ね、曲がった鼻筋の下に不機嫌そうな口があった。槍を肩に担ぎ、目元には古い傷が走っている。
「名前は?」
「4216だよ。覚えるならそっちを覚えろ」
「俺は番号で呼ばれるのがあまり好きじゃないんです」
「お前の好みなんか知らねえ」
「そうですよね。嫌なら無理には聞きません」
男が顔をしかめた。
「……ホバンだ。言ったからって懐いたと思うな」
「ありがとう、ホバン」
「礼を言うな」
横の誰かが笑い、ホバンが睨み返した。レオンの肩から、ほんの少し力が抜けた。
次に名乗ったのはドワーフの女だった。身長は140cmほどで、短く切った赤毛と太い前腕が目を引く。茶色い目を細めて「ネマ」と言い、腰の工具袋を叩いた。
「剣より金具を直す方が得意さ。文句があるなら別の奴を探しな」
「文句なんてありません。助かります」
「まだ何も直してないよ」
角のある魔族の青年は視線を逸らし、名前を言わなかった。レオンはそれ以上尋ねなかった。自分も生まれを詮索されるのは嫌だったからだ。
全員の名前を聞き終えると、次は使える武器と身体の状態を確認した。槍を握ったことのない者、指をうまく曲げられない者、靴底が剥がれている者までいた。
「全員、同じ訓練でいいですか」
レオンがガレスに尋ねると、すぐに首を振られた。
「その脚で走らせたらどうなる」
ガレスが指した男は、立っているだけでも右脚へ負担をかけないようにしている。
「悪化します」
「そうだ。武器を見る前に身体を見ろ。身体を見る前に、そいつが何をできるか聞け」
レオンは帳面へ書き足した。書いても書いても空欄が残る。30人をまとめると聞いたときは、列を整えて命令を伝えればよいと思っていた。だが皆それぞれ違う身体で、違う怖さを抱えている。
昼の訓練では、レオンが最初の失敗をした。盾を持つ兵士を並べ、槍を持つ兵士をその後ろへ置けば、王宮で習ったような陣形になると思ったのだ。ところが、盾の持ち手が逆についている者がおり、隣の兵士と肩がぶつかった。小柄なネマは前の盾に視界を遮られ、槍を低く構えれば味方の脚へ当たりそうになる。
「止めてください」
レオンが声をかけると、ホバンが槍の石突きを地面へ突き立てた。
「だから使えねえって言ったろ。俺らは正規兵みたいな装備じゃねえんだよ」
言い返せなかった。鎧も盾も、全員同じ規格ではない。装備を選ぶ自由すらないのに、同じ動きを求めた自分が間違っていた。
「ごめん。持っているものを見てから決め直す」
「謝って終わりか?」
「終わらせないよ。ネマ、その盾の金具は直せる?」
ネマが盾をひっくり返して調べた。
「釘が足りない。支給倉庫に古い金具があれば何とかなる」
「一緒に倉庫へ聞きに行こう。ホバンは槍を使う人たちの間合いを見てもらえる?」
「お前がやる仕事だろ」
「俺は、誰の槍が届くのかもまだ分からない」
ホバンは呆れた顔になった。それでも他の槍兵がこちらを見ると、「あの短い槍から替えろ」と口を出し始めた。
指示するつもりでいたのに、また教わってしまった。しかし相手の方が知っているなら、聞かずにいる方が危険だ。レオンは名簿の余白へ、新しく気づいたことを書き込んだ。
夕方になっても帳面は埋まらず、ガレスからは姿勢と歩調の確認を明日も続けると言われた。食堂へ着いたレオンは、薄い豆のスープを前に名前を小声で繰り返した。
「ホバン、ネマ、ガレス、ミラ……」
「何してるの」
向かいへ座ったミラが、耳を傾ける。
「忘れないようにしてる」
「番号の方が簡単だよ」
「それはそうなんだけど」
「でもあたしは、名前で呼ばれる方がいい」
レオンは顔を上げた。ミラは何でもないことのように黒パンをちぎっている。
「俺も、レオンの方がいい」
「じゃあいいじゃん」
彼女はパンをスープへ浸した。
「ねえ、明日はあたしを変な位置に置かないでよ。走れる場所がないと困る」
「分かった。どこがいい?」
「まず地図見せて。それから決める」
レオンは少し笑った。自分が配置を全部考えるより、ミラへ聞いた方が早い。
「頼りにしてる」
「そういうこと言うと、あとで高くつくからな」
ミラの尻尾が揺れた。レオンは黒パンを口へ運びながら、帳面にもう1つ書き込んだ。名前を知っただけで誰かの命を守れるわけではない。それでも、助けが必要なときに誰を呼べばよいか、少しずつ分かるようになりたかった。




