助ける順番
同じ鍋を囲んだ夜から5日後、次の出撃は鐘の音から始まった。
いつもの起床鐘ではない。短い音が何度も続き、兵舎の全員がほとんど同時に起き上がった。
「緊急招集だ」
ガレスがすでに長剣を腰へ差している。
「何が?」
「外へ出れば分かる」
広場には各中隊の奴隷兵が集められていた。正規兵の伝令が馬上から命令を読み上げる。
「北西農地に魔物の群れが侵入! 農夫及び周辺住民が取り残されている。第4、第5、第6中隊は直ちに救援へ向かえ!」
レオンは剣の柄を握った。
人を助けに行く。
その言葉に少しだけ安堵した自分がいた。
魔物を殺すためだけではない。今回は守るものがはっきりしている。
だが、ガレスの顔は険しかった。
「何かおかしいんですか」
「農地まで魔物が来たことだ」
「珍しい?」
「この時期はな」
城門が開く。
一行は北西へ走った。
農地までは街道を3kmほどだった。途中から煙が見えた。
麦畑の一部が燃えている。
農家が数軒並ぶ小さな集落の周囲を、黒い甲殻を持つ魔物が走り回っていた。狼ほどの大きさで、前脚が鎌のように長い。
「刈爪獣だ! 群れで来てる!」
誰かが叫ぶ。
刈爪獣と呼ばれているが、姿は昆虫と獣の中間に近い。レオンは本でしか見たことがなかった。
正規兵が隊列を組む。
奴隷兵には住民の救出と側面防御が命じられた。
「レオン、ミラと右へ行け」
ガレスが言う。
「何人連れて?」
「6人。俺は中央を見る」
「分かりました」
いつの間にか、自然に指示を受けている。
レオンは近くの奴隷兵へ声をかけた。
「俺と来てくれ!」
6人が動いた。
全員がレオンを信頼しているわけではない。ただガレスの指示だからついてきただけだ。
それでも、初めて自分の声で人を動かした感覚に喉が乾いた。
「家の裏に人の臭い」
ミラが言う。
「何人?」
「3、たぶん4」
「行こう」
刈爪獣を2匹避け、石造りの農家へ回り込む。
裏手には老人と女性、それに10歳にも満たない子供が2人いた。
「城まで逃げて!」
レオンが叫ぶ。
「動けない人がいるんです!」
女性が家を指す。
中へ入ると、梁の一部が落ち、男が脚を挟まれていた。
「持ち上げるぞ」
奴隷兵3人で梁を動かす。
重い。
ミラが外を警戒する。
男を引き出した瞬間、正面から悲鳴が上がった。
「レオン!」
ミラが叫ぶ。
外へ出る。
畑の向こうで別班が崩れていた。
刈爪獣が想定より多い。
負傷者が次々に運び込まれ、農道脇に簡易救護場所が作られていた。
リーネがそこにいる。
「こっちへ!」
男を運ぶ。
リーネは脚を診てすぐに別の者へ指示を出した。
「骨折です。命には関わりません。固定を先に」
その横では腹を深く切られた奴隷兵が血を流している。
さらに向こうでは肩を失ったように見える男が叫んでいた。
レオンの足が止まる。
「手伝えることは?」
「水を! あと歩ける人は負傷者を後ろへ運んでください!」
桶へ走る。
戻ってきたとき、別の奴隷兵が運び込まれた。
胸が大きく裂けている。
「リーネ!」
彼女は一目見て、別の負傷者へ向かった。
「そっちを先に!」
「でも、こっちは」
「今治している人を動かせません!」
「なら俺が」
何ができる。
治癒魔法は使えない。
布を押し当てるくらいしかできない。
男がレオンの腕を掴んだ。
「死にたく……」
言葉が途切れる。
「大丈夫」
反射的に言った。
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
そこへガレスが来た。
「レオン、動ける奴を集めろ。東側の住民を退避させる」
「この人は?」
ガレスは男を見た。
ほんの一瞬だった。
「置く」
「まだ生きてます」
「分かってる」
「リーネなら」
「リーネはあっちの3人を治してる。その3人を捨ててこいつにかかれば、助かる保証はあるのか?」
答えられない。
「でも」
「今、東に20人以上いる。刈爪獣が回り込んでる。ここで4人使って重傷者1人を運ぶか、その4人で20人を逃がすか選べ」
言葉が冷たく突き刺さった。
あのときのミラが浮かぶ。
あのときは助けた。
見捨てなかった。
では今、目の前の男を見捨てるのか。
自分は何がしたい。
「レオン」
ガレスの声が低くなる。
「時間がない」
胸が苦しい。
男の手がまだ腕を掴んでいる。
「……ごめんなさい」
声が震えた。
その手をゆっくり外す。
「行きます」
ガレスは何も言わなかった。
東側へ走る。
民家の間から住民を集め、動ける奴隷兵を左右に置く。
「子供と老人を中央へ! 走れる人は後ろを見て!」
自分の声が聞こえる。
頭の中では、さっきの男の顔が消えない。
それでも止まれない。
ミラが先行し、刈爪獣の位置を知らせる。
「右から2!」
「盾、右!」
声を上げる。
奴隷兵が動く。
1匹が盾へぶつかり、別の1匹を槍が止める。
「そのまま下がって!」
住民を街道へ出す。
後方には正規兵が防衛線を作っていた。
20人。
22人。
最後の家から母親と幼児が出てきた。
全員が防衛線を越える。
「終わった」
誰かが言った。
終わっていない。
救護所へ戻る。
胸を裂かれた男がいた場所を見る。
布が顔までかけられていた。
レオンは立ち尽くした。間に合わなかった。
いや、違う。間に合わせなかった。
「見るなとは言わない」
ガレスが横に立った。
「忘れるな」
「俺が残ってたら」
「死んだかもしれん」
「助かったかもしれない」
「そうだな」
否定してほしかった。
正しい判断だったと言ってほしかった。
ガレスは言わない。
「指揮ってのは、正解を選ぶ仕事じゃない」
「じゃあ何なんです」
「間違ってるかもしれない中から、今選ぶ仕事だ」
レオンは唇を噛んだ。
「俺には向いてない」
「向いてる奴なんているのか」
「あなたは平気そうです」
「平気に見えるなら、俺の演技が上手いだけだ」
ガレスは死体を見た。
「慣れていいことと、慣れなきゃいけないことは違う」
その後の戦闘はほとんど覚えていない。
夕方には魔物が討伐され、残存個体も北へ逃げた。
要塞へ戻ったあと、レオンは食堂へ行かなかった。
空腹なのに食べる気になれなかった。
兵舎裏の石段に座る。
空は暗くなり始めている。
左腕の隷属環が冷たい。
自分は何をしているのだろう。
人を助けたいと思った。
そのくせ人を置いてきた。
あの男には家族がいたかもしれない。
自分の判断で、その人間は戻らない。
「ここにいた」
ミラの声がした。隣へ座る。手には黒パンが2つある。
1つを差し出された。
「いらない」
「食え」
「腹減ってない」
「嘘。さっき鳴ってた」
「聞こえたの?」
「狼獣人なめんな」
無理やり手へ押し込まれる。
レオンはパンを見た。
「俺、1人見捨てた」
「知ってる」
「助けられたかもしれない」
「かもな」
「俺がもっと強かったら」
「何人助けた?」
「え?」
「東の人」
「22人」
「じゃあ、22人は助けた」
「だから1人は仕方ないって?」
「言ってない」
ミラは前を向いたままだった。
「間違ってたと思う?」
問われて、すぐには答えられない。
「分からない」
「じゃあ次も考えればいい」
あまりにも単純な言い方だった。
「それだけ?」
「それ以外どうすんの。死んだ奴は戻らないし、あんたが飯食わずに倒れてもそいつ喜ばないだろ」
「知らないよ」
「じゃあなおさら食え」
レオンはパンを1口かじった。
味がしなかった。
それでも噛んだ。
ミラが隣にいる。
何も慰めない。
自分は正しいとも言わない。
それがありがたかった。
そのとき、視界の左端に淡い光が浮かんだ。
前にも見た。
ミラを治療所へ運んだ日だ。
今度は消えなかった。
レオンは瞬きをする。
文字が並ぶ。
《対象:ミラ・ファング》
《種族:狼獣人》
《年齢:18》
《信頼度:47》
息が止まった。
「どうした?」
ミラがこちらを見る。
「いや……」
文字は彼女の近くに浮かんでいるように見える。
目を閉じても消えず、意識を外すと薄れる。
信頼度。
47。
何の数字だ。
レオンの胸が速くなる。
《テイマー》。
まさか。
しかしミラは魔物ではない。
獣人だ。
知性があり、言葉を話し、自分で考えている。
そもそも人を対象とするテイマーなど聞いたことがない。
「本当に何?」
「疲れてるみたい」
嘘をついた。
まだ話すべきではないと思った。
自分にも何が起きたか分かっていない。
それに、信頼というものが数値になって見えたことが、ひどく気味悪かった。
ミラは、魔物でも道具でもない。
少なくともレオンにとってはそうだった。
数字を上げるために優しくするなど、絶対にしたくない。
「レオン」
「何?」
「パン」
手を見る。
考え込んでいる間に握りつぶしかけていた。
「……ごめん」
「パンに謝るなよ」
ミラが呆れたように笑う。
レオンも少しだけ笑った。
視界の数字はまだ47のままだった。
でも今は、それでいいと思った。
信頼されたいから何かをするのではなく、自分がしたいと思うことをして、その結果として信頼されるなら受け取ればいい。
それが何につながるのかは、まだ分からなかった。




