同じ鍋
次の出撃まで4日空いた。
最初の2日は雨だった。
灰の辺境に降る雨は細く冷たく、朝から夕方まで止まなかった。訓練場は泥になり、ガレスの剣術訓練も兵舎脇の屋根付き通路へ移された。
雨だから休みになるという発想は、辺境にはないらしい。
「足を止めるな」
木剣が飛んでくる。
レオンは受けた。
手首が痺れる。
「受けるだけじゃ死ぬぞ」
「これでも必死です」
「敵は待ってくれん」
次の一撃が肩へ来る。
避けようとして足を滑らせ、尻から落ちた。
見ていた奴隷兵たちが笑った。
「床が悪いです」
「昨日は剣が悪いって言ってたな」
「明日はガレスが悪いと言います」
「今日言え」
木剣の先で頭を小突かれた。
訓練が終わると、ミラが壁にもたれて待っていた。
左脚の包帯は外れている。
「もう治った?」
「大体。リーネが明日から普通に動いていいって」
「よかった」
「何であんたがそんな顔するんだよ」
「俺が背負った意味があったから」
ミラが少し黙り、それから視線を逸らした。
「勝手に背負ったくせに」
「それはそう」
最近はこの程度の会話なら普通にできるようになっていた。
雨の3日目、レオンは倉庫作業へ回された。
食料袋を運び、古い装備を仕分ける仕事だった。
王宮にいたころなら、重い袋を持つこと自体ほとんどなかった。今では肩に小麦袋を担いでも驚かなくなったが、身体が慣れたわけではない。
「遅い」
先に2袋運び終えたミラが言う。
「種族差を考慮してほしい」
「言い訳?」
「事実」
「人間って弱いな」
「鬼人と比べないでくれれば、そこまででもないと思う」
倉庫の反対側では、身長2mを超える鬼人の男が、レオンたちが2人がかりで運ぶ箱を1人で持ち上げていた。
「あれと比べたら、あたしも弱い」
「安心した」
仕事を終えると、ミラが城壁近くの露店へ寄った。
奴隷兵にもわずかな軍票が支給される。現金ではなく、要塞内部だけで使用できる紙片のようなものだ。
レオンも少額を持っていた。
ミラが干した果実を1袋買う。
「甘いもの好きなんだ」
「悪い?」
「いや。肉しか食べないと思ってた」
「狼獣人を何だと思ってる」
「狼寄りなのか、人寄りなのか、まだ分からなくて」
「両方だよ」
当たり前のように言われた。
レオンは少し考える。
「耳は人間より聞こえる?」
「かなり」
「匂いは?」
「かなり」
「暗いところは?」
「人間より見える」
「便利だね」
「その代わり臭いところは最悪」
ミラが鼻をしかめ、近くの排水溝を指した。
「あと大きい音もうるさい」
「いいことだけじゃないのか」
「何でもそうだろ」
その言葉に納得した。
王宮では獣人について、身体能力に優れた種族とだけ習った。教本には能力の利点が書かれていても、鋭い嗅覚で排水溝の臭いまで強く感じるとは書かれていなかった。
知識として知ることと、隣で暮らすことは違うらしい。
その日の夜、ガレスから地図の読み方を教わった。
机などないため、寝台の間の床に羊皮紙を広げる。
「これが要塞」
ガレスが指す。
「北東街道がこっち。昨日行った廃村はここだ」
「思っていたより近い」
「歩くと遠く感じるだけだ」
「この線は?」
「旧水路。今は半分埋まってる」
「何でこんなことを俺に?」
以前から疑問だった。
ガレスは元帝国軍中佐だ。
剣も教える。
地図も教える。
誰かを育てる義務などない。
「暇だから」
「嘘ですよね」
「半分は本当だ」
「残り半分は?」
ガレスは地図を見たまま答えた。
「お前は人に命令したがらない」
「悪いことですか」
「兵士ならな。指揮官なら悪い」
「俺は指揮官じゃない」
「今はな」
レオンは眉を寄せた。
「何を言いたいんです」
「この前の林で、お前は3人を助けるために何人か動かした。あれを何度もやってりゃ、周りはお前の判断を待つようになる」
「ガレスがやればいい」
「俺はいつ死ぬか分からん」
「縁起でもない」
「ここは灰の辺境だ。明日死ぬ奴が、今日のうちに知ってることを渡す。それだけだ」
返す言葉がなかった。
レオンは地図へ目を落とした。
死ぬ。
ここへ来てから何度も聞いた言葉なのに、ガレスが自分について言うと嫌だった。
この男にいつの間にか死んでほしくないと思うようになっている自分に気づいた。
「死なないでください」
「努力する」
以前自分がミラに言った返事と同じだった。
レオンは苦笑した。
4日目の夕方には雨が上がった。
その日の食事当番が大鍋を焦がした。
原因は薪を入れすぎたことらしい。
兵舎には焦げた豆と肉の臭いが充満し、鍋を覗いた全員が黙った。
「食える」
ガレスが言った。
「本当に?」
リーネが木椀の中を慎重に見ている。
「毒じゃない」
「食べ物かどうかを聞いているんです」
「食えば分かる」
「それは食べ物に使う言葉です」
レオンは思わず笑った。
治療所で見るリーネは真剣そのものだが、兵舎では意外によく喋る。
4人で同じ鍋を囲むことになった。
ミラが1口食べて顔をしかめる。
「焦げてる」
「見れば分かる」
ガレスが平然と食べる。
「昔の軍よりましだ」
「帝国軍って何食べてたんです?」
「聞かない方が飯が美味い」
「今でも十分まずいです」
リーネが言い、ミラが吹き出した。
レオンも笑った。
笑いながら、不意に妙な感覚に襲われた。
目の前には元帝国軍人、狼獣人、元神官がいる。
身分も生まれた国も違う。
王宮なら同じ卓へ座ることすらなかったかもしれない。
それなのに同じ鍋の焦げたスープを食べている。
「何?」
ミラに見られた。
「いや」
「急に黙った」
「こういう食べ方したことないなって」
「鍋が焦げたこと?」
「それもだけど、同じ鍋からみんなで食べること」
リーネが首を傾げた。
「王族はしないんですか」
「宴会はあるけど、席も料理も全部決まってた。誰と食べるかも」
「面倒くさ」
ミラが言った。
「俺も今そう思う」
「じゃあ奴隷の方がいい?」
答えに困った。
自由がない。
命令され、戦場へ送られ、腕には隷属環がある。
いいはずがない。
「それは違う」
レオンは答えた。
「でも、こっちに来て初めて知ったことは多い」
「洗濯とか?」
「それも」
また笑われた。
食事が半分ほど進んだころ、ミラが干し果実の袋を出した。
昼に買っていたものだ。
1つ口へ放り込み、少し迷ってから袋を卓の中央へ置く。
「食べる?」
レオンは驚いた。
「いいの?」
「1人で食べるよりまし」
ガレスは遠慮なく取った。
リーネも礼を言って1つ取る。
レオンも手を伸ばした。
甘かった。
焦げたスープの後だから、余計に甘く感じる。
「故郷にもこれあった?」
レオンが聞く。
ミラの手が止まった。
聞いてはいけないことだったかと思ったが、彼女は少しして頷いた。
「似たのが」
「ガルディア?」
「国境の近く。小さい集落」
「家族は?」
ミラの狼耳がわずかに伏せた。
「分からない」
空気が変わった。
ガレスもリーネも口を挟まない。
ミラは干し果実を指で転がしながら続けた。
「3年前に奴隷狩りが来た。人間だった。集落の外で狩りしてたときに捕まって、そのまま帝国側へ売られた」
レオンは何を言えばいいか分からなかった。
「……大変だったね」
口から出た瞬間、違うと思った。
案の定、ミラの目が冷たくなる。
「分かったみたいに言うな」
胸が痛んだ。
反射的に言い訳しそうになり、やめた。
自分は家族を失った。
いじめられた。
人質になった。
だからミラの苦しみも分かると言いたくなった。
でも違う。
奴隷狩りに連れ去られたことはない。
故郷から鎖で運ばれ、売買された経験もない。
「ごめん」
レオンは言った。
「分からない」
ミラが少し目を見開く。
「分かったふりした」
「……普通、そこで自分も辛かったとか言わない?」
「言おうとした」
「したのかよ」
「でも、やめた」
ミラの口元がわずかに緩んだ。
「変な奴」
「最近よく言われる」
「家族は?」
今度はミラから聞かれた。
レオンは少し考える。
「母は死んだ。父と兄たちは……いる」
「仲悪い?」
「かなり」
「仲の良かった妹が1人だけいる」
それを口にするとセレスティアの顔が浮かんだ。
「仲いいんだ」
「たぶん」
「たぶん?」
「今もそう思ってくれてるか分からないから」
「何で」
「2年会ってない」
ミラはそれ以上聞かなかった。
焦げた鍋が空になるころ、外では夜の鐘が鳴った。
寝台へ戻る途中、ミラが隣を歩いた。
「さっきの」
「何?」
「あたしの話」
「うん」
「他の奴に言うなよ」
「言わない」
「絶対?」
「絶対」
今度は迷わず答えた。
セレスティアとの約束のような、未来を保証する言葉ではない。
自分が守ると決めれば守れる約束だった。
ミラは小さく頷いて離れていった。
レオンはその背中を見送りながら、信頼というものについて初めて考えた。
誰かを助けたから手に入るものではない。
同じ飯を食べ、失敗を見られ、相手の話を聞き、自分の話も少しずつ渡していく。
もしかすると、そういう何でもない時間の中で作られるものなのかもしれない。




