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奴隷少女は月を見上げる

 病気で死んだお母さんが言っていた。


 ――世界には空飛ぶ国や、黄金に輝き腹いっぱいに食べられる畑がある。


 稼ぎに出て、そのまま帰ってこなかったお父さんが言っていた。


 ――それだけじゃなくて、世界は広いからなんでもある。例えば、ティアラの好きな本に出てくる月に手が届くぐらい高い塔もある。


 そんな、数々の話を聞いて、私はいつか行ってみたいと思った。

 重い首輪を取り、狭い牢から出て、たくさんの景色を見に行きたい。

 私は、ひんやりと固い床に座り、牢から見える、遠くに浮かぶ月に手を伸ばした。

 いつか絶対、見に行くんだ。

  

 いつか絶対。

 

 いつか。

 

 ……。


 ☾ ☾ ☾ ☾


「起きろ。朝だ」


 低く、冷たい声に目を開く。

 まだ空が薄暗く、太陽が見えない時間に起こされる。

 牢の中には、味のない固いパンとコップ一杯の水が置かれていた。

 この屋敷の警備兵が私を起こし、置いて行ったのだ。

 そうして、思う。


 今日も変わらない日常が始まる……。


 奴隷になって、十年。私は十八になった。

 ここから出て、旅をする夢なんて諦めた。

 コップの水に反射する私はもう、夢に希望を持っていた私じゃない。

 固いパンを水で濡らし柔らかくしてから、食べて、水を飲む。

 残った冷たい水で、顔を濡らし、雑巾のように汚れた服で顔を拭う。

 立ち上がり、鍵が外れた牢を出て、いつもの労働場所に向かった。

 

 外に出ると、太陽が顔を出していて、目を細めた。

 井戸の近くに置いてある桶にいっぱいの水を汲み、運ぶ。

 今日も洗濯を手洗いし、オルランド邸の窓を拭く一日だ。

 重い桶を地面に置き、山積みになった洗濯を一つ一つ手洗いしていく。

 太陽が徐々に登っていき、明るくなってくると、屋敷から使用人が二人出てきた。


「はい、これもよろしくね」


 使用人は、布団のシーツを山積みの洗濯の上に乗せて、後ろで会話を始めた。

 二人とも、洗濯の手洗いが終わるのを待っているのだ。

 操り人形のように、ただ黙々と手を動かす。

 疲れも、痛みも、もう感じない。慣れた。

 すべての洗濯の手洗いが終わった頃には、時間はもう昼近く。

 私は、使用人二人に近づき、終わったことを伝える。


「手洗いが終わりました」


 ぴたりと話し声が止まり、使用人はこっちを見た。


「立ちすぎて、足が痺れてしまったわ。もう少し早く終わらせられないの?」


「すみません。次は早く終わらせます」


 最初は理不尽だと思った使用人の言葉も、今は特になにも感じない。

 桶を持ち、その場を後にして、井戸に向かう。

 さっきよりも少なめに、桶に水を入れて、零さないように運んで、屋敷の中に入る。

 物置から雑巾を取り、窓ふきを始めた。

 窓の向こうには、カリオッドの街が見える。


 黒い煙が漂う、この街は武器の街と言われていて、職人が集まりたくさんの武器を作り、商売している。

 特にこの街では、マスケット銃という武器をたくさん作っている。

 マスケット銃は、鉄の鎧も貫通するほどの威力を発揮する武器らしい。

 遠くに見える山から、素材を集めて作っているということを、使用人の会話から聞いたことがある。

 なんのためにそんな武器を作っているのかわからない。過去の戦争はとっくに終わっているのに。


 窓を拭きながらふと思い出す。

 小さい頃は、窓の向こうの景色を見て想像を膨らませていた気がする。

 山の向こうには、広大なお花畑があるとか、山の上にはきらきら光る宝があるとか。

 でも今は、窓に映るのは、虚ろな目をした自分だけ。

 屋敷の窓を半分、拭き終わる頃には、窓の向こうは茜色に染まり、一日がほとんど終わる。

 雑巾を絞り、物置に干して、桶の水を庭にばら撒き、私は牢に戻った。


 明日の窓ふきは、今日の続きからだ……。

 しばらくすると、無言で警備兵が固いパンと水を置いて、牢の鍵を閉める。

 朝と同じようにそれを食べ、私は壁に寄りかかるように座り、膝に顔を埋めた。

 静かで冷たい牢の中で、ぽつぽつと涙を流した。

 慣れたはずなのに、悲しくなんてないはずなのに、なぜだか、涙は流れるのだ。

 私はそのまま、まどろみの中に落ちていくように、意識から手を放した。


 ☾ ☾ ☾ ☾


「おい、起きろ」


 次に目を覚ましたのは、まだ、静かな夜の時間だ。


 あぁ、もうこんな時間か……。

 私を機嫌よく起こしたのは、この屋敷、オルランド邸の主であり伯爵、オルランド・ルイス様だ。


 細身の体は、ただ細いというより、筋肉がしっかりと引き締まっている印象がある。腰にはこの街で作られたであろう金色に塗装された小型の銃をぶら下げ、手には鞭を持っていた。

 金髪に整った髪に、刺すような赤い瞳、そして歪んだ笑みを浮かべているルイス様。


 牢の鍵が開けられ、ルイス様が入ってくる。

 見下すような視線を私に向けて、言った。


「立てティアラ、今日も、楽しい楽しい拷問の時間だ」


「はい……」


 抵抗する気も、逃げる気もないのに、首輪に鎖を繋げられ、命令通り、牢の真ん中で立った。


 ルイス様は大きく腕を上げて、鞭を振り下ろす。

 ぺちんと音が響いた。

 その一回を皮切りに、何度も何度も鞭で叩かれる。


 昔は、泣き叫んでいた記憶がある。


「痛いか? 苦しいか? 反撃したいと思わないのか?」


 からかうように、歪んだ笑みを浮かべた。


 痛みはない、苦しくもない。

 私はルイス様に答えず、無言でたたずんだ。

 そんな姿が気に食わなかったのか、鞭を振る速さが上がった。


 私を買ったルイス様は、このカリオッドという街の領主でもあり、過去に獣人族との戦いで、兵を率いて獣人相手に互角で戦い勝利したという話もある。


 そんな権力と力を持つ、ルイス様の鞭は、いつも体にたくさんの傷跡を残す。

 終わり際、いつもルイス様は回復魔法をかけてくれるので、傷は治るけど跡は残る。だから、私の体には痣がたくさんある。


 口の中が切れて血の味がした。

 ルイス様はそれでも、止めることなく鞭を何度も振り下ろしてくる。

 そうして、しばらくすると疲れたのか、振り続けた鞭を止めた。


「くそ……」


 首輪に繋げられた鎖が解かれる。

 今日は、普段より早めに寝れる。

 そんなことを考えていると、ルイス様が刺すような赤い眼光をこちらに向けてきた。


「くっそ!」


 怒りをぶつけるように、ルイス様は私の腹部を拳で思いっきり殴ってきた。

 その拳の勢いに押され、すぐ後ろの壁に背中をつけて座り込む。


「げほっ、げほっ……」


 腹の底から、上がってきたなにかをその場で吐き出し、倒れた。


「これじゃダメだ、やり方を変えないと……」


 ぼそぼそと呟く声がどんどん遠のいていく。

 気絶するように、そのまま目を閉じた。

 私は、小さな檻の中で、広い世界を夢見ることしかできない、一生を過ごすのだろう。

 ――月が遠い……。


 ☾ ☾ ☾ ☾


 深いまどろみの中に、落ちていく。

 このまま、暗闇の中で生き続けて死ぬのだろうと思った。


 その時、強い光に包まれ、気づくといつもの牢の中でポツンと座っていた。


 いつもの夢だ……。

 月が見える小さな鉄格子から、同い年ぐらいの男の子が顔を出していた。


「僕、いつかこの世界を旅したいな!」


「私も、黄金畑とか空を飛んでる国とか見てみたいし、行ってみたいな……」


「僕も、ドラゴンとか見たり、この世に一本しかない伝説の剣を見てみたい!」


「いいね、それ……でも私、ここから一生出られないかもしれないから……」


「大丈夫! 今は無理だけど、いつか絶対、ここから連れ出して見せるよ!」


「本当!」


「本当だよ! 約束な!」


 鉄格子の隙間から男の子は手を伸ばす。


「うん!」


 私は頷きながら、その手を掴もうと手を伸ばした。


「絶対、行こう!」


 ☾ ☾ ☾ ☾


 伸ばした手の中は、空っぽだった。


「起きろ。朝だ」


 男の子の声が頭の中で何度も反響する中、警備兵の冷たい声でぴたりと静かになる。

 目を覚ますと、いつも通り静かで冷たい牢の光景があった。


 夢を見ていた。

 いつかの夜、毎晩のように話していた男の子と約束した夢。

 どこから侵入してきたかわからないその男の子は、一日を過ごすのに必死だったあの頃の私にとって、夜に輝く月のような希望だった。

 もうどんな話をしていたか、覚えてないけど、唯一、約束をしたことだけ今も覚えている。

 そんな約束が、守られることはないとわかっていても、今も忘れられない。

 その後、男の子は警備兵に見つかって、それをきっかけに、小さな鉄格子から顔を出すことはなくなってしまった。


 ――僕の名前は……。


 名前も、もう思い出せない。

 ただ、月のように輝く笑顔と、弾むように聞こえる声だけが記憶に残っていた。

 これも、そのうち忘れてしまうのだろう。


 夢の私じゃなく、今の私なら男の子の約束に素直に頷けるのだろうか。

 起き上がり、今日も色のない日常に溶けていく。


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