奴隷少女は月に手を伸ばす
洗濯物を手洗いし、屋敷の窓を拭きをやって、今日が終わった。
暗い牢の中で、固いパンを食べてから、月の光から目を逸らすように瞼を閉じた。
また、涙が冷たい牢屋の地面を濡らした。
「起きて……ティアラ!」
囁くような声が聞こえてきた。
警備兵の声でも、ルイス様の声でもない。
若く、温かさを感じる優しい声。誰だろう……?
瞼をゆっくり開いた。すると、見たこともない男の顔が目の前にあって、驚くよりも、誰という疑問が頭に浮かんだ。
私の名前を知っているということは、私も知っている人? でもこんな人、私あったことがない……。
とんがり帽子を被り、白いマントを身に着けて、エメラルドのような緑の瞳の男……わからない。
私は、首を傾げて尋ねた。
「誰ですか……?」
「え、覚えてない……?」
私が頷くと男は背を向けて、ぶつぶつと呟く。
「それはそうか、だってもう十年近く経ってるし……仕方がないか……」
この男の人はどうやって、牢の中に入ってきたのだろうか。
牢の鍵は開いていて、いつも私を閉じ込める錠はなぜか、地面に落ちている。壊されたのだろうか……。
状況が飲み込めず、私は固まってしまう。
頭を掻きむしり、男は振り向き手を差し出した。
「そんなことより、行こう! ティアラ、世界を見に!」
この男の人はまるで、夢に見る男の子のようなことを言う。
男の手に無意識に私の手が動いた。
それに気づいて、すぐに私は手の動きを止める。
「……わからない」
私は……。
「なにがわからないの?」
優しい声で、聞き返してくる。
私は無言でなにも返せない。
脳裏でルイス様の歪んだ顔が浮かび上がってくる。
自分の掌を見ると、震えているのがわかった。ここから、出られるというのに、私はなぜか、怯えている。
その理由がわからなかった。頭の中を黒い渦のようなものが、ぐるぐる回る。
「わからないよ……」
柔らかい表情をして、男が覗き込んできた。
「どうしたの?」
「動けないです……体が固まって……」
「なら、僕が連れて行ってあげるよ!」
「ダメなんです」
男の手をぺちんと弾いた。
「どうして?」
「わからないです……」
過去の私なら、この手を迷わずに取っていただろう。
でも、今はどうすればいいかわからない。
私は、どうしたい……?
「誰か来る」
なにかに反応するように、男の顔色が一変する。
男が反応して、数秒後、足音が近づいてきた。
もう、そんな時間か。
すると、男がいきなり私の手を掴んできた。
「一旦、こっち来て」
「え……」
そのまま、手を引かれて牢を飛び出した。
「誰だ!」
背中から、ルイス様の声が響いた。
「やば、見つかった」
ルイス様がいる方向とは逆に走り出したが、すぐに行き止まりで足を止めた。
「本当にまずいぞ……」
「おい、そこのお前、私のティアラをどこに連れて行こうとしてる」
警備兵を後ろに従えて、刺すような赤い目が、男を威圧する。
その目に、私も震えが止まらない。
すると、ルイス様の方に振り向き、男はからっと笑う。
「そうですね。僕はティアラとの約束を守りに来ただけですよ」
「約束とはなんだね」
「僕は、ティアラをいつかここから連れ出してあげるって約束したんだよ!」
はっと、頭の中で一つの記憶がよみがえった。
この男の人、もしかしてあの時の……。
ゆっくり、男の方を見上げた。
今まで、月の光で顔がまではっきりと見えなくて、ぼんやりとしか覚えてないけど、そうなんだ……。
本当に約束を……。
なんとも言えない感情が、冷えた心を温めていく。
「ティアラ、お前は行きたいと思わないよな」
ルイス様の脅迫のような言葉に心がすぐに冷やされる。
「でも……」
「なんだ? お前はそいつと行きたいと言うのか?」
「言いません……」
あの目に見下ろされると、どうしても逆らうことができなくなってしまう。
「ティアラがこっちに来い」
「はい……」
男から掴まれた手を振りほどき、ルイス様の方にゆっくり向かう。
私が歩きだすと同時に、警備兵が男の方に腰の剣の柄に手をかけ、構えた。
「ティアラ、約束しただろ! 一緒に旅しようって!」
男の必死な叫び声にも振り向かず、ルイス様の方に進む。
「そうだ、偉いぞティアラ」
世界に色彩が消えていく。
こうして明日も、なにもない日常に戻って行くのだ。
「君は、ここから出たいと思わないのか!」
私は……。
「こんなところで、一生を過ごしたいと思っているのか!」
私は。
「ティアラ! 君はこの世界をもっと見たいと思わないのか!」
私は!
「黙れ!」
ルイス様の声で、私はまた我に返る。
ダメだ。やっぱり、怖い。逆らうのが怖い。
ルイス様の前に立つと、腕を体に回されて動けなくなる。
「こいつは、私の所有物だ。誰にも渡さない。そうだよなティアラ」
「そうです……」
「ティアラは一生をここで、過ごすんだ。この子はもう絶望で私に逆らうことなんて、できないだろうな。はははは!」
蔦が体を絡めるように、声が纏わりつく。
「警備兵、そいつをやってしまえ」
その声に合わせて、警備兵が鞘から剣を抜き、男に向かって振るう。
男は鋭く目を細め、こっちを睨みながら、手を前に構えた。
剣を振るう一瞬の刹那、男の手から丸い光の円が浮かび、そこから、赤い炎が警備兵に向かって飛んだ。
爆発音が響き、警備兵が吹き飛ぶ。
あれは、もしかして魔法……。
お父さんが使っていたから、私も詳しくないけど、知っている。
ルイス様は、それを見て、赤い目を光らせた。
「その身なりからまさかと思ったが、この時代にお前、魔法使いだったか」
「そうだ。僕は魔法使いだ!」
男は、ルイス様を睨み返す。
「まあいい。結局、お前は時代遅れの魔法使いってことだ。今の技術にお前は勝てない」
その時、がたっと音が響く。
吹き飛んだはずの兵が無言で立ち上がったのだ。
まるで、剣を握りさっきと同じように警備兵は構える。
さっきから思ってたけど、息をしてない……。剣を振る時も、爆発に飛ばされる時も、声が聞こえない。
まるで、操り人形だ。
男は、近寄ってくる警備兵に同じ魔法を何度も繰り出すが、立ち上がる。
しばらく同じような光景が続き、男が少しの疲れが見え始めた。
「はあ……はあ……こいつら、何度立ち上がるんだ」
「そろそろ、飽きたな」
そうルイス様が呟いた時だった。
パンっと乾いた音が響く。
ルイス様を見ると、構えた銃の先から、煙が出ていた。
「お前……」
男の頬から、血が流れる。
どうやら、ルイス様が撃った弾は男の頬を掠めたようだ。
一人の警備兵が男に近づき、剣を振り下ろす。
それに気づき、後ろに飛ぶように避ける。
銃に弾を込めて、また男に向けた。
「次、動いたら頭を撃ちぬくぞ」
「当たらなきゃ、意味ないだろ」
「ふん、魔法より銃の方が撃つのが早いから、魔法使いが減っていったのを知らないのかな?」
男が言葉を返す前に、警備兵が動き、魔法使いの男はピクリと反応する。
「だから、動いたら、撃つぞと言っているだろ?」
魔法を撃とうとしていた男の動きが止まった。
近づく警備兵の拳を思いっきり男は受ける。
なんで、剣で刺さないのか疑問に思うが、すぐに答えが出た。
ルイス様のなんらかの力で、警備兵が操られているなら、これはルイス様が楽しむためにやっているのだ。
そうして、男は囲む警備兵の蹴りや拳を受け続け倒れた。
警備兵の動きがぴたりと、止まる。
魔法使いの男は倒れたまま、笑うルイス様を睨む。
「お前、人じゃないだろ……」
「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味だよ」
「ほう……」
歪んだ笑みを浮かべ、男を見下す。
「最後に聞いてやろう。なんのために、こんな小汚い奴隷と旅をしたいと思うんだね、君は」
「夢だ!」
はっきりと男は叫ぶと、なぜだか私の胸が高鳴る。
「僕の一つ目の夢が、ティアラと旅することなんだ」
この人は諦めてないんだ。こんなにぼろぼろになっても、夢を掴もうとしてる。
「ふははは! 結局、夢は夢で終わるんだ」
高々としたルイス様の嘲笑が響いた。
私は、諦めてた。どうせ、一生をここで過ごすんだと、夢から目をそむけていた。
拷問のような日々に体が慣れ、夢に手を伸ばすことにすら、怯え、私はいざという時の希望の光から、目を背けて、夢は夢だと思い込み、身も心も奴隷になっていたのかもしれない。
だから、わからなかった。どうすればいいのか、あの手にどう答えればいいのか、わからなかった。
けど、答えは簡単だった。
私は、また夢に手を伸ばせるかもしれない。
小さな鉄格子から伸びる光の方に視線を向けると、まん丸の月が浮かんでいた。
――世界には空飛ぶ国や、黄金に輝き腹いっぱいに食べられる畑がある。
「私……」
――それだけじゃなくて、世界は広いからなんでもある。
「私は……」
――例えば、ティアラの好きな本に出てくる月に手が届くぐらい高い塔もある。
胸の奥が熱くなっていく。
ルイス様の嘲笑の声が、私の前に立ち手を伸ばしてくれる男の存在によって、掻き消してくれる。
そうだ。私の夢は……。
伸ばした手の先には、光があった。
「旅したい!」
こみ上げてくる熱が、今まで喉から出なかった言葉が、気づいたら涙と一緒に自然と口から出ていた。
「私も、世界を見に行きたい!」
その時だった。
視界の中が白い光で輝き、私を包んだ。
「なんだ、この光。まさか……」
驚きながら、ルイス様は腕で光を遮り、魔法使いの男は、目を細めた。
その反応を見て、ようやく光が私から出ていることに気づく。
なにこれ……。
不思議と私は眩しくない。
掌の光をただ、呆然と見ているとだんだん光が弱くなっていくのがわかった。
「くそ……」
目を押さえたくなるぐらいの眩しさだったのだろう。ルイス様が私から腕を離し、目をこする。
さらに、操られ動き続けた兵たちが一斉に倒れた。
その一瞬の隙に、床に倒れていた魔法使いの男がふらふらと立ち上がった。
両足から二つの円が輝き、男が飛び跳ねると炎が噴き出る。
そうして、男は足から出る炎の勢いを使い警備兵の頭の上を通り、真っ直ぐ飛んできた。
ルイス様は遅れて、それに気づき銃を向けた。
「ただの魔法使いが、私に勝てるわけ……」
ルイス様は、引き金を引く。
また、乾いた音が響くが、次は掠めることもなく、簡単に避けられ、天井に跡をつける。
男は、手から円を光らせ、ルイス様を睨んだ。
「これは……!」
拳を固く握り、男は勢いのままルイス様の顔に一撃を入れる。
ルイス様は、拳を前に目を見開いた。
「――ティアラが受けた絶望の分だ!」
「うがっ!」
魔法使いの男は拳を振りぬき、ルイス様は堪えることなく後ろに転がっていく。
その瞬間、私の心が熱く燃えるような気持ちになる。
「ふう、これだけじゃ足りないだろうけど、一旦いいや」
「ありがとう……」
ぽろぽろと流れる涙が止まらない。
「泣いちゃだめだよ。これからが、楽しいんだから!」
私の涙を男は指で拭い、優しく微笑む。
「うん……」
そうして、魔法使いの男は私の方に手を出す。
「行こう!」
涙を拭って、まだかすかな光が残る手をそっと男の掌に乗せる。
「うん!」
そして、男に引っ張られるように走り出した。
重い首輪の重みが感じないぐらいに、体が弾むように軽い。
ルイス様の横を通り抜けると、掠れた声が響いてくる。
「待て! そ、それは、私の物だ……」
そんな声にも振り向かず、私は外に出た。
☾ ☾ ☾ ☾
冷たい風が肌を冷やすが、手から感じる確かな温かさがそれを感じさせない。
「これから、飛ぶからしっかり捕まって!」
「わかりました」
がばっと抱き着くように男にしがみつく。
ほんの少し頬を染めた後、咳払いをして、笑う。
「ゴホン……よし、行こうか」
言った後、さっきと同じように足から炎を吹き出し、月に向かって飛び上がる。
強い風が私の青い髪を流し、口の中にたくさんの空気が入り込んでくる。
その中で思い出したように、口を開く。
「あの、あなたの名前って」
この人が、過去に約束した人なのは思い出した。
名前も多分、頭の中にあるものであってると思う。
でも、間違って呼びたくないから、あの時と同じように聞いた。
「僕の名前は!」
あの時と同じ、夜に輝く月のような笑顔で答えた。
「――ルークだよ!」
遠くに思えていた月が、今日は近くに感じる。
私は月に手を伸ばした。
今日は、掴めそうな気がする。




