彼女のいない部屋
気まずい空気の流れる朝食が終わった後。
「わたくし、少し頭を冷やしてまいりますわ……」
そう言い残して、結局フィオレンティナは一人きりでデルイエロの町へと向かった。
彼女を一人きりで町へ行かせるなんて、また先日のような騒ぎになったらと思うと心配でならないが、ジルベルトもそれ以上つきまとうことは出来なくて。
仕方なく、雪の止んだ門扉から彼女の姿を見送ったが、「せめて帰りくらいは」と、町まで迎えに行くことは許してもらっている。
馬にまたがるフィオレンティナの後ろ姿を見守りながら、ジルベルトの胸はやっと平静を取り戻す。
彼女がいなくなった途端に、ノヴァリス伯爵家がシンと静かになった気がした。
「フィオ様は町へ行かれたのですか」
「ああ、しばらく経ったらまた迎えに行く」
屋敷に戻ると、リリアンがリビングの朝支度をしていた。暖炉をつけたばかりのリビングは、冷え冷えとしていて夜の寒さが残っている。朝に弱い父の姿はまだ無い。
「フィオ様がいらっしゃらないだけで、なんとなく屋敷の中が寂しいですね」
「そうだな」
リリアンもジルベルトと同じことを感じていた。
彼女がいないというだけで、住み慣れたこの屋敷がやけにくすんで見えた。
肌に感じる冷たい空気。動物の鳴き声。風が通り過ぎる音。そこにあったのは、心が乱されることのない毎日だった。
フィオレンティナがノヴァリス伯爵家へとやってくる前は、この静けさが当たり前であったというのに。
もう、彼女がいない生活など考えられなくなっていた。
フィオレンティナの気配を感じるだけで、ジルベルトの心には甘い幸せが訪れる。その美しい笑顔は大輪の花のようであり、分け隔てない明るさで屋敷中を鮮やかに照らす。
「フィオ様がアルベロンドへ来て下さって、本当に良かったです。ノヴァリス伯爵家全体が明るくなりましたもの。ずっとここにいて欲しいなあ……」
「リリアンもそう思うのか」
「ええ。ジルベルト様、プロポーズはなさらないのですか?」
プロポーズ。
その単語に、ジルベルトは固まった。
『結婚』がたちまち現実感を増す。
「フィオ様、ジルベルト様からの言葉を待ってるんだと思いますよ。今朝のことだって、なんとなく結婚を焦っている感じがしましたもん」
「焦っている……?」
「まだここへ来たばかりなのに、寝室へ誘い込むなんて……ジルベルト様が煮えきらない態度をとるのも一因ではあると思いますけど、少し強引な気がして」
彼女がここへやってきたのは、ジルベルトと結婚するためだ。
王都を追放され、親に直談判してまで縁談を取り付けようと、はるばるこのような田舎へやって来た。
ジャスミンの記憶を持って、ジルベルトとの幸せな思い出を頼りにして。
ずっと不可解であったが、彼女がジルベルトにこだわる理由は分かった。最初から不思議なほどアプローチされたのも、納得がいった。
けれど、昨夜のことにはジルベルトも違和感を感じている。
フィオレンティナへ部屋を用意し、彼女にはずっとここでいればいいと、そう伝えたつもりだった。
けれど彼女は、それ以上に確かなものを求めているらしい。ジルベルトが考えるより、ずっと早い段階で。
「早くプロポーズして差し上げたらいかがですか。ジルベルト様も、フィオ様以外考えられないでしょう?」
「な、なぜ分かる?」
「逆になんでバレていないと思えるのか不思議です……ジルベルト様のお気持ちはダダ漏れですよ。フィオ様にはもちろん、屋敷の者は皆知っております」
愕然として言葉を無くす。まさか屋敷中に知れ渡るほどであったとは。
恋愛経験のない自分の、浮かれっぷりがよく分かる。
(しかし、浮かれてしまうのも仕方ないだろう……)
たった今も、フィオレンティナへのプロポーズを考えただけで胸が高鳴る。
このような気持ちになるのは初めてのことなのだから。
書斎に移ったジルベルトは、放置したままであった封筒を開けた。
それはあの日父から預かった、エルミーニ侯爵家によるフィオレンティナの釣書だ。
その中にはちゃっかりと、フィオレンティナによって記名までされた結婚証書まで同封されている。これは早く結婚したい彼女の仕業だろう。
あとはジルベルトの名を書いて教会へと提出すれば『結婚』できてしまう。なんて簡単なのだろう。
けれど――
(……良いのだろうか。彼女の人生を、このように簡単に……)
一人思い悩むジルベルトの耳に、慌ただしい足音とが届く。何事かと顔を上げると、そこには――
「……メリッサ」
廊下を勢いよく駆け抜けた足音は、あのメリッサのものだった。
その後ろからはリリアンが息を切らしながらついてくる。どうやら彼女はリリアンの制止を振り切ってまで、屋敷の中へ入って来たらしい。
「……今回は、何をしに来たんだ」
「私の顔など見たくもないのは分かるけど、今は我慢して。一刻も早く伝えなきゃと思ったのよ」
よく見ればリリアンだけでは無く、メリッサの呼吸も乱れている。加えて、彼女の頬には殴られたような赤い痕が痛々しく残っていた。
「――一体、何があった?」
一人きりでデルイエロの町へ向かったフィオレンティナ。
そのデルイエロの町から、ただ事ではない様子で駆けつけたメリッサ。
言いようのない不安がジルベルトを襲う。
「あの女、王家の奴らに連れ去られてしまったの」




