278話 土行の世界
頭を締め付けるような痛みで、一樹は目を覚ました。
重い瞼を持ち上げて辺りを見回せば、板張りの天井と煤けた梁が目に入る。
囲炉裏からは、もう火の気配もなく、灰だけが冷たく残っていた。
「ああ、頭が痛たい」
昨夜は姫松の太鼓に合わせて、夜もすがら踊り明かしていた。
亀太郎が持ち込んだ濁り酒を、土瓶で何杯も呷った。
そんな風に記憶が甦ってきて、一樹は自身の頭痛に得心した。
「喉が渇いた」
渋々と起き上がった一樹は、床脇に置いてある水瓶に手を伸ばした。
素焼きの水瓶には、谷川の水を汲んで常に満たしてある。
そのまま口を付けて飲むと、冷たい水が喉を潤していった。
「ふう、生き返った」
一樹が暮らしているのは、小山の中腹に建つ古い民家だ。
かつて小さな集落があったが、妖怪の領域になった。
そこで妖狐の小集団で集落ごと頂戴して、勝手に住んでいる。
妖怪の進出を防いでいるのだから、川下の人間は感謝して、文句など言ってこない。
立ち上がった一樹は、板戸を開けて外に出た。
軒先には、手拭いが竹竿に掛けてある。
それを取って顔を拭い、髪を撫で付けた。
「今日も良い天気だな」
空は青く澄み渡り、小山の緑が朝日に映えていた。
大きく身体を伸ばした一樹は、板の間に戻って、干し魚を口にする。
酒でも飲もうかと思ったところで、昨晩に姫松から言われたことを思い出した。
『一樹さん。明日は、亀太郎の家でおとんと合流して、昼までにあたしの家に来て下さい』
『何かあるのか?』
『藤内が、総泉寺の狸を化かすそうです。喧嘩になったら、加勢してほしいんじゃないですかね。だから、お酒は抜いてから来てくださいね』
『藤内か。あいつ宝物頼りだからなぁ』
『それじゃあ、お願いしますね』
『分かった。任せておけ』
『流石は、一樹さん。頼りになります』
酒を飲んで陽気になっていたところで、そんな風に姫松から頼まれた覚えがある。
酒を飲むと、どうにも安請け合いしてしまう。
だが姫松とは囃子仲間で、妖狐の中でも懇意にしているほうだ。
妖狸に対して連携しようという話でもあるので、不義理もできない。
「怒らせても、怖いからなぁ」
姫松は暴力に打って出るわけではないが、微笑しながら圧を掛けてくる。
あちらに大義名分があって、口も達者なので、皆が姫松の側に付くだろう。
朝酒を断念した一樹は、囲炉裏の火を灰で覆い、家を出る支度を始めた。
紺色に染めた木綿の着物に着替えて、懐紙と小銭入れを懐に入れる。
男の所持品など、それで充分だ。
着物の裾を端折り、脚絆を巻いて、草鞋を履く。
最後に二尾の尻尾を隠して、完全に庶民の出で立ちとなった。
「やれやれ、行くとするか」
一樹は板戸を閉め、家を後にした。
山道を下りながら、谷川の音を頼りに駆けていく。
妖狐の身体は軽く、飛脚の数倍ほどの速さで、走り続けられる。
鳥取城には、桂蔵坊という奇特な妖狐が仕えていて、江戸まで三日三晩で往復する。
一方で人間の場合、幕府公用の継飛脚ですら、昼夜を問わずに交代して10日も掛かる。
つまり妖狐は、飛脚の数人掛かりと比べてすら、3倍以上の速度で駆けられる。
そんな桂蔵坊は、おとん女郎の夫だ。
おとんが悪さをしても陰陽師を呼ばれないのは、殿様に仕える旦那のおかげで、お目こぼしをされているからだったりする。
たまに、やりすぎたと思ったら人助けもするが、それは打算的な行動だ。
「夫婦の関係なら、好きにすれば良いさ」
おとんは旦那を困らせて、気を引き、甘えているように思える。
悪い女狐だが、そもそも良い女狐など、一樹は寡聞にして知らない。
木の根を踏み、岩を飛び越え、獣道を辿って亀太郎の住処へと向かった。
余戸小山から出合の森までは、10里(40キロメートル)ほどの距離だ。
継飛脚が駆ければ2刻(4時間)だが、妖狐が駆ければ1刻と掛からない。
ヒョイヒョイと駆けていくと、亀太郎が住む家に着いた。
「亀太郎、居るか?」
一樹が戸を叩くと、中から壮年の声が返ってきた。
「おう、一樹か。今開ける」
きいきいと戸が開き、中から亀太郎が顔を出した。
亀太郎は、亀の名が付くとおり、典型的な水行の黒狐である。
一樹のほうは、狐色の毛並みをした赤狐で、火行だ。
水行と火行は相剋し、火に水を掛けると消してしまう。
黒狐が赤狐よりも上位に置かれる所以の一つで、亀太郎は一樹よりも若年ながら、いつも通りに飄々とした態度をしていた。
「昨夜は良く踊ったねえ」
亀太郎が笑いながら、一樹を家に招き入れた。
土間には囲炉裏が切ってあり、鉄瓶が湯気を立てている。
「おとんとは、峠の茶屋で待ち合わせをしている。だが、ひとまず茶でも飲んでくれ」
「そうさせてもらおうか」
亀太郎が土瓶急須に茶葉を入れ、鉄瓶の湯を注いだ。
それを二つの湯呑みに注ぎ分け、一つを一樹に差し出す。
「すまんな」
一樹は湯呑みを受け取り、一口啜る。
ほうじ茶の香ばしい香りが、口の中に広がった。
人と共生関係にある妖狐の暮らしには、人の文化が染み込んでいる。
「なあ一樹。姫松の話だと、戸上山の藤内が総泉寺の狸を化かすんだって?」
「そうらしい。いつものことだけどな」
戸上山中の保食神社と、総泉寺とは、わずか1里(4キロメートル)ほどの距離だ。
一樹の家から姫松の家まで3里、亀太郎の家まで10里、おとんの家まで16里。
そんな距離にあってすら、祭り囃子で気軽に遊ぶ関係だ。
わずか1里の至近に妖狐と妖狸の集団が暮らしていれば、争わないはずがない。
妖狐が狩られて筆毛にされたとか、妖狸を剥いで太鼓の皮にしてやったとか、互いの武勇伝には事欠かない。
豊川稲荷に新たな石像が増え続ける原因の一つが、狐狸の争いだ。
「あいつら、いい加減に引っ越したらどうなのかねぇ」
亀太郎は、至極真っ当な意見を述べた。
一樹も同意するが、実現するためには、絶対に回避できない問題がある。
「それで亀太郎、どちらが引っ越すんだ?」
「そりゃあ、どちらも引かないだろうねぇ」
先に引っ越したほうが、負けである。
相手が去れば、残ったほうは末代まで勝ち誇り、馬鹿にするだろう。
妖狸を相手に引くのは、妖狐にとって有り得ない選択だ。
もちろん妖狸のほうも、そう考えているに違いない。
「さて、おとんと合流するか」
「おう。行くとしよう」
二狐は茶を飲み干し、家を出た。
亀太郎も身軽な格好だが、腰には巾着を下げており、そこには煙管と煙草入れが入っている。
亀太郎は煙草を嗜む癖があり、たまに紫煙を燻らせている。
「峠の茶屋は、まだ婆がやっているのか」
「息子夫婦に代替わりしたぞ。新しく出すようになった柏餅が悪くない」
「ほう。柏餅とは、粋なことだ」
柏の葉は、新芽が出るまで古い葉が落ちない。
そのため家系が途絶えないという縁起を担いで、柏の葉で餅を包んでいる。
茶屋も途絶えないという意味で包んでいるのだとすれば、粋な話だと一樹は評した。
獣道を走り、やがて現れた山道を歩いて行く。
すると峠に茶屋があり、黒髪の女が縁台に座して、茶を飲んでいた。
瞳は切れ長で、穏やかに細まり、どこか人懐こい微笑みを浮かべている。
まとっている着物は、草木を思わせる文様が袖や裾にあしらわれた、深い緑色の上物だ。
一見すると、中級から上級武士の奥方といった印象を受ける。
そんな位の高そうな女性に対して、一樹と亀太郎は気軽に寄っていった。
「おう、おとみ。待たせたな」
おとみは、おとん女郎が人に化けたときに使う仮名だ。
よく悪さをするので、人前で真名は名乗らない。
亀太郎が気安く声を掛けて隣に座ると、一樹もおとんを挟んだ反対側に座った。
すると茶屋から前掛けをした男が出てくる。
夫婦でやるような小さな茶屋なので、おそらく店主だろう。
「へい、お立ち寄りで」
「俺とそいつに、茶と柏餅を頼むよ。一人10文だったかね」
「さようでござんす」
一樹と亀太郎は、それぞれ懐から寛永通宝の一文銭を10枚ずつ取り出して、店主に渡した。
それを受け取った店主は奥へ引っ込み、茶を煎れるために湯を沸かす。
一樹は山道を眺めながら、あくびをした。
「ああ、無事平穏だねぇ」
「あらあら、これから妖狸を化かすのですわよね。無事平穏で済みますの?」
「囃子仲間ではないおとみを呼ぶあたり、無事平穏では済まないだろうさ。だから今だけ、安穏を満喫しておくわけだ」
おとんは、一樹達の囃子仲間ではない。
人間の髪を刈り、好戦的で武闘派の二尾だ。
一樹や亀太郎も二尾で、妖狸と争いになった時には、強力な与力として数えられる。
そんな妖狐を集めるあたり、姫松も一騒動あることは覚悟しているはずだ。
しばらくすると店主が、柏餅と茶を運んできた。
「へい、お待ち遠様で」
「ありがとうよ」
出された柏餅を頬張って、茶を啜る。
のんびり咀嚼した一樹は、心地良い風と暖かな陽気に誘われて、居眠りをしそうになった。
「あらあら、姫松に怒られるわよ」
「それは困るな。さて、行くとするかな」
茶屋から姫松のところまでは、再び10里といったところだ。
茶屋を後にして、三狐は姫松のところへと向かった。




























