277話 鳥取藩の狐達
「土行は継承していないので、木行の記憶でしか知りません。小出の姫松は、どのような妖狐だったのですか」
鳥取藩の狐狸騒動に巻き込まれた香苗は、渋々と良房に尋ねた。
視線を軽く上げ、やや困惑の色を滲ませながら、机の上で両手を組み直す。
開けている襖の外からは初夏の風が吹き込み、伊代の長い銀髪を僅かに揺らしていた。
「木行は、萩藩だったね」
「はい。一尾の頃は各地を巡りましたが、鹿野に腰を据えてからは、殆ど出ていません」
萩藩と鳥取藩は、島根県あるいは広島県を挟んでいる。
江戸時代に複数の藩を跨ぐのは大変で、情報もあまり入ってこない。
同じ時代に生きたとしても、関わりを持たないであろう距離だ。
沈黙した良房は、懐から煙管を取り出した。
袖口から滑らせるように手を動かし、年代物の煙管を指先で軽く回す。
火皿に狐火を落とし、煙を立ち上らせて、それを白面越しに眺める。
紫煙が静かに天井へと昇り、堂内の空気にゆっくりと溶けていく。
やがて、徐ろに語り出した。
「姫松は、狐らしからぬ妖狐だね」
「どのように狐らしくないのですか?」
香苗は身を乗り出すようにして尋ねた。
自身に宿る土行護法神の話だからか、その目には興味が宿っている。
「騙しは好まず、明朗快活な善狐だったよ。毛並みは典型的な狐色で、術も巧みだったけれどね」
良房は煙管を口から離し、ゆっくりと煙を吐き出した。
その言葉には、懐かしむような響きが含まれていた。
小出の姫松は、鳥取県東伯郡三朝町などに伝わる女狐だ。
通りがかった人に芝居を見せて楽しませる趣味があり、手土産に持たせる料理も馬糞ではなく、本物の御馳走だった。
交友関係も幅広くて、余戸小山の小狐、出合の亀太郎狐、上井藪のおさん狐、丸山の孫太郎狐、上井河原の俊徳丸などが、よく名前を挙げられる仲間だ。
数狐が集まれば、竹田川の水を逆さに流すくらいは、楽々とやってみせた。
また、いかなる千両役者にも劣らぬ歌舞伎をみせたといわれる。
「仲間達も、みんな周辺の妖狐なのですか?」
一樹が口を挟んだ。手元の湯飲みを片手で支えながら、良房の表情を窺う。
「そうだね。ほかの仲間達も、周辺で活動していた妖狐だね」
「他所から呼ばずとも、仲間内にも強い妖狐が居るのですね。川を逆流させたり、千両役者に負けない変化の術も使えたりするみたいですが」
藩内の妖狐で解決しなければならないとしても、候補の妖狐は、沢山居るのではないか。
土行を継承させる目的もあるのだろうから、依頼を受けないわけではない。
だが依頼人である伊代が狙われているのだから、守りには万全を期す必要がある。
ほかの手勢は応援に来ないのかという意味で、一樹は尋ねた。
「姫松の仲間達も、ほとんど鬼籍に入っているかな」
良房は煙管を横に軽く振って、タバコではない何らかの煙を消しながら答えた。
「そうなのですか?」
「余戸小山の小狐などは、力の強い妖狐だったが……」
余戸小山の小狐は、鳥取県倉吉市の余戸地域に伝わる妖狐だ。
余戸の小山には、古くから狐の大親分が棲んでいた。
歌や踊りが得意で、亀太郎狐、俊徳丸狐、おさん狐など、周辺の名だたる妖狐達を集めて、小出の姫松が叩く太鼓に合わせて、夜もすがら踊り騒いだ。
踊り飽きると河原で「わしは余戸小山の狐、囃子なけらにゃ小山に帰る」と歌うこともあった。
狐憑きを落とす呪法も心得ており、あるときそれを油揚げと引き替えに村の法師に教えた。
その後、小狐自身が海田村の者に憑いたとき、狐落としの法に掛かり、落命したと伝わる。
人々は哀れに思い、妖狐を古巣に葬り、祠を建てた。
「自分で教えた呪法で、自分が祓われたのですか?」
一樹の声色に、理解と困惑が入り混じった。
術に長じていれば、効果的な呪法を教えられるだろう。
守護護符に、八咫烏を描けと教えるようなものだ。
八咫烏を神使とする熊野の神が妙見菩薩であり、72種の護符を司る鎮宅霊符神と習合されると知らずとも、描けば効果がある。
それと同様に、狐落としの呪法を教えれば、呪法の理屈を知らずとも、狐落としは叶う。
だが、教える意味は分からない。
落命した理由は理解できても、なぜ教えたのかという困惑があった。
「陽気に騒いで、酒にでも飲まれて、うっかりと口を滑らせたのかもしれないね」
「はあ」
「わりとある話だよ。妖狐だけではなく、人間も、酒を飲んで騒ぐだろう」
江戸時代なら、よくある話かもしれない。
落命の理由に納得した一樹は、余戸小山の小狐は喚べないと判断した。
豊川稲荷の霊狐塚に宿る霊狐達は、戦いで命を落とした者達だ。
狐落としの法に掛かって落命した場合、霊狐塚に宿れるだろうか。
一樹には宿っていないように思えたし、仮に存在しても、きっと居たたまれないだろう。
力は強いかもしれないが、依頼人を守る増援としては、不安が拭えない。
「余戸の狐の次に名前が挙がった、亀太郎狐は、どうなのですか?」
「ああ、彼は賑やかしだね」
「賑やかしですか?」
「くだらない変化で騙すのが、好きな妖狐だったそうだよ」
亀太郎狐は、よく人を化かした妖狐だった。
ある男が夕暮れに峠を通ると、手ぬぐいを被った綺麗な女と出会った。
目的地が同じと分かり、手を繋いで一緒に歩いていると、女は「小用がしたいけえ、手を離いてごしなはい」と言った。
男は反対の手を握って用を足し終わるのを待ったが、いつまでも途切れる様子がない
ふと気が付くと、男は水がちょろちょろ出てくる竹の筒を握っていた。
それは亀太郎狐の仕業だと伝わる。
「確かに、くだらないですね」
「そのとおり、やることが小さい妖狐だったようだ」
仲間達と一緒に竹田川の水を逆さに流すことに比べて、個人ではスケールダウンが甚だしい。
もっとも農作業に迷惑を掛けないので、川を逆流させることに比べれば、マシかもしれない。
そんな亀太郎狐の話を聞くに、一樹はあまり頼りたいとは思えなかった。
「鳥取藩で変化が得意といえば、音羽が滝のおとんが居たかな」
煙の消えた煙管を振りながら、良房は懐古する。
「どのような妖狐なのですか?」
「人の基準では、あまり善狐寄りではないね」
音羽が滝のおとんじょろは、おとん女郎などと呼ばれる化け狐だ。
鳥取県八頭郡智頭町波多の立見峠では、音羽が滝に出ると伝えられる。
人を騙す術に長けており、誰でも化かして髪を剃り、坊主頭にしてしまった。
あるとき、長兵衛という男が正体を見破ろうと滝へ出かけ、そこで狐の姿を見つけた。
狐は子を生み、人間の母子に化け、その姿で長兵衛の叔父の家を訪ねる。叔父は、狐を娘と孫だと信じ込んだので、長兵衛は正体を暴こうとして、赤子に熱湯を浴びせて殺した。
ところが死体は人の子のままで、今度は長兵衛が叔父に殺されそうになった。
そこへ通り掛かった僧に諭され、長兵衛は出家を決意し、剃髪してもらったところで我に返る。
そこまでの出来事は、全ておとん女郎が見せた幻であった。
長兵衛は音羽が滝に居たままで、まんまと騙されて、髪を剃り落とされてしまったのであった。
「どうして壮大な幻術を掛けてまで、人間を坊主頭にしたのでしょうか」
「おとんの趣味だね」
「趣味ですか」
「妖狐が人で遊ぶのは、よくある話だよ」
くだらないことに注力する狐達の話を聞いて、一樹は思わず頭を抱えたくなった。
小出の姫松の仲間達は、頼れるか頼れないかで言えば、頼れそうにない。
「おとんは、暗い夜道で難儀している旅人を見て、狐火を灯して導いたこともあるそうだよ」
「不良が道端で子猫に出会って、1回餌をあげるくらいの善行でしょうか」
人を坊主頭にした悪行が、それ1回で清算できるとは思えなかった。
もっとも先方は、清算したいなどとは思っていないだろうが。
一樹は、塗り潰しの絵馬・大根を顕現させて、それを香苗に見せた。
「与力するにしても、土行護法神と藤内狐のことを知らないと、立ち回りが分からない」
「そうですね。見てみましょうか」
こうして一樹達は、土行の世界に赴くこととなった。




























