第9話 狸にハンバーグを食わせる
狸にハンバーグを食わせる。
そう約束した翌朝,理人はいつもより少し真剣な顔で,作業台に並べた角猪の肉を見ていた。
一つは赤身が多く,筋の強い肩肉。もう一つは腹側の,白い脂が多く入った肉だ。
「……肩七,腹三」
「何が?」
横から覗き込んだマルタに聞かれ,理人は二つの肉を順番に指した。
「混ぜる割合です。この前,ガルドさんに部位ごとの肉を見せてもらったので」
「ああ,あれかい」
「肩だけだと硬い。腹だけだと脂が多すぎる。なので,とりあえず七対三くらいから試します」
「その割合に根拠あるの?」
「ないです」
即答すると,マルタが吹き出した。
「急に自信なくなったねえ」
「分からないものは分からないので。肩を多めにして,脂を少し足すなら,まずこのくらいかなと」
「結局とりあえずじゃないか」
「前より理由はあります」
「そういう問題かい?」
笑いながら大鍋へ戻っていくマルタを見送り,理人は肩肉へ向き直った。
前回は,硬い肉を細かくすれば何とかなると思っていた。今は,その前にやることがある。
包丁の先を使って太い筋をできるだけ外し,口に残りそうな薄い膜も取り除いていく。ガルドに見せてもらったときの手元を思い出しながら進めたが,当然,同じようにはできない。それでも最初に角猪へ包丁を入れたときと比べれば,捨てる肉も減り,筋と肉を見分けるのも少し早くなっていた。
「今日は木槌も使うのかい?」
「使います。でも,前ほど叩きません」
「何で?」
「叩けば柔らかくなると思ってたんですけど,やりすぎると肉そのものが潰れすぎる気がするので」
「前はもっと叩こうとしてなかった?」
「前の自分に言ってください」
「同じ人じゃないか」
「料理は更新されるんです」
「便利な言葉を覚えたねえ」
肩肉を薄く切ってから小さく分け,木槌を軽く落とす。ドン,ドンと低い音が作業台へ響いたが,前回のように力任せには叩かない。ある程度ほぐれたところで包丁へ持ち替え,今度は刃先を細かく動かして刻んでいく。
トントン,トントンと音を重ねるうち,少しずつ肉の塊が小さくなった。
「……やっぱり,しんどいな」
「まだ始めたばかりだよ」
「この工程だけは,慣れだけで全部解決する気がしません」
「鍛えれば?」
「料理のために筋トレするんですか」
「大鍋を振るなら筋力はいるよ」
「自分はハンバーグが作りたいだけなんですけど」
「今,肉を叩いて刻んでるじゃないか」
「そうなんですよね」
何を目指しているのか,少し分からなくなってきた。
それでも前回より肉の大きさは揃っている。完全な挽肉にはほど遠く,細かな部分に混じって少し大きな欠片も残っているが,包丁と木槌だけでやるなら,今の理人にはこのあたりが限界に近い。
続いて,腹側の脂の多い肉も刻んでいく。こちらには脂だけではなく赤身も入っており,刻むほど包丁へまとわりついた。
「前より脂,多いね」
「はい」
「脂っこくならない?」
「だから七三です」
「それ,根拠ないんだろ?」
「そこを今,試してるんです」
理人が答えると,マルタは肩を揺らして笑った。
「日本で挽肉を買ってたとき,脂が何割入ってるかなんて考えたことなかったんですよ」
「それで料理してたの?」
「レシピ通りにやれば,大体は」
「便利だったんだねえ」
「今になって実感してます」
知っている料理は多い。作ったことのあるものもある。
けれど,なぜその手順なのか,なぜその材料を使うのかと聞かれると,途端に説明できないことが出てくる。日本では料理動画やレシピを見て,そこに書かれている通りにやればよかった。
今は,覚えている断片を一つずつ試して,結果を見ながら確かめるしかない。
「帰れたら,料理の勉強し直したいな」
「帰れたら?」
大鍋をかき混ぜながらマルタが言う。
理人は一瞬だけ手を止めたが,すぐに肉へ視線を戻した。
「……そうですね。帰れたら」
「まあ,今は今で覚えればいいさ」
「はい」
マルタはそれ以上何も言わず,鍋へ向き直った。
◇
涙玉は前回より少なめにし,細かく刻んで鍋へ入れた。
木べらで混ぜながら火を通していくと,白かった欠片が少しずつ透き通り,甘い香りが立ってくる。
「今日は色をつけすぎないようにします」
「前も焦げちゃいなかったよ」
「でも,少し火を入れすぎた気がするので。今日はこのくらいで止めます」
「何か理由が?」
「前より少し変えて,比べたいだけです」
「教師らしいねえ」
理人は火から鍋を外した。
熱いまま肉へ混ぜれば,せっかく刻んだ脂が溶けてしまう気がする。以前なら冷めるまで待つしかなかったが,今は別の方法を試せる。
片手を鍋へ,もう片方を水を張った金属の器へ触れる。
鍋から,水の方へ。
意識すると,ゆっくりと鍋の熱が下がり,代わりに器の水がぬるくなっていった。
「前より早くなった?」
マルタが横から覗き込む。
「少しだけ,そんな気がします」
「慣れてきたんじゃないかい?」
「だといいんですけど」
最初に試した頃よりは,移したい方向を意識しやすくなっている。ただ,思った通りの温度へ一気に変えられるわけではない。あくまで,待つ時間を少し短くできる程度だった。
「そういえば,魔法って使いすぎたらどうなるんです?」
「魔力切れになるね」
「どんな感じです?」
「人によるよ。頭が痛くなるのもいるし,気持ち悪くなるのもいる。急に眠くなるやつもいるね」
理人は鍋から手を離した。
「前の調理でも結構使いましたけど,特に何もなかったです」
「なら,そのくらいなら大丈夫なんじゃないかい?」
「上限を知るために,一度限界まで使ってみるとかは」
「馬鹿だね」
間髪入れずに返された。
「ですよね」
理人にも異論はなかった。
限界を知るために倒れてみる,という実験はさすがに割に合わない。症状が出てから考えればいいとは思わないが,少なくとも今,わざと使い切る必要はなかった。
◇
パンは前回よりさらに細かくした。
布へ包んで木槌で軽く叩き,できるだけ大きな塊をなくしてから,少量の乳を吸わせる。
そこへ卵と黒香子を用意し,塩へ手を伸ばしたところで,理人は動きを止めた。
「……塩」
「そこにあるよ」
「いや,そうじゃなくて」
前回は肉も涙玉もパンも卵も,ほとんど一緒に混ぜてしまった。
けれど,日本で見たハンバーグの動画では,確か違ったはずだ。
「先に肉と塩だけで練るんだった」
「何で?」
「肉がまとまりやすくなる……はずです」
「はず」
「今回はちゃんと記憶にあります」
「理由は?」
「覚えてません」
「そこは覚えてないんだねえ」
「動画では,先に塩を入れて練ってたんですよ。それで粘りが出るって」
理屈までは説明できない。
なら,まずは覚えている通りに試す。
理人は刻んだ肩肉と腹側の肉を合わせ,塩を加えて練り始めた。
最初はばらばらだった肉が,混ぜ続けるうちに少しずつまとまり始める。指の間で肉がつながり,前回より明らかに粘りのある感触が出てきた。
「……お」
「どうした?」
「ちゃんとまとまってきました」
「本当に?」
「これはたぶんじゃなくて,見れば分かります」
「成長したねえ」
「判断基準が低くないですか」
冷ました涙玉と,乳を吸わせたパン,卵,黒香子を加え,さらに練っていく。
しばらく続けていると,指先に感じる冷たさが少しずつ薄れてきた。
日本で見た料理動画では,肉を温めすぎないようにと言っていた記憶がある。理由を詳しく説明しろと言われれば困るが,手の熱で脂を溶かさない方がいいらしい,という程度なら覚えていた。
「これも試せるか」
理人は肉だねを金属鉢へ入れたまま,練る手をいったん止めた。
鉢へ片手を添え,もう片方を水を張った器へ触れる。ほんの少しだけ鉢から水へ熱を移し,また練る。
「今度は何してるの?」
「肉が温まりすぎないようにしてます」
「そこまで気にする?」
「できるなら,試しておこうかなと」
「味が変わるの?」
「分かりません」
「分からないのにやるんだ」
「動画で温めるなって言ってたので」
「また動画かい」
「かなり頼ってたんだなって,今になって思います」
インターネットも,レシピも,料理動画も,日本では当たり前に使っていた。
その全部がないだけで,一つの料理を作るために考えなければならないことが,こんなに増えるとは思わなかった。
◇
できた肉だねをいくつかに分け,両手の間で軽く投げるようにして空気を抜く。
楕円形へ整え,中央を少しくぼませた。
「今日はきれいじゃないか」
「今までも焼く前だけはきれいでした」
「確かに」
「そこは否定してください」
「事実だし」
理人は苦笑しながら鉄板を火へかけた。
今回は,最初から薪火の強い場所を避けて少し外側へ置く。鉄板が温まったところで油を薄く引き,肉だねをそっと置いた。
ジュウッと音が立つ。
「いい音」
「毎回そこは喜ぶねえ」
「好きなので」
「焼く音が?」
「ハンバーグがです」
「知ってるよ」
表面が焼けるまで,すぐには触らない。
前回は焦って動かし,亀裂から肉汁を流してしまった。今回は火の強さと肉の縁を見ながら待ち,焼き色がついたところで木べらを差し込む。
ひっくり返しても,形は崩れなかった。
「……よし」
「言ったね」
「今日は言ってもいいでしょう」
今度は鉄板をさらに火の弱い位置へずらし,蓋をする。
薪がはぜて火が急に強くなったときは,まず鉄板の位置を変える。それでも熱がこもりすぎたと感じたところだけ,《熱交換》を使い,鉄板側の熱を脇へ置いた水の器へ少し移した。
火そのものを消せるわけではないし,鉄板を好きな温度にできるほどでもない。少し熱すぎるところを,ほんの少し料理しやすい方へ寄せる。それだけでも,前回より慌てずに済んだ。
しばらくして蓋を外すと,焼けた肉と脂に,涙玉と黒香子の香りが重なって立ち上った。
「これは……」
理人は少しだけ期待しながら,一つを皿へ移した。
中央を切って確かめると,中まで火が通っている。断面から流れた肉汁も,前回のように皿へ広がるほどではない。
「おお」
「前よりずっといいじゃないか」
「食べます」
「狸の分は?」
「ちゃんと別にあります」
狸へ持っていく分は,小さめに二つ作っていた。もちろん,まずいものを渡して文句を言われるつもりはない。
理人は焼きたてを一口食べた。
「……」
噛んで,もう一口。
「どう?」
「うまい」
考えるより先に言葉が出た。
最初に作ったものとは明らかに違う。まだ肉の粒は揃いきっていないが,前回ほど硬い筋が口に残らず,腹側の肉を混ぜた分だけぱさつきも減っている。涙玉やパンが邪魔をしている感じもなかった。
少なくとも,まずくない。
それどころか,ちゃんとおいしい。
「これは,ハンバーグって言っていいと思います」
「前もそんなこと言ってなかった?」
「前は形だけです」
「今日は?」
「味も」
マルタも一口分を切り取って口へ運んだ。
何度か噛んでから,ゆっくり頷く。
「うまいね」
「でしょう」
「急に得意になるねえ」
「今日は言っていいです」
「でも,何か足りないね」
理人の表情が止まった。
「……何がです?」
「知らないよ」
「そこまで言ってください」
「私,ハンバーグなんてこれしか知らないもの」
「それもそうですね」
理人ももう一口食べてみる。
うまい。
けれど,マルタに言われて意識すると,確かに最初から最後まで似た味が続く。肉と塩,黒香子が中心で,涙玉の甘さはあるものの,大きな変化はない。
「……単調なのかもしれません」
「そうかい?」
「日本だと,ソースをかけることが多かったので」
「そーす?」
「肉に合わせる,味のついた汁みたいなものです」
「それ作ればいいじゃないか」
「材料から考えないと駄目なんですよね」
思い浮かぶものならいくつもある。
けれど,名前を思い出せることと,この世界で作れることは別だった。
「まあ,今日はこれで十分です」
「狸に食わせる?」
「はい」
理人は狸用の二つと,同行してもらうガルドの分を葉で包み,その上から布で覆った。
完成ではない。
それでも,前回より確実にうまくなった。
今は,それでいい。
◇
一人で森へ行く,という選択肢は最初からなかった。
「また行くのか?」
事情を話すと,ガルドが少し呆れた顔をした。
「狸に約束したので」
「肉持って?」
「はい」
「俺も食える?」
「あります」
「なら行く」
「判断早いですね」
「森へ行く理由なんて,そのくらいでいい」
「自分は安全第一です」
「知ってる」
今日はミレナに別の仕事があるらしく,森へ向かうのは理人とガルドの二人だけだった。
昨日と同じ道を通り,森の奥へ入りすぎないようにしながら,猟師小屋跡を目指す。
「狸,まだいると思います?」
「知らん」
「変化狸って,縄張りみたいなものはあるんですか?」
「ある程度はな。ただ,あいつが普通の変化狸と同じかは分からん」
「分からないこと多いですね」
「俺だって魔獣全部知ってるわけじゃない」
「ですよね」
理人は布包みを持ち直した。
中には狸用が二つと,ガルド用が一つ。食べる量は分からないが,約束したものを一個だけ持っていくよりはいいだろう。
「狸一匹に二つか」
「食べる量が分からないので」
「角猪一頭食うわけじゃないぞ」
「それは分かってます」
木々の隙間から昨日と同じ崩れた小屋が見え,二人は足を止めた。
◇
猟師小屋跡には,狸の姿がなかった。
「いないな」
ガルドが周囲を見回す。
理人も,昨日のことを思い出しながら地面や木の根元へ目を向けた。
怪しい鍋も,箱も,棒もない。
「狸」
呼んでみる。
返事はない。
「狸ー」
もう一度呼んだが,やはり静かなままだった。
理人は少し考え,布包みを持ち上げる。
「ハンバーグ持ってきました」
ガサッ。
二人の視線が同時に草むらへ向いた。
葉が揺れている。
「……」
「反応早いな」
「食べ物ですね」
草の間から,茶色い顔が半分だけ覗いた。
「……本当に持ってきたのか」
「約束したので」
「まずくない?」
「今日は自分でうまいと思ったものを持ってきました」
「自分で言う?」
「自分がうまいと思わないものを持ってきても仕方ないでしょう」
狸はしばらくこちらを見てから,ゆっくり草むらを出てきた。
視線はほとんど理人ではなく,布包みへ向いている。
「それ」
「はい」
「匂いする」
「肉なので」
「食わせろ」
「早いな」
理人は地面へ座り,布を開いた。
葉の上に,小さめのハンバーグが二つ並んでいる。焼きたてほどではないが,まだ少し温かさは残っていた。
狸の目が丸くなる。
「これ?」
「はい」
「肉?」
「肉です」
「丸い」
「丸めたので」
「何で?」
「ハンバーグだからです」
「意味分からん」
「食べれば少し分かるかもしれません」
狸はすぐには口をつけず,鼻先を近づけて何度も匂いを確かめた。
「毒ない?」
「自分で味見してます」
「お前が食えたからって,俺も平気とは限らん」
「そこまで疑うなら,ガルドさんにも先に食べてもらいます?」
「俺を毒見に使うな」
横からガルドが口を挟み,狸が少し迷った末,もう一度ハンバーグへ鼻を寄せた。
やがて覚悟を決めたのか,前脚で押さえて一口噛む。
ぴくりと耳が動いた。
「……」
狸が止まる。
理人は何も言わずに見る。
ガルドも横から見ている。
狸はもう一口食べた。
「どうです?」
「今食ってる」
「まずい?」
「だから待て」
さらに一口。
半分ほど食べたところで,太い尻尾がゆっくりと左右へ揺れ始めた。
理人はそちらへ目をやった。
「うまい?」
「普通」
「尻尾」
揺れがぴたりと止まった。
「何が」
「動いてました」
「風だ」
理人は周囲の木々を見る。葉はほとんど動いていない。
「無風ですけど」
「うるさい!」
狸は怒鳴ったが,前脚からハンバーグを離そうとはしなかった。
それどころか残りを食べ終えると,すぐ二つ目へ視線を移す。
「もう一個ありますよ」
「食う」
「普通なのに?」
「確認だ」
「何を確認するんです?」
「一個じゃ分からん」
「食べたいだけでは」
「違う!」
理人が二つ目を差し出すと,今度は匂いを確認する時間さえ短かった。
一口,二口と食べ進めるたび,また尻尾が揺れる。
理人が黙ってそこを見ていると,狸の耳がこちらへ向いた。
「見るな!」
「見てません」
「見てる!」
「食べるの早いなと思って」
「それが見るって言うんだ!」
理人は少し笑った。
隣ではガルドが隠す気もなく笑っている。
「俺の分は?」
「あ,あります」
「今忘れてただろ」
「狸の観察に集中してただけです」
「同じだろ」
理人から包みを受け取ったガルドは,特に警戒することもなく大きく一口かじった。
「どうです?」
「ああ,うまい」
「本当です?」
「こんなことで嘘ついてどうする」
短い感想だったが,その一言で理人の口元が少し緩んだ。
自分でおいしいと思うのと,人に食べてもらってそう言われるのとは,やはり少し違う。
「まだ改善しますけど」
「これ以上?」
二個目をほとんど食べ終えた狸が顔を上げた。
「します」
「何が駄目なんだ?」
「駄目ではないです」
「じゃあいいじゃん」
「でも,もっとおいしくできそうなので」
狸はしばらく理人を見た。
それから,残っていた最後の一口を食べる。
「十分うまいけど」
「ありがとうございます」
「……」
狸の耳がわずかに動いた。
「何です?」
「別に」
「そうですか」
狸は顔を背け,前脚についた肉汁を舐め始めた。
理人はその前脚へ,ほんの少しだけ目を向ける。
丸い耳と,太い尻尾。それに,柔らかそうな毛。
やはり触り心地は良さそうだった。
「何見てる」
「何も」
「見てただろ」
「前脚に肉汁ついてるなと」
「だから舐めてる」
「そうですね」
「変なやつ」
「最近,よく言われます」
◇
食べ終えたところで,理人は持ってきた紙を地面へ広げた。
そこには昨夜描き直した肉挽き器の図と,構造をかなり簡略化した図がある。文字ではなく形だけなので,この世界の文字が書けない理人でも問題はない。
「今日はこれもやりたくて」
「何?」
狸が紙を覗き込む。
「また肉のやつ?」
「はい」
「鉄,昨日持って帰っただろ」
「鍛冶屋にも頼んでます」
そう答えた瞬間,狸の耳が少し伏せられた。
「じゃあ,俺いらないじゃん」
声も,ほんの少しだけ低い。
理人は狸から紙へ視線を戻した。
「いや,鍛冶屋に頼んでるのは,もっと簡単なものです」
「簡単?」
「刃を何枚か並べて,肉を押し切る道具です。これはドランさんにも作れそうだと言われました」
「じゃあ,それ使えばいいだろ」
「それでも今よりは楽になると思います。でも,本当に作りたいのはこっちです」
理人はもう一枚の図を指した。
筒の中で肉を押し進め,刃で切り,穴から外へ出す。日本で見たミンサーを思い出しながら描いたものだが,外見以上のことは曖昧だった。
「こっちは,今の自分じゃ作れません」
「何で?」
「中がどうなってるのか,ちゃんと分かってないので」
「俺も分からん」
「だから,一緒に試してみたいんです」
「……一緒に?」
「はい」
狸は紙へ顔を近づけた。
「俺が?」
「構造が分かれば,その形になれるんでしょう?」
「たぶん」
「なら,試した形が駄目でも,すぐ別の形を試せます。鍛冶屋に毎回作り直してもらうより,ずっと早い」
「失敗したら?」
「何が駄目だったか考えて,変えます」
「俺が変わるの?」
「お願いします」
「お前は?」
「自分は考えます」
「ずるくない?」
「そこは役割分担ということで」
狸が不満そうに鼻を鳴らした。
理人は少し笑いながら,図を指先でなぞる。
「ただ,今すぐこれになれるとは思ってません。できることと,できないことを一緒に確認したいです」
「……俺の能力で?」
「はい。形をその場で変えて試せるのは,かなり便利です」
「かなり?」
「かなり」
狸の耳が少し持ち上がる。
理人はそれを見ながら,ふと思った。
「それに,自分の魔法も少し変わってるらしいですし」
「お前の?」
「火を出したり,氷を作ったりするんじゃなくて,物から物へ熱を移すだけみたいなんです」
「変なの」
「でしょう?」
「俺と一緒にすんな」
「さっき変って言ったじゃないですか」
「俺のは違う!」
「普通の変化狸は物にならないんですよね?」
「……」
「変な能力同士です」
「一緒にすんな!」
狸は怒ったものの,本気で離れていく様子はなかった。
もう一度,地面の図を見る。
「……本当に,俺なら作れると思う?」
「今すぐは無理だと思います」
「……」
「でも,試してみる価値はあります」
「何で?」
「面白そうなので」
「便利じゃなくて?」
「両方です」
狸はしばらく黙っていたが,やがて小さく鼻を鳴らした。
「……一回だけな」
「何がです?」
「考えてやる」
「ありがとうございます」
「一回だけだからな!」
「分かりました」
「あと,ハンバーグ付き」
「条件増えましたね」
「嫌ならやらん」
「作ります」
「即答かよ」
「食べてもらえるなら」
狸の耳がまた小さく動いた。
理人は気づいていたが,今度は何も言わなかった。
◇
「まずは,もっと単純なものから試しましょう」
「何?」
「刃物です。包丁は見たことあります?」
「ある」
「形も分かります?」
「たぶん」
「じゃあ,なってみてもらっていいですか?」
「今?」
「今です」
「お前,急だな」
「思いついたときに確認した方が忘れないので」
狸は渋々といった様子で立ち上がった。
ぼふっと煙が広がり,茶色い姿が消える。
煙が薄れたあと,地面には一本の包丁が落ちていた。
「……」
理人は柄を握った。
「重い」
「俺だからな」
包丁から狸の声がする。
「見た目よりだいぶ重いですね」
「勝手に軽くなれるわけじゃない」
「なるほど」
形は包丁でも,狸一匹分の重さが消えたわけではないらしい。片手でも持てなくはないが,本物の包丁ほど気軽には扱えない。
「それにしても,物から声がするの,本当に慣れませんね」
「うるさい。早く試せ」
「切れ味,分かります?」
「知らん」
「じゃあ,試します」
理人は今朝使ったパンの端を板へ置き,両手で包丁を支えて刃を当てた。
軽く引く。
すっと刃が入った。
「お」
「切れた?」
「切れました」
「すごい?」
「パンなら,普通に切れます」
「普通?」
「包丁として使えるって意味です」
「じゃあすごいだろ!」
「そうですね。すごいです」
「最初からそう言え!」
理人は笑いながら,今度は近くに落ちていた乾いた枝を拾った。
「次はこれを」
「何で?」
「硬いものでも刃を保てるか確認したいので」
枝へ刃を当て,ゆっくり力をかける。
しかし,今度は先ほどのようには入らない。少し押し込むと,枝より先に刃先の形がわずかに鈍った。
理人はすぐに力を抜いた。
「……硬さには限界がありますね」
「何それ」
「包丁の形になっても,鉄と同じ硬さになるわけじゃないみたいです」
「当たり前だろ。俺は俺だぞ」
「じゃあ,骨は」
「嫌だ!」
「まだ試してませんよ」
「絶対嫌だ!」
ぼふっと煙が上がり,包丁が狸へ戻る。
「骨は嫌だからな!」
「分かりました」
「絶対だぞ」
「今のところ,試す予定はありません」
「今のところって何だ!」
「確認です」
「確認するな!」
狸は怒っていたが,耳は立ったままで,すぐ逃げようともしなかった。
形そのものはかなり正確に再現できる。
けれど,重さは元の体から大きく変えられず,硬さまで元の道具と同じにはならない。
何にでもなれる万能な能力ではない。
だからこそ,できる範囲を調べる必要がありそうだった。
◇
しばらく話しているうちに,森を出る時間になった。
「じゃあ,今日は帰ります」
理人が立ち上がると,狸も顔を上げた。
「明日も来る?」
「仕事次第です」
「……そう」
「安全に来られそうなら,また来ます」
「ハンバーグは?」
「毎日は無理ですよ」
「何で?」
「材料も時間も必要なので」
「じゃあ,肉持ってけば作る?」
「自分で獲った肉なら考えます」
「獲れる」
「一人で危なくないですか?」
「お前より強い」
「それは間違いないですね」
「何で即答なんだよ」
「自分,角猪に会ったとき逃げるしかできませんでしたから」
「角猪くらいなら……」
狸が少し得意そうに言いかけて,そこで口を閉じる。
「……逃げる」
「戦わないんですね」
「悪いか!」
「いいと思います」
「……」
「逃げられるなら,逃げた方が安全でしょう」
狸が理人を見る。
「変な人間」
「食材のために死にたくないので」
「結局,肉なんだな」
「大事ですから」
狸が小さく笑った。
「じゃあ,また」
「……おう」
理人は少し歩き出してから振り返る。
「あ,名前も考えておきます」
「ちゃんとしたやつにしろよ!」
「ナベ以外で」
「絶対だぞ!」
ガルドと並んで森を出る。
少し進んだところで,理人は何となく振り返った。
狸はまだ小屋跡の前に座り,こちらを見ていた。
目が合う。
次の瞬間,ぼふっと煙が上がり,そこに古い木箱が現れた。
「……」
理人は思わず足を止めた。
「何してる?」
ガルドが振り返る。
「いや」
「箱見てるのか?」
「狸です」
「知ってる」
ガルドは木箱と理人を交互に見たあと,口元を緩めた。
「お前,あの狸かなり気に入ってるだろ」
「能力が面白いだけです」
「能力が?」
「はい。かなり便利ですし」
「ふうん」
ガルドの返事が,昨日のミレナと少し似ていた。
理人はもう一度木箱を見る。
さっきまでの太い尻尾と,丸い耳を思い出す。
「……可愛いですね」
口から出た。
理人は止まった。
隣でガルドも止まる。
「今,何て?」
「何も」
「可愛いって」
「言ってません」
「言ったぞ」
「聞き間違いです」
「俺,猟師なんだけどな。耳はいいぞ」
「知ってます。行きましょう」
「誤魔化したな」
理人は少しだけ歩く速度を上げた。
後ろからガルドの笑い声が聞こえる。
「笑わないでください」
「いや,お前,結構分かりやすいな」
「どこがです?」
「そのうち分かる」
「そういう言い方嫌いです」
また笑われ,理人はため息をついた。
だが,悪い気分ではなかった。
約束したハンバーグは食べてもらえた。ガルドにも狸にも,うまいと言ってもらえた。肉挽き器について一緒に考える話もでき,簡単な試作まで始めることができた。
気づけば,森へ来る理由が一つ増えている。
異世界へ来てまだ数日。帰る方法は分からず,仕事は皿洗いで,この世界の文字も読めない。角猪に出会えば,今の理人では戦うより逃げるしかない。
それでも,昨日よりできることは増えていた。
明日のことを,少しだけ楽しみだと思えるくらいには。




