第8話 森に鍋が落ちていた
翌朝,理人は昨日までとは少し違う格好で宿を出た。
正確には,森へ行くと聞いたミレナとガルドに止められ,宿や知り合いから使えそうなものを借り集めた結果だった。
「その格好で森に行くつもりだったの?」
昨日,白いシャツとスラックス姿の理人を見て,ミレナは呆れたように言った。
「昨日までは,これしかなかったので」
「革靴も?」
「これしか」
「よく角猪から逃げられたね」
「自分でもそう思います」
改めて言われると,かなり危なかった気がする。
今日は厚手の布服に,膝の辺りを補強した丈夫なズボンを穿いている。靴も,町の人が森仕事で使うという古い編み上げ靴を借りた。サイズは少し大きく,中に布を詰めて調整してある。
冒険者らしい装備には程遠いが,革靴で森へ入るよりはずっとましだった。
「完全に初心者装備ですね」
「初心者だからな」
弓を背負ったガルドが即答する。腰には短刀があり,小さな革袋もいくつか提げていた。
「否定できません」
「むしろ自覚してるだけ安心だよ」
ミレナも今日は軽装ながら,いつでも武器を抜ける格好をしている。
理人は二人を見比べた。
「鉄屑を拾うだけですよね?」
「森に入るなら準備する」
「浅いところでも?」
「浅いところだからって,魔獣が出ないわけじゃない」
「なるほど」
その言葉だけで,少し背筋が伸びた。
森で目を覚ました日のことは,まだ鮮明に覚えている。角猪の巨体と突進,そして,舌の奥に突然広がったあの嫌な苦味。
町の中で何日か過ごし,少しだけ異世界での生活に慣れ始めていたが,だからといって森まで安全になったわけではない。
「危なかったら戻ります」
理人が先に言うと,ガルドが振り返った。
「それでいい」
「鉄屑のために死にたくないので」
「普通はそうだ」
「安心しました」
横からミレナが笑う。
「冒険者になる人って,そこ結構おかしくなるけどね」
「ならないようにします」
「リヒトはならなそう」
「食材でも道具でも,死んだら使えませんから」
「そこなんだ」
ミレナがまた笑った。
今日は鉄屑を持ち帰るためにも,二人に同行してもらっている。そもそも,森に慣れていない理人が材料欲しさに一人で入るという選択肢はなかった。
「保護者が二人ですね」
「誰が保護者だ」
「少なくとも自分ではないです」
「そこは自覚あるんだ」
「あります」
三人は朝の町を出た。
門の辺りにはまだ人が少なく,荷車が二台と,畑へ向かうらしい男が一人いるだけだった。その横を抜けて森へ向かう道を進む。
理人にとっては,この世界へ来た日に通った道を,今度は逆向きに歩いていることになる。
◇
森の入口で,理人は一度足を止めた。
「どうした?」
「いや……」
ガルドに問われ,理人は目の前の木々を見上げる。
やはり,大きい。
高く伸びた幹の上で葉が幾重にも重なり,その向こう側は昼間でも薄暗い。最初の日は何も分からないまま歩いていたが,今はここに魔獣が棲んでいることも,その魔獣を狩って食べる文化があることも知っている。
「……見え方,変わるな」
「何が?」
「森です」
「同じだぞ」
「自分が違うので」
「難しいこと言うねえ」
ガルドはそう言って森へ入っていった。
理人もミレナとともに続く。
浅い場所だと聞いていても,緊張が消えるわけではない。足元を確かめ,枝の隙間や茂みの奥へ視線を向け,聞き慣れない音がすれば意識がそちらへ引かれる。
そして時折,舌の奥にも意識を向けた。
あの苦味はない。
「また味する?」
後ろを歩くミレナが聞いた。
「今は何も」
「便利そうなのに」
「便利かどうか,まだ分かりません」
「角猪のときは役に立ったじゃん」
「攻撃が来る前に苦くなっただけです。次も同じとは限らないので」
「慎重」
「命かかってますから」
「そういうとこ好き」
理人は少しだけ眉を上げた。
「急ですね」
「性格の話」
「びっくりしました」
「何で?」
「何でもないです」
前を歩くガルドの肩がわずかに揺れていた。
「ガルドさん,笑ってます?」
「笑ってない。静かに歩け」
「肩揺れてますよ」
「気のせいだ」
それから十五分ほど森を進んだが,特に危険なものには出会わなかった。
枝から枝へ飛ぶ小鳥や,木の幹を駆け上がる鼠に似た小動物がいる。遠くから時折,何かの鳴き声が聞こえる程度だ。
「この辺なら安全なんですか?」
「比較的な」
「比較的」
「絶対を求めるな」
「その言葉,この世界に来てからよく聞きます」
「どこでも同じだろ」
「日本だと,町の近くの森で巨大な猪に殺されかけることは,あまりないです」
「ニホンは平和なんだな」
「場所によりますけど」
ガルドはしばらく歩いてから,ふと思い出したように聞いた。
「魔獣はいないんだよな」
「いません」
「魔法も?」
「ありません」
「不便そう」
「電気があります」
「でんき?」
「説明が難しいです」
「ならいい」
「諦め早いですね」
「必要になったら聞く」
その判断は,理人にもかなり合理的に思えた。
◇
「ここだ」
ガルドが足を止めた。
木々の間に小さな空間が開け,中央に崩れかけた石積みと,横倒しになった木の柱が残っている。
「これが昔の猟師小屋ですか?」
「そうだ」
「かなり昔ですね」
「二十年以上は使ってない」
屋根はほとんど残っておらず,壁も半分ほど崩れている。小屋だった場所にまで草が入り込み,何も知らなければただの廃墟として通り過ぎそうだった。
「鉄屑,本当にあります?」
「ある」
ガルドは崩れた壁の裏へ回ると,落ち葉を払い,浅く土を掘った。
「ほら」
「おお」
出てきたのは,赤茶色に錆びた金属片だった。
何かを留めていたらしい金具や曲がった鉄棒,刃の大きく欠けた小刀まである。
「これ,鍛冶屋で使えます?」
「状態が悪くても,溶かすなら使えるものはある」
「じゃあ,拾います」
理人は革袋を開き,ガルドに確認してもらいながら使えそうなものを入れていった。
「結構ありますね」
「昔は罠やら道具やら置いてたからな」
反対側を探していたミレナも,土の中から何かを拾い上げる。
「これ何?」
「罠の部品だな」
「こっちは?」
「鍋の取っ手じゃないか」
「鍋?」
その言葉に,理人は反応した。
「鍋もあるんですか?」
「そこに何かあるよ」
ミレナが崩れた壁の向こうを指した。
草の間に,黒いものが半分ほど埋もれている。
近づいてみれば,確かに鍋だった。丸く黒い胴に,小さな取っ手が左右についている。表面は汚れているものの,先ほどの鉄屑ほど酷く錆びているようには見えなかった。
「これ,まだ使えそうじゃないですか?」
「錆びてるだろ」
「磨けば何とか……」
理人はしゃがみ,取っ手へ手を伸ばした。
その瞬間,鍋がするりと後ろへ下がった。
「……」
伸ばした手が,何もない空間を掴む。
理人はその姿勢のまま数秒止まり,それから振り返った。
「今,動きました?」
「動いたね」
ミレナも目を丸くしている。
「風?」
「鍋が風を避けるように動きます?」
「私も逃げたように見えた」
ガルドは答えず,背負った弓へ手を伸ばした。
それを見て,理人も一歩下がる。
「魔獣ですか?」
「分からん」
黒い鍋は,再び何事もなかったかのように止まっている。
理人は距離を保ったまま観察した。
形はどう見ても鍋だ。地面に半分埋もれていたのだから,風で転がったとも考えにくい。
じっと見ていると,黒い胴がほんのわずかに震えた。
「震えてます」
「見えてる」
ガルドの声が低くなる。
かたん,と小さな音がした。
次の瞬間,鍋が草の上を滑るように走り出した。
「鍋が走った!」
「見れば分かる!」
ミレナが追いかけ,理人も反射的にその後を追った。もちろん捕まえるために危険を冒すつもりはないが,今のところ鍋から敵意らしいものは感じない。
黒い鍋は二人から逃げるように木の陰へ回り込んだ。
「待って!」
「待つ鍋がどこにいる!」
「それもそうですけど!」
木の裏へ回る。
しかし,そこに鍋はいなかった。
「どこ行った?」
ミレナが周囲を見渡し,ガルドは足元へ視線を落とす。
「跡が……」
「鍋に足跡ってあるんですか?」
「知らん」
「ですよね」
そのとき,少し先の茂みで葉が擦れた。
三人が同時にそちらを見る。
木の根元に,古びた木箱が置かれていた。
「……ガルドさん」
「何だ」
「あの箱,さっきありました?」
「ない」
「ミレナさん」
「なかった」
間違いない。
鍋が消れた場所のすぐ先に,それまでなかった木箱がある。
理人はすぐには近づかず,箱と周囲を見比べた。
鍋は消えた。代わりに箱が現れた。
偶然にしては,位置もタイミングも出来すぎている。
「同じもの……ですかね」
「俺もそう思う」
ガルドが弓に手をかけたまま答えた。
理人はゆっくり距離を詰める。
三メートル。
二メートル。
そこまで来たところで,木箱がこちらの動きを窺うように,すっと横へずれた。
「やっぱり!」
直後,箱は勢いよく木の根元へ逃げ出した。
「何なんだこいつ!」
追いながらミレナが笑う。
「笑ってる場合ですか!」
「だって箱が逃げてる!」
「自分も面白いとは思ってますけど!」
木箱は太い根のそばまで逃げると,そこで急に動きを止めた。
次の瞬間,輪郭がぐにゃりと崩れる。
「……」
木目まであった箱が黒い塊のようになり,そのまま細長く伸びていく。形が整ったとき,そこにあったのは地面へ転がった一本の棒だった。
三人とも,しばらく何も言わなかった。
「……棒になったね」
ミレナが先に口を開く。
「なりましたね」
「さっきの箱だな」
ガルドの言葉に,理人は頷いた。
「鍋が箱になって,その箱が棒になった。少なくとも,別々の物じゃなさそうです」
物が勝手に動く。
しかも,同じものが形を変えている。
そこまで確認できれば,次の可能性はかなり絞れる。
「生き物ですかね」
「たぶんな」
「変身する魔獣かもしれん」
ガルドはまだ警戒を解いていない。
「危険ですか?」
「分からん」
「苦くはないです」
「それを基準にするな」
「今のところ,使えた情報ではあるので」
「絶対じゃないんだろ」
「はい。だから近づきすぎません」
理人は棒との距離を保ったまま,しゃがみ込んだ。
「聞こえてます?」
ガルドが怪訝そうな顔をする。
「何してる」
「逃げ方を見る限り,多少は知性があるかもしれません」
「棒に?」
「さっきまで自分たちを避けてましたから」
「……まあ,そうだな」
理人は改めて棒へ向き直った。
「危害を加えるつもりはありません。自分たちは,ここの鉄屑を拾いに来ただけです」
反応はない。
「鍋が使えそうだったので,持って帰ろうとはしましたけど」
棒の先が,ぴくりと動いた。
「反応した」
ミレナが声を弾ませる。
理人もそれを見逃さなかった。
「鍋になれるの,かなり便利そうですね」
棒がもう一度,わずかに震えた。
「褒められて喜んでない?」
「まさか」
ガルドはそう言ったが,理人には試してみたいことができた。
「すごいと思いますよ。鍋にも箱にも棒にもなれるなら,使い道がかなりありそうです」
棒が今度は明らかに揺れた。
その直後,ぼふっと白っぽい煙が広がる。
「うわっ」
三人が揃って一歩下がった。
煙はすぐに薄れ,その向こうに何かが現れる。
「……狸?」
理人の口から,思わずその言葉が出た。
大きさは中型犬ほど。茶褐色の毛に丸い耳,目の周りには濃い色の模様があり,後ろには太い尻尾が伸びている。
日本で見た狸によく似ていた。ただし,少し大きい。
そして,なぜか前脚を胸元で組み,得意そうにこちらを見上げている。
理人も見つめ返した。
思っていたより丸い。
毛も,かなり柔らかそうだ。
……これは,かなりいいな。
手を伸ばしたら気持ちよさそうではある。
もちろん,初対面の魔獣にいきなり触るほど理人も無謀ではない。
「狸ですね」
「タヌキ?」
ミレナが聞き返す。
「自分の国に,よく似た動物がいます」
「こいつは変化狸だな」
ガルドが言った。
「知ってるんですか?」
「種族はな。変化狸は,他の獣なんかに姿を変える魔獣だ」
「動物に?」
「ああ。鳥だったり,狼だったり。個体によって得意不得意はあるが」
理人はもう一度,目の前の狸を見る。
「じゃあ,鍋になるのは?」
「俺は聞いたことないな」
狸の丸い耳が,わずかに下がった。
「珍しいんですか?」
「珍しいっていうか……」
ガルドが言葉を探し,首を傾げる。
「変だな」
「言い方」
ミレナに突っ込まれたが,狸の耳はさらに少し下がった。
その動きを見て,理人は表情を改める。
「生き物には,変われないんですか?」
「……」
狸がこちらを見る。
少し間を置いてから,口を開いた。
「悪いかよ」
理人は固まった。
ミレナも目を丸くし,ガルドまで眉を上げている。
「……喋った」
「喋るわ!」
狸が怒鳴った。
「いや,すみません」
「何だと思ってた!」
「鍋」
「最初から鍋なわけあるか!」
「それもそうですね」
「リヒト,謝るところそこ?」
ミレナが堪えきれずに笑い出す。
狸は不満そうに鼻を鳴らした。
「お前ら,何しに来たんだよ」
「鉄屑を拾いに来ました」
「何で」
「調理道具を作りたくて」
「料理?」
「はい」
狸の耳が少し持ち上がった。
「何作る」
「ハンバーグです」
「知らん」
「ですよね」
「肉か?」
「肉です」
「食える?」
「ちゃんと作れば」
「ちゃんと?」
「今はまだ,そこまでうまくできてません」
横でミレナが口を挟む。
「一回目はまずかったよ」
「何で知ってるんですか」
「有名だから」
「そんなに?」
狸が理人をじっと見る。
「お前,まずい肉作るのか?」
「今は改善中です」
「下手なのか」
「……料理はそれなりにできる方です」
「まずいんだろ?」
「初回は」
「下手じゃん」
理人は少し眉を寄せた。
「この狸,結構言いますね」
「聞こえてるぞ!」
「そうでした」
ミレナがまた笑い,理人もつられて少し笑った。
狸も不機嫌そうにしているが,口元がほんのわずかに動いたように見えた。
「で」
狸が理人を見る。
「鉄で何作るんだ」
「肉を細かくする道具です」
「包丁じゃ駄目なのか」
「細かさを揃えるのが難しいので」
「ふーん」
理人は両手で大まかな形を示した。
「本当は,筒みたいな部分があって,中に螺旋状のものが入ってるんです」
「らせん?」
「ぐるぐるした形です。肉を入れると,それが回って前へ押す」
「どうやって回す」
「外のハンドルで。それで最後に刃で切って,穴の開いた板から押し出す」
「簡単じゃん」
理人は止まった。
「……簡単?」
「形だろ?」
「構造があります」
「形が分かればいいんじゃねえの?」
「よくないです」
「何で」
狸が本気で不思議そうに首を傾げる。
その反応を見て,理人は少し考えた。
「……もしかして」
狸を見る。
「あなた,見たものに変身するんですか?」
「見たものだけじゃない」
「じゃあ?」
「分かるもの」
「分かるもの?」
「形とか,硬さとか。どうなってるかとか」
理人の目が少し細くなる。
「中の構造まで?」
「分かれば」
理人は思わず一歩近づき,狸が警戒して半歩下がった。
「何だよ」
「肉挽き器に,なれません?」
「にくびきき?」
「今説明した道具です」
「だから知らねえよ」
「もっと詳しく説明したら?」
「分かればな」
理人の頭の中で,先ほど見たものがつながっていく。
鍋,箱,棒。
生き物ではなく,物へ姿を変える。
しかも単に外見を真似るのではなく,形や硬さ,構造を理解することが条件らしい。
「……ミンサー」
「何だそれ」
「いや。少し試してもいいですか?」
理人は持ってきていた荷物から,折り畳んだ紙と炭筆を取り出した。
「何でそんなもの持ってるんだ」
ガルドが訊く。
「拾う金属の形をドランさんに説明するとき,使うかもしれないと思って」
「準備するところ,そこなんだな」
理人はその場へ紙を置き,まず単純な筒の絵を描いた。
「これは分かります?」
狸が横から覗き込む。
「筒だろ」
「中は空洞です。肉を上から入れる」
「それくらいなら分かる」
「じゃあ,これは?」
次に,丸い板へいくつも穴を開けた図を描く。
「板に穴が開いてる」
「そうです。この穴から細かくなった肉を出したい」
「それも分かる」
理人は続けて,中に螺旋と刃らしきものを描いてみた。
「問題はこっちです」
狸はしばらく紙を見つめた。
「これ,どう動く」
「この螺旋が回って,肉を前へ送ります」
「何でこの形だと前へ行く?」
「……それを説明しろと言われると,自分も完全には」
「駄目じゃん」
「そうなんですよ」
「刃は?」
「ここで切るはずです」
「どういう形だ」
「そこも,あまり正確には覚えてません」
「全然駄目じゃねえか!」
「それは自覚してます」
狸が呆れたように目を細める。
理人は紙を見ながら,昨日ドランに言われたことを思い出した。
現代の機械を,曖昧な記憶だけで再現しようとしても無理がある。
なら,今できるところまで分解すればいい。
「じゃあ,まず筒だけ試せます?」
「それなら」
狸の体が白い煙に包まれた。
煙が消れると,地面に理人の腕ほどの太さの筒が転がっていた。上から覗けば中は空洞で,先ほど描いた図と大きくは違わない。
「おお……」
理人はしゃがみ込み,横からも確認する。
「喋れます?」
「喋れるわ!」
筒から声が返ってきた。
「すみません」
「お前それ二回目だぞ!」
ミレナがとうとう腹を抱えて笑い始め,ガルドまで口元を押さえている。
「何笑ってる!」
「いや,すまん」
「笑ってるじゃねえか!」
理人は笑いを堪えつつ,筒を持ち上げた。
見た目は金属らしいが,予想していた鉄の筒ほど重くない。
「重さは,元の姿とあまり変わらないんですか?」
「大きくは変わらねえ」
「材質は?」
「鉄っぽくした」
「鉄そのものでは?」
「知らん。硬くしただけだ」
「なるほど」
本物の鉄や鋼そのものへ変わっているとは限らない。それでも,手で押した程度では簡単に曲がらず,道具として使えるくらいの硬さはありそうだった。
「じゃあ,穴の開いた板は?」
「見せろ」
理人が図を指す。
再び煙が上がり,今度は掌ほどの丸い板が地面へ落ちた。表面には,大きさの揃った穴が並んでいる。
理人は拾い上げ,光へ透かす。
「これもできる」
「単純だからな」
「刃は?」
「だから分からねえって」
「螺旋は?」
「どう動くかちゃんと分からねえから無理」
「ですよね」
理人は頷いた。
そこで無理に試させる意味はない。
理人自身が構造を理解していないものを,目の前の狸だけに理解しろという方がおかしい。
「でも……面白いですね」
「何が」
穴の開いた板から,狸の声が返ってくる。
「すごく面白いです」
一瞬,返事が止まった。
「……本当に?」
「はい」
理人は即答した。
「鍋にもなれるし,箱にも棒にもなれる。単純な筒や穴の開いた板なら,一度形を理解すればかなり正確に変われる」
「まあな」
「しかも,構造を一緒に考えていけば,もっと道具として使える形にもできるかもしれない」
「……一緒に?」
「自分もミンサーの中身を正確には知りませんから。考えて,試して,駄目だったら直す。それならできると思います」
ぼふっと煙が上がり,狸の姿へ戻る。
先ほどまで少し下がっていた耳が,今は立っていた。
「そんなに便利か?」
「少なくとも,自分にはかなり便利に見えます」
「変じゃねえのか」
「普通の変化狸と違うという意味では,変わってるんだと思います。でも,役に立たないとは全然思いません」
理人は紙の上の筒と穴の開いた板を指した。
「むしろ,普通の狸ができないことができるなら,そっちの方が面白いです」
狸は少しだけ目を丸くした。
それから,何でもないように顔を逸らす。
「……変な人間だな」
「最近それ,よく言われます」
口ではそう言ったものの,太い尻尾が先ほどより少しだけ高くなっている。
理人はそれに気づいたが,何も言わなかった。
「そういえば,名前は?」
「ない」
「ない?」
「群れなら匂いで分かる」
「なるほど」
魔獣なら,人間とはその辺りの感覚も違うのだろう。
「でも,呼びにくいですね」
「お前が勝手に呼べ」
「勝手に……」
理人は改めて目の前の狸を見る。
丸い。茶色い。太い尻尾。
そして,どう見ても狸だった。
「タヌキで」
「種族名じゃねえか!」
「ですよね」
「もっと考えろ!」
「じゃあ,後でちゃんと考えます」
「今考えろ! 俺の名前だぞ!」
「確かに」
理人は今度こそ真面目に考えた。
最初に見た姿は鍋。
次が箱。
その次が棒。
変身する狸。
「……ナベ」
「嫌だ!」
「即答」
「当たり前だ!」
ミレナがとうとうしゃがみ込んで笑い始める。
「ミレナさん,何か案あります?」
「む,無理……ナベは駄目……」
「笑いすぎです」
「お前も笑うな!」
狸がミレナを睨みつける。
「ごめん,ごめん」
言葉とは裏腹に,まったく申し訳なさそうではなかった。
理人はもう一度狸を見る。
「名前は,今度ちゃんと考えます」
「本当に?」
「こういうの,適当に決めるのは嫌なので」
「……ならいい」
狸は少しだけ納得したようだった。
「それで,ここで暮らしてるんですか?」
「今は」
「一人で?」
「悪いか」
「悪くはないです」
返事の仕方に少し引っかかり,理人は続けた。
「群れは?」
「……」
狸の耳が目に見えて下がった。
「別に」
短い返事だった。
理由までは分からない。ただ,それ以上訊いてほしくないことだけは伝わってくる。
「分かりました」
理人はそこで話を切った。
今会ったばかりの相手だ。話したくなれば,そのうち話すだろう。
「鉄,拾うんだろ」
逆に狸から言われ,理人は本来の目的を思い出した。
「あ,そうでした」
「忘れてた」
ミレナが笑う。
「少しだけです」
「料理以外もちゃんと覚えてな」
「気をつけます」
◇
その後,三人は三十分ほどかけて鉄屑を集めた。
古い刃物や留め具,形の崩れた金具などをガルドが一つずつ確認し,使えそうなものだけを袋へ入れていく。
「これくらいあれば十分だろ」
「結構重いですね」
「持てるか?」
「三人で分ければ」
理人は一つの袋を持ち上げてみた。
「……重い」
「今言ったばかりだろ」
「実際に持つと,想像より」
「貸せ」
ガルドが中身の半分を自分の袋へ移す。
「ありがとうございます」
「無理するな」
「はい」
帰る準備を終え,理人はふと後ろを振り返った。
狸は少し離れた倒木のそばに座り,こちらを見ている。
「じゃあ,また」
「……」
返事はない。
「町の宿にいます」
「知ってる」
「何で?」
「人間の話,聞いてるから」
「なるほど」
三人が歩き出そうとしたところで,背後から声が飛んできた。
「はんばーぐっての」
理人が振り返る。
「はい」
「うまくなったら……」
「なったら?」
狸は一度口を閉じ,少しだけ視線を逸らした。
「食わせろ」
理人は小さく笑った。
「今でも昨日よりはましですよ」
「まずいって聞いた」
「情報源,ミレナさんですよね」
「違う」
「じゃあ誰から」
「森の鳥」
「嘘ですよね」
「……」
「今,目を逸らしましたね」
「うるさい!」
狸が怒鳴る。
「分かりました」
理人は頷いた。
「次は持ってきます」
「まずいのはいらんぞ」
「そこは努力します」
「絶対うまいやつ!」
「ハードル上げますね」
「言ったからな!」
そう言った狸の体が煙に包まれ,次の瞬間には古びた木箱の姿になっていた。
理人は少し首を傾げる。
「何で箱に?」
返事はない。
「照れてるんじゃない?」
ミレナが楽しそうに言う。
「まさか」
「分かんないよ」
理人は木箱を見た。
ただの箱のはずなのに,先ほどまでの狸を知っているせいか,どことなく不機嫌そうに見える。
「……また来ます」
やはり返事はなかった。
三人はそのまま猟師小屋跡を離れた。
◇
町への帰り道,先頭を歩くガルドが口を開いた。
「珍しいやつだったな」
「狸ですか?」
「ああ。変化狸そのものは珍しくないが,物に化けるやつは俺も見たことがない」
「やっぱり変わってるんですね」
「かなりな」
「強いんですか?」
「戦うなら,どうだろうな」
ガルドは少し考えた。
「普通の変化狸なら,大きな獣に化けて逃げたり,場合によっては戦ったりできる」
「でも,あの狸は……」
「鍋」
「鍋ですね」
「戦えんな」
「投げたら」
「鍋を?」
「冗談です」
たぶん。
理人は森の道を歩きながら,先ほどの変身を思い返す。
「でも,料理や道具作りにはかなり向いてます」
「そこに行くんだな」
「鍋になれるんですよ?」
「鍋なら買える」
「包丁みたいな単純な刃物にも,そのうちなれるかもしれない」
「包丁も買える」
「ミンサーにも」
「それは知らん」
「だからです」
理人は少し前を向いた。
「自分も構造を正確には知らない。でも,一緒に考えて試せるなら,少しずつ近づけるかもしれません」
「人じゃなくて,狸と?」
「はい」
「変だな」
「言われ慣れてきました」
後ろから,ミレナが楽しそうに声をかける。
「リヒト,あの狸かなり気に入ったでしょ」
「能力はかなり」
「能力は?」
「はい」
「ふーん」
「何です?」
「別に」
何か含みがあるような言い方だったが,理人はそれ以上聞かなかった。
代わりに,先ほどの狸の姿が頭に浮かぶ。
丸い耳と太い尻尾。
茶褐色の毛。
かなり,触り心地がよさそうだった。
「……」
「リヒト?」
「何でもないです」
理人は少しだけ歩く速度を上げた。
別に,もふもふしたいと思ったわけではない。
少なくとも,まだ。
◇
その日の夜。
理人は机の上に,昨日描いた肉挽き器の図を広げていた。
隣には新しい紙があり,そこには筒と穴の開いた板,刃らしきもの,押し込み棒を描いてある。
さらにその横には,狸の絵。
「……」
我ながら,下手だ。
「これじゃ狸に見えないな」
少し描き直してみる。
先ほどよりはましになった。
その周囲に,鍋,箱,棒の絵を加える。
構造を理解すれば,その形になれる。
なら,先に自分が構造を理解すればいい。
昨日までは,曖昧な記憶をどうやって鍛冶屋へ伝えるかしか考えていなかった。
今は違う。
理人が考え,あの狸が試す。
できなければ,どこが分からないのかを確かめて,また考える。
すぐにミンサーが作れるわけではない。
けれど,道具を作るためのやり方が一つ増えた。
「……面白いな」
理人は小さく呟いた。
紙の端へ,自分にしか読めない日本語で書き込む。
『次回 ハンバーグを持っていく』
そこまで書いてから,ペンを止めた。
「まず,うまくしないとな」
あの狸に,またまずいと言われるのは。
少し。
いや,かなり嫌だった。




