第10話 ぽんた
「名前を考えました」
そう切り出すと,目の前の狸がわずかに身を乗り出した。
前に会ったとき,理人は「名前を考えておく」と約束している。本人も気にしていたらしく,丸い目にはいつもより明らかな期待が浮かんでいた。
「おう」
「ぽんた」
狸の動きが止まった。
森の小さな開けた場所に,数秒の沈黙が落ちる。
「……」
「ぽんたです」
「聞こえたわ!」
勢いよく返され,理人は目の前の狸を改めて眺めた。
丸い耳に茶褐色の毛,目の周りの濃い模様,そして太い尻尾。どう見ても,理人の中ではかなりしっくりきている。
「合ってると思います」
「どこが!」
「狸っぽいです」
「俺は狸だ!」
「だからです」
狸が前脚で地面を叩いた。
「三日考えてそれか!?」
「正確には二日です」
「どっちでもいい!」
少し離れたところでは,今日も護衛についてきたガルドが肩を揺らしている。
理人としては,かなり真面目に考えたつもりだった。少なくとも,最初に頭へ浮かんだナベよりはいい。その点についてだけは自信がある。
「嫌ですか?」
「もっとあるだろ!」
「例えば?」
「もっとこう……聞いただけで,こいつは強そうだって分かる名前だよ」
狸は胸を張り,いかにも勇ましい名前を待っている顔をした。
理人は少し考える。
「剛鉄」
「お」
「烈火」
「おお」
「絶牙」
「それ!」
狸の目が輝いた。
「絶牙がいい!」
「でも,牙,そんなに大きくないですよね」
「何で今だけ冷静になるんだよ!」
ガルドがとうとう声を上げて笑った。
「俺はぽんたでいいと思うぞ。似合ってる」
「お前に聞いてない!」
「呼びやすいしな」
「それも大事です」
「味方するな!」
狸はガルドを睨みつけてから,もう一度理人へ向き直った。
理人としては,呼びやすさはかなり重要だった。何度も呼ぶことになる相手なら,なおさらである。
「本当に嫌なら,別の名前にしますよ」
「……」
「絶牙でも」
「……」
「これから毎回そう呼びますけど」
狸の耳がわずかに伏せられた。目を逸らしたまま少し考え,やがてぼそりと言う。
「……ぽんたでいい」
「いいんですか?」
「絶牙はちょっと」
「自分で言ったでしょう」
「今考えたら恥ずかしい!」
そこを恥ずかしいと思う感覚はあるらしい。
理人は少しだけ安心した。
「じゃあ,ぽんた」
「……おう」
初めて名前で呼ぶと,ぽんたは一瞬だけ返事を遅らせた。それでも,きちんと理人を見て答える。
昨日まで何もなかった場所に,呼べば返ってくる言葉が一つ増えた。
それだけのことなのに,少しだけ距離が縮まったような気がした。
「これからもよろしくお願いします」
「急に何だよ」
「名前が決まったので」
「昨日までと何か変わるのか?」
「呼びやすくなります」
「結局そこか!」
ぽんたはまた前脚で地面を叩いた。
ただ,その後ろで太い尻尾が一度だけ左右に揺れていた。
◇
「それで,今日はこっちです」
理人は持ってきた紙を地面へ広げた。
「また肉のやつ?」
「はい」
「飯は?」
「先に持ってきました」
布包みを少し持ち上げると,ぽんたの視線がすぐにそちらへ吸い寄せられた。
「ハンバーグ?」
「今日は違います」
耳がわずかに下がる。
「角猪の肉を焼いてきました」
「焼いただけ?」
「塩と香草,あと少し黒香子も使ってます」
「ふーん」
「嫌なら自分で食べますけど」
「食う」
「早いですね」
ぽんたは前脚を揃え,先ほどより少し行儀よく座り直した。食べ物のことになると,本当に分かりやすい。
「食べ物は粗末にするなって,人間はよく言うだろ」
「便利な言葉を覚えてますね」
「人間がよく言ってる」
「人里を見てるんでしたね」
以前聞いた話では,森の近くを通る人間や町外れの様子を眺めているうちに,共通語を覚えたらしい。
「文字は?」
「読めん」
「自分と同じですね」
「お前,人間なのに?」
「異世界から来たので」
「いせかい?」
ぽんたが首を傾げる。
「この辺の出身じゃない,くらいに思っておいてください」
「ふーん」
あっさりしたものだった。それ以上掘り下げる様子もない。
理人としても助かる。自分でもよく分かっていない転移について,今ここで詳しく説明しろと言われても困るだけだ。
「で,今日は何になるんだ?」
ぽんたが紙へ鼻先を寄せる。
「まず,前にやった包丁をもう少し詳しく試したいです」
「また?」
「どのくらいちゃんと道具になれるのか,知っておきたいので」
「最初からそう言えよ」
「最初からそう言いました」
「もっと難しく言ってた」
「正確に説明したかったんです」
「面倒くさい人間」
「よく言われます」
そう言いながら,理人は紙を脇へ寄せた。
確認したいこと自体は難しくない。
ぽんたの変化が,ただ見た目を似せるだけなのか。それとも,厚さや硬さまである程度変え,道具として使いやすい形へ近づけられるのか。
そこが分かれば,肉を細かくする道具へも応用できるかもしれない。
「では,包丁をお願いします」
「分かった」
ぼふっ,と煙が上がる。
煙が消えると,地面の上に一本の包丁が転がっていた。
理人が拾い上げる。
「形,変えました?」
「前に,お前が使ってたやつ見た」
「マルタさんの包丁ですか?」
「そう」
前に試したものより刃幅があり,形も宿の厨房で使っている包丁に近い。持った感触も前回とは少し違ったが,どこをどう変えたのかは,見ただけでは分からなかった。
「少し試しますね」
「何切る?」
「今日は野菜です」
「よし」
「前は骨,嫌がってましたもんね」
「当たり前だ!」
手の中の包丁から声がする。
何度見ても妙な光景だった。
理人は持ってきた涙玉を板へ置き,ゆっくり刃を入れた。
するりと通る。
予想していたより,ずっときれいに切れた。
「前より切りやすいですね」
「だろ」
「刃が薄くなってる」
「見たからな」
「硬さも違います?」
「昨日より硬くした」
理人の手が止まった。
「自分で変えられるんですか?」
「少しくらいなら」
「どうやって?」
「どうやってって……」
ぽんたはしばらく考えた。
「こう……硬くする」
「説明になってませんね」
「お前の熱のやつだって似たようなもんだろ!」
そう言われると,反論できなかった。
《熱交換》も,「どういう仕組みで熱を動かしているのか」と聞かれれば説明できない。こちらからあちらへ熱を移す,と意識すれば何となく動く。だが,その間に何が起きているのかは理人にも分からなかった。
ぽんたも同じなのだろう。
「なるほど」
「分かったか?」
「分からないことが分かりました」
「ずるい言い方するな」
理人は苦笑しながら,再び涙玉を切った。
細く切ってから向きを変え,今度は細かく刻んでみる。刃は思った以上に素直に動き,柔らかい野菜を切る分にはほとんど困らない。
「かなりいいですね」
「すごい?」
「すごいです」
「だろ」
包丁の姿では表情こそ分からないが,声は分かりやすく弾んでいた。
ならばと,理人はもう一つ試す。
「刃をもう少し細くできますか?」
「どれくらい?」
「今の半分くらい」
「やってみる」
一度ぽんたの姿へ戻り,再び煙が上がった。
今度は細身の包丁である。
理人は柄を握り,すぐに首を傾げた。
「……柄が太いですね」
「刃を細くしたから」
「その分,こっちに回った?」
「たぶん」
理人は握り直してみる。
刃は先ほどより細くなった一方で,柄が妙に太く,かえって扱いづらい。
「切る方はよくなっても,握りにくくなるわけですか」
「注文多い!」
「でも,これで一つ分かりました」
「何が」
「一か所だけ都合よく変えるのは難しそうです」
刃を薄くすれば,余った分が別の場所へ寄る。少なくとも,ぽんたは好きなだけ体の量を増やしたり減らしたりできるわけではないらしい。
「じゃあ,柄も細くする?」
「今度はどこか別の部分が厚くなるかもしれません」
「面倒だな」
「そこを試すんです」
「お前の料理も,毎回そんなことしてるのか?」
「似たようなものですよ」
調味料を増やせば別の味が強くなり,火を強くすれば焼き目はついても中へ火が入りすぎることがある。一つ直せば全部うまくいく,ということの方が少ない。
「だから,一緒です」
ぽんたが黙った。
少ししてから,小さな声が返ってくる。
「俺も,失敗していい?」
「当然でしょう」
理人は考えるより先に答えていた。
「最初から全部できる方がおかしいです」
「……できないと怒るぞ」
今度は理人が黙った。
「誰が?」
「別に」
「群れですか?」
「……」
包丁のまま,ぽんたは何も答えない。
聞いてほしくないということだけは分かった。
理人はしばらく待ち,それ以上追わずに柄へ視線を戻した。
「では,次は柄を少し細くしてみましょう」
「……おう」
今はそれでいい。
話したくなったら,そのとき聞けばいい。
◇
それから一時間ほど,二人は形を変えては試し,使っては直す作業を繰り返した。
包丁では刃と柄の釣り合いを変え,木べらに似た形では薄く広げたときのしなり具合を確かめる。小鍋のように大きく広がろうとすると底や縁が薄くなりすぎ,逆に肉叩きのような小さく厚い道具では,ある程度しっかりとした硬さを出せた。
どの形でも,ぽんたが一度で完璧に合わせられるわけではない。
理人が実際に持ってみて,「ここが太い」「ここはもう少し硬い方が使いやすい」と伝え,ぽんたがもう一度やり直す。一つ直せば別のところがおかしくなり,そこを変えれば今度は重さのかかり方が変わる。
それでも,最初よりは確実に道具らしくなっていった。
「待て」
肉叩きの形になっていたぽんたが,不意に声を上げた。
理人は振り下ろしかけていた手を止める。
「どうしました?」
「疲れた」
「疲れるんですか?」
「当たり前だろ!」
「変わるのに魔力を使ってる?」
「使う」
「どのくらいです?」
「知らん」
「何回くらいなら大丈夫とか」
「知らん」
「時間は?」
「知らん!」
ぼふっ,と煙が上がる。
元の姿へ戻ったぽんたは,その場へどさりと尻をついた。先ほどまで立っていた耳も少し下がっている。
理人はすぐに紙と道具を脇へ寄せた。
「今日はここまででもいいですよ」
「腹減った」
「魔力切れですか?」
「腹減った」
「それとは別です?」
「腹減った!」
「分かりました」
聞き取りは諦め,理人は布包みを開いた。
中に入っているのは,角猪の香草焼きである。塩と黒香子に加え,市場で安く分けてもらった香草を少し使った。
肉の匂いが広がった途端,先ほどまでぐったりしていたぽんたの目に露骨に力が戻る。
「本当に魔力切れなんですか?」
「食えば治る」
「それ,ただの空腹じゃないですか」
「細かい!」
理人は包みに使っていた大きな葉を広げ,肉をぽんたの前へ置いた。
「食べていい?」
「どうぞ」
ぽんたがかぶりつく。
一口,二口と噛むうちに,太い尻尾が左右へ揺れ始めた。
「どうです?」
「普通」
「もう騙されませんよ」
「何が?」
「尻尾です」
尻尾がぴたりと止まった。
「これは……」
「風ですか?」
「……」
「今日は少し吹いてますけど,尻尾だけ左右には振れないと思います」
「……うまい」
「素直でいいですね」
「うるさい」
ぽんたは不満そうに言いながらも,肉を食べる速さは落ちなかった。
理人もその隣へ腰を下ろし,自分の分を一切れ口へ運ぶ。
悪くない。
角猪の肉も,部位を選び,筋を外し,焼きすぎなければ普通にうまい。最初に食べたときは,ただ硬い肉だと思っていた。
同じ肉でも,扱い方を知ればかなり変わる。
「これ」
肉を噛みながら,ぽんたが顔を上げた。
「ハンバーグよりうまい?」
理人は少し考えた。
「別物ですね」
「どっち?」
「比べにくいです」
「逃げた」
「焼いた肉とハンバーグは,食べたいときが違うでしょう」
「やいたにく?」
「今食べてるみたいなのです」
「じゃあ,これ好き」
「ハンバーグは?」
「好き」
「それならよかったです」
ぽんたはまた一口かじり,しばらく噛んでから言った。
「でも,俺はもっと肉っぽい方が好きだな」
「肉っぽい?」
「ハンバーグ,柔らかいだろ」
「それがいいんですけどね」
「俺はもっと噛みたい」
「なるほど」
理人は食べかけの肉を見た。
好み。
当たり前のことだが,日本にいた頃はそこまで考えてハンバーグを作ったことがなかった。自分が好きなハンバーグを,自分が食べたいように作っていたからだ。
だが,ぽんたは違うらしい。
「粗挽きなら合うかもしれません」
「何だそれ」
「肉を細かくしすぎず,大きめの粒を残したハンバーグです。今より噛みごたえが出ます」
「できる?」
「できます」
「そっちがいい」
「じゃあ,今度試してみましょう」
「いつ?」
「明日は無理です」
「何で」
「毎日ハンバーグを作ってたら仕事にならないので」
「皿洗いだろ」
理人の動きが止まった。
「……誰から聞いたんです?」
「ガルド」
少し離れた木にもたれていたガルドが,知らん顔で森の奥を見ている。
「余計なことを」
ぽんたが楽しそうに笑った。
◇
食事を終え,理人が包みを片づけ始めると,ぽんたが身体を起こした。
「続きやる?」
理人は少し意外に思って顔を上げる。
「疲れてないんですか?」
「食った」
「回復が早すぎません?」
「もうできる」
「無理しなくていいですよ」
そう言うと,ぽんたが理人をじっと見た。
「お前,やりたくないのか?」
「自分はやりたいですけど」
「ならやる」
「でも,さっき疲れたって」
「俺が決める」
言い切ったぽんたの耳は,先ほどまでよりしっかり立っていた。
理人は一度様子を見てから,小さく笑う。
「分かりました。少しだけにしましょう」
「おう」
「では,一番簡単な肉挽き器からです」
「みんさー」
理人は再び紙を広げた。
本物のミンサーが,もっと複雑な仕組みをしていることくらいは知っている。だが,内部でどんな形の部品がどう動いているかまでは分からない。
日本では,完成したものを買って使う側だった。
「本物のミンサーは,まだ作れません」
「何で?」
「自分が中の構造をちゃんと理解してないので」
「知らないんだな」
「はい。なので,分かるところから試します」
理人は紙へ簡単な図を描いた。
「まず,穴の開いた板へ肉を押しつけます」
「それだけ?」
「最初はそれだけです。押すための棒は別に用意します」
ぽんたが紙を覗き込む。
「それ,俺じゃなくても作れない?」
「作れると思います」
「じゃあ俺いらないじゃねえか」
「でも,普通の板なら穴の大きさを変えるたび作り直さないといけません」
「……」
「ぽんたなら,試して駄目だったら,その場ですぐ形を変えられるでしょう」
「それ,便利?」
「ものすごく便利です」
ぽんたの耳がぴんと立った。
「……やる」
「お願いします」
本当に分かりやすい。
「穴はいくつだ?」
「まず九個で」
「大きさは?」
「これくらいです」
「厚さ」
「……これくらいで」
理人が指で幅を示すと,ぽんたが呆れた声を出した。
「適当だな」
「試作ですから」
「便利な言葉だな,それ」
「便利ですよ」
ぼふっ,と煙が広がった。
そこへ現れたのは,手のひらより少し大きい丸い板だった。九個の穴が並んでいる。
「おお」
「どう?」
「かなりいいです。まず使ってみます」
理人は持ってきた生の角猪肉を少量取り出した。硬い筋はあらかじめ外してある。
肉を穴へ当て,木の棒で押す。
「……」
動かない。
「硬いですね」
「俺じゃないぞ」
「肉がです」
「知ってる」
理人は少しずつ力を加えた。
やがて穴の向こう側から,にゅっと肉が押し出される。
「出た」
「どうだ?」
理人は押し出された肉を指先で確かめた。
「穴が少し小さいですね。もう少し広げてもらえます?」
「分かった」
一度狸の姿へ戻り,穴を広げてやり直す。
今度は先ほどより軽い力で肉が通った。
「お,出るな」
「でも,これだと……」
「何?」
「ただ押し出しただけです」
形こそ細くなっているが,肉の繊維は長いまま残っている。これでは挽いたとは言いにくい。
「繊維を切らないと駄目ですね」
「じゃあ,刃だな」
「必要そうです」
理人が頷くと,ぽんたは板から元の姿へ戻り,少し考え込んだ。
「俺,刃にもなれるよな」
「さっきなってましたね」
「板のまま,刃も作れないか?」
理人はぽんたを見る。
「体の一部を板にして,穴のところだけ刃みたいにする?」
「そう」
「できます?」
「……分からん」
「無理なら,今日はここまででも」
「やる」
「いや,分からないなら無理しなくても」
「やる!」
急に意地になった。
理人が止めるより先に,ぼふっと煙が上がる。
しばらくして煙が消えると,先ほどの丸い板が地面にあった。
ただし,今度は穴の内側に,小さな突起がいくつもついている。きれいな刃とは呼べないが,薄く尖らせようとしていることは分かった。
「ぽんた?」
「……できた」
返ってきた声が少し苦しそうだった。
「大丈夫ですか?」
「やれ」
「無理してません?」
「いいから,早く」
理人は迷ったが,すぐにやめられるよう少量だけ試すことにした。
肉を当て,棒で押す。
先ほどより抵抗が強い。
それでも押し込むと,肉が穴を通り抜けていく。
理人は出てきた肉を手に取った。
「……切れてる」
「本当か?」
「はい。まだ長いところは残ってますけど,さっきより明らかに繊維が切れてます」
均一な挽肉とは言えない。
それでも,ただ穴から押し出しただけの肉とは違っている。
一歩,確実に近づいた。
「すごい」
「……」
「ぽんた」
「何だよ」
「すごいです,これ」
一瞬,返事がなかった。
「……そうか」
声が少しだけ小さくなる。
板の姿では耳も顔も見えないのが惜しいと思ったところで,声に疲れが混じっていることに理人は気づいた。
すぐに木の棒を置く。
「戻ってください」
「まだできる」
「十分です」
「でも」
「改善するところも分かりました。今日はここまででいいです」
数秒の沈黙のあと,煙が上がった。
元の姿へ戻ったぽんたは,その場へ伏せる。
「疲れた」
「やっぱり無理してたじゃないですか」
「でも」
ぽんたは,板の向こうへ押し出された肉を見た。
「できたな」
「できました」
「俺,みんさー?」
「まだ試作一号です」
「……」
「でも,かなり近づきましたよ」
「本物に?」
「はい」
ぽんたの尻尾が,地面の上をゆっくり左右へ動いた。
理人は押し出された肉とぽんたを交互に見てから,何となく口にする。
「ぽんたミンサー」
「何だそれ」
「今の道具です」
「ださい!」
「分かりやすいですよ」
「もっと格好いい名前にしろ!」
理人は少し考えた。
「絶牙式肉挽き器」
「……」
「どうです?」
「ぽんたミンサーでいい」
「そうですか」
「笑うな!」
「笑ってません」
今度は本当に少し笑っていた。
◇
森を出る時間になり,理人は持ってきたものをまとめた。
「では,今日は帰ります」
「明日来る?」
「仕事次第ですね」
「じゃあ明後日?」
「来られたら」
ぽんたは露骨に不満そうな顔をした。
「ハンバーグなら,三日後くらいには試せるかもしれません」
「来い」
「ハンバーグが?」
「お前も!」
理人は少しだけ目を見開いた。
ぽんたは言ってから気まずくなったのか,ぷいと顔を逸らす。
「道具の続き,あるだろ」
「そうですね」
「まだ完成してないし」
「はい」
「だからだ」
「分かりました」
理人は頷いた。
「また来ます」
「絶対?」
「絶対とは言いません」
「何で!」
「ここは森ですから」
ぽんたが黙る。
「安全に来られるときは来ます。それなら約束できます」
「……変なところ真面目だな」
「大事なので」
ぽんたは鼻を鳴らした。
理人が荷物を持って立ち上がると,後ろから声がかかる。
「リヒト」
「何です?」
「その……名前」
「ぽんた?」
耳がわずかに動いた。
「嫌になりました?」
「違う」
ぽんたは視線を逸らしたまま,少しだけ間を置いた。
「まあまあだ」
「まあまあ?」
「だから……」
太い尻尾が一度だけ揺れる。
「変えなくていい」
理人は思わず少し笑った。
「分かりました」
「笑うな!」
「笑ってません」
「笑ってる!」
「では,ぽんた」
「……おう」
「また」
「おう」
今度の返事には,ほとんど間がなかった。
理人はガルドとともに森を出た。
今日は後ろを振り返らなかった。
また来ればいいと思えたからだ。
◇
その日の夜。
「ぽんた?」
夕食の支度をしていたマルタが,聞き慣れない名前を繰り返した。
「はい」
「狸に?」
「はい」
「そのまんまだねえ」
「似合ってると思います」
「本人は?」
「まあまあだそうです」
マルタは鍋を混ぜながら笑った。
「それ,気に入ってるじゃないか」
「そうなんですかね」
「本当に嫌なら返事しないよ」
理人は少し考える。
「確かに」
「それで,今日は何してきたの?」
「肉挽き器を作りました」
マルタの手が止まった。
「作れたのかい?」
「試作品ですけど」
「前に拾ってた鉄で?」
「いえ」
「じゃあ,どうやって」
「ぽんたが」
「狸が?」
「はい」
そこでマルタは完全に手を止め,理人の顔を見た。
しばらく沈黙したあと,大きく息を吐く。
「……説明が必要だね」
「長くなりますよ」
「夕飯食べながら聞くよ」
「分かりました」
理人も厨房へ入り,食事を運ぶのを手伝った。
その日の夕飯は,煮込みにパンとチーズという,この宿ではすっかり見慣れた献立だった。
それなのに,数日前とは少し違って見える。
まだ,ここを自分の帰る場所だとは思わない。
けれど,朝に宿を出て,森へ行き,戻ってきてマルタと食卓を囲む。その繰り返しが,少しずつ自分の生活になり始めていた。
「ぽんたミンサーねえ」
話を聞いたマルタが笑う。
「その名前は本人にも不評でした」
「そりゃそうだろ」
「分かりやすいのに」
「リヒトは名前を付ける才能がないね」
「教師には必要ありませんから」
「ぽんたは?」
「……とてもいいです」
「気に入ってるじゃないか」
理人はパンをちぎった。
「名前より,能力がすごいんです」
「能力が?」
「かなり」
真面目に答えると,マルタはますます楽しそうに笑った。
「そういうことにしとくよ」
理人はそれ以上答えず,ちぎったパンを煮込みへ浸した。
角猪の肉や涙玉,パン,乳,黒香子と,ハンバーグを作るために見つけてきたものは少しずつ増えている。
そして今では,そこへ変な狸まで関わり始めていた。




