第11話 鍋だけじゃない
三日後。
理人はガルドと並んで森へ向かっていた。手には二つの布包みを提げている。片方にはすでに焼いてきたハンバーグ,もう片方には今日の試作に使う生の角猪肉が入っていた。
「今日は何入ってるんだ?」
ガルドが隣の包みを顎で示す。朝の森はまだ空気が冷たく,踏み固められた道の脇には夜露が残っていた。ガルドは話しながらも,時折足を止めて茂みの奥へ視線を向けている。
「肉です」
「どっちも肉じゃないか」
「こっちは試作用です」
「生?」
「はい」
ガルドが納得したように頷いたあと,少し口元を緩めた。
「ぽんたミンサーか」
「本人には不評なので,その名前やめてください」
「お前が付けたんだろ」
「仮称です」
「本人もぽんたミンサーでいいって言ってなかったか?」
「言ってません」
「似たようなこと言ってただろ」
「正式名称ではありません」
理人が即答すると,ガルドが笑った。
森へ来る回数は以前より増えている。それでも,理人は一人で来たことがなかった。ガルドかミレナ,どちらか都合のつく方に付き添ってもらっている。
道にも少しずつ見覚えができ,どこに大きな根が張り出しているか,どのあたりから地面が湿りやすくなるかも分かるようになってきた。
だからといって,一人でも大丈夫だとは思わない。
森に慣れることと,森が安全になることは別だ。
「今日は前回の小屋跡までですよね」
「ああ。そこから奥には行かない」
「森の様子は?」
「今のところは普通だな」
ガルドはそう答えながら,道の脇に残った獣の足跡へ目を向ける。しゃがみ込むほどではなく,一瞥しただけで歩みを戻した。
「今のところ,ですか」
「絶対安全って言わせたいのか?」
「言われても信用しません」
「なら聞くなよ」
「確認は大事です」
「お前,そういうところ妙に真面目だよな」
笑うガルドの横で,理人はもう一度森の奥へ目を向けた。
今のところ,特に変わったところはない。鳥の声もするし,遠くでは小さな獣が枝を踏む音も聞こえる。
それを確かめてから,理人は歩みを進めた。
◇
「遅い!」
猟師小屋の跡へ着くなり,草むらから怒声が飛んできた。
続いて葉を掻き分け,ぽんたが勢いよく姿を現す。耳はぴんと立ち,太い尻尾が左右へ大きく揺れていた。
「約束の時間は決めてません」
「三日後って言った!」
「三日後に来ました」
「朝!」
「朝とは言ってません」
「細かい!」
理人は少し笑った。
「待ってたんですか?」
「待ってない!」
「じゃあいいじゃないですか」
「よくない!」
口では否定しているが,尻尾は相変わらず落ち着かない。どれくらい前からいたのかは分からないものの,かなり待っていたらしい。
「ほら」
理人が布包みを持ち上げると,ぽんたの目がそちらへ動いた。
「ハンバーグ?」
今度は耳までわずかに前を向く。
「あります。ただ,先に試作です」
「何でだよ!」
「先に食べたら,やる気なくなるでしょう」
「なる!」
「自分で言わないでください」
後ろでガルドが吹き出した。
「リヒト」
「はい」
「こいつ,完全に餌付けされてないか?」
「違う!」
ぽんたが即座に振り返る。
「本人が否定してます」
「お前も否定しろ!」
「……違うと思います」
「今,間があったぞ!」
理人は答えず,もう一つの布包みを開いた。
「今日は前回の続きです」
「……肉」
「ありますよ」
「よし」
「試作用です」
ぽんたが肉を見てから,理人を見上げる。
「食うやつじゃない?」
「そうです」
「じゃあいらん」
「切り替え早いですね」
生肉が嫌なわけではない。ただ,自分が食べる分ではないと分かった瞬間に興味を失っただけらしい。ぽんたはさっさと肉から視線を外し,理人の手元を覗き込んだ。
◇
前回作ったものは,筒の先に穴の開いた板を作り,その手前に刃のような突起を置いた簡単な構造だった。
肉を押し込めば,ある程度は繊維を切りながら穴を通って出てくる。ただ,実際に使ってみると問題も多かった。
穴を細かくしすぎたせいで肉が途中に詰まり,押し込むにはかなり力が必要だった。しかも,細かな刃や穴の形を保つために,ぽんた自身も長く変化を維持できない。
理人は前回の形を地面に枝で描きながら,そのあたりを思い返した。
「今日は,もっと簡単にします」
「前より?」
「はい。前の形だと肉が詰まりやすいですし,押すのにも力がいります。それに,ぽんたがすぐ疲れます」
「俺のせいか!」
「疲れるなら重要な問題です」
「道具なのに疲れるのおかしいだろ!」
「ぽんたは道具じゃなくて生き物でしょう」
「そうだけど!」
反射的に言い返したぽんたが,一度口を閉じた。
理人はその横で,前回描いた形を枝先で崩す。
「だから,ぽんたが無理しなくても使えるようにします。刃は少なくして,穴も少し大きくする。押し込む力は自分がかけます」
「俺は?」
「形を保ってくれれば十分です」
「……それなら楽」
「ですよね」
ぽんたは地面の図を眺めてから,首を傾げた。
「でも,それだと細かくならないぞ」
「一度で細かくしすぎないんです」
「何回もやる?」
「二回くらい通してみます」
「面倒」
「料理はだいたい面倒です」
「お前よくやるな」
「好きなので」
「肉が?」
「料理がです」
「ハンバーグが?」
「それも好きです」
ぽんたはしばらく理人を見ていたが,やがて小さく鼻を鳴らした。
「じゃあやる」
「ありがとうございます」
ぼふっと煙が上がり,ぽんたの姿が崩れる。
煙が薄れたところに現れたのは,前回よりひと回り太い筒だった。先端の板にはやや大きめの穴が並び,その内側に三本ほどの刃状の突起が伸びている。
「刃,これくらい?」
筒の中から,ぽんたの声がくぐもって響いた。
「はい。それ以上は増やさなくていいです」
「穴は?」
「ちょうどいいと思います。まず試しましょう」
理人は角猪の肉を小さめに切り,筒へ入れた。後ろから木の棒を当て,ゆっくり押し込んでいく。
最初は抵抗が強かった。
「……硬い」
「俺じゃないぞ」
「肉です」
「知ってる」
もう少し体重をかけると,肉が刃の間を抜け,先端の穴から押し出されてきた。
前回ほど細くはない。ところどころ大きな塊も混じっていて,包丁でざっくり刻んだものに近い。
「どう?」
ぽんたが筒のまま尋ねる。
「かなり粗いですね」
「駄目?」
「いえ。一回目なら,むしろこれくらいでよさそうです」
理人は押し出された肉を指先でほぐした。繊維は切れているが,潰れすぎてはいない。
「もう一度通します」
「まだやるのか」
「それが今回の作戦です」
同じ肉をもう一度筒へ入れる。今度は最初より抵抗が少なく,木の棒も滑らかに進んだ。
押し出された肉を見て,理人は少し眉を上げる。
「……お」
「何だよ」
「だいぶ挽肉っぽくなりました」
「ほんと?」
ぼふっと煙が上がり,ぽんたが元の姿へ戻る。
すぐに理人の手元へ鼻先を寄せた。
「見せろ」
「ほら」
完全に均一ではない。それでも,一度目より粒が小さくなり,包丁だけで刻んだときより大きさも揃っている。
現代のミンサーで作った挽肉とは比べられない。
だが,今の二人で作れるものとしては,かなり良くなった。
「これ」
ぽんたが肉を見ながら言った。
「俺がやった?」
「半分は」
「半分?」
「押したのは自分なので」
ぽんたの耳がぴくりと動く。
「じゃあ俺六割」
「何で増えたんです?」
「道具が大事だろ」
「それは認めます」
「七割」
「増やさないでください」
「七!」
「六で」
理人が譲ると,ぽんたは少し考えたあと,満足そうに胸を張った。
「……まあいい」
前回より疲労も軽いらしい。耳が少し下がった程度で,すぐに座り込むような様子はない。
そのことを確認していると,ぽんたが突然言った。
「名前」
「何です?」
「これの名前」
「まだ試作品ですよ」
「名前くらいあるだろ」
「ぽんたミンサー」
「ださい!」
「だから仮称です」
「もっとかっこいいやつ」
「肉細断器」
「硬い!」
「何をする道具かは分かります」
「お前,名前付けるの下手だな!」
「マルタさんにも似たようなこと言われました」
「みんな思ってるぞ!」
理人は少し考えてから,ぽんたへ視線を向けた。
「じゃあ,ぽんたが決めます?」
「俺?」
「自分で」
「……」
今までで一番真剣な顔になった。
しばらく地面を見つめ,やがて顔を上げる。
「烈牙」
「却下です」
「何で!」
「肉挽き器ですよ」
「強そうだろ!」
「肉を怖がらせる必要あります?」
「ある!」
「ないです」
「じゃあ……剛刃」
「ほとんど同じですね」
「黒鉄」
「色が違いますよね」
「うるさい!」
結局,名前は決まらなかった。
◇
「じゃあ,これで今日のハンバーグを作ります」
理人が挽いた肉をまとめると,ぽんたが首を傾げた。
「ここで?」
「今日は簡易版です」
「火ないぞ」
「あります」
理人が隣を見る。
ガルドも自分を指さした。
「俺?」
「お願いします」
「火起こしか」
「はい」
「肉のためなら人使い荒いな」
「その代わり,ガルドさんも食べられます」
「ならやる」
「ガルドさんも早いですね」
「肉は大事だからな」
「ぽんたと気が合いそうです」
「俺と一緒にするな!」
「何でだよ」
今度はガルドが不満そうな声を出した。
ほどなくして,小さな焚き火ができた。
鉄板代わりに使う薄い鉄板は宿から借りてきている。ガルドが火の具合を見ている横で,理人は挽いた肉をもう一度確かめた。
今日は,ぽんたが前に言っていた好みに寄せてみるつもりだった。
もっと肉っぽい方がいい。噛める方が好き。
「今日は,ぽんた向けに少し変えてみます」
「俺?」
「はい」
「……嫌じゃない」
頼んでもいないのに,ぽんたが先に答えた。
理人は肩肉に腹側の脂を混ぜ,涙玉は前より少なめにする。パンもつなぎとして最低限にとどめ,肉の粒が残るように強く練りすぎない。
「涙玉,少ないな」
ぽんたが手元を覗き込む。
「今日は肉っぽさを残したいので」
「おお」
「ただ,前より崩れやすいかもしれません」
「大丈夫?」
「たぶん」
「出た」
「便利なので」
理人は肉だねをまとめながら,そばにあった平たい石へ片手を置いた。
もう片方は肉だねへ触れる。
「何してる?」
「肉を冷たいままにしておきます」
「石は?」
「少し温かくなるはずです」
意識を集中すると,肉だねからわずかに熱が抜け,手の下の石へ移っていく。
しばらくすると,石の表面がほんのりぬるくなった。
「それ,便利だな」
ぽんたが感心したように言う。
「少しなら」
「俺も欲しい」
「交換できません」
「けち」
「能力ですよ」
「……一緒だな」
「何がです?」
「変な能力」
理人は一瞬考え,少しだけ笑った。
「……まあ,そうですね」
◇
形を整えた肉を鉄板へ置くと,ジュウッと音が弾けた。
脂の焼ける匂いが立ち上がった途端,ぽんたが一歩近づく。
「いい匂い」
「まだです」
「分かってる」
さらに半歩近づく。
「近い」
「匂い嗅いでるだけ」
「毛,燃えますよ」
ぽんたが素早く一歩下がった。
「怖いこと言うな!」
「事実です」
「お前,たまに急に怖い!」
「安全確認です」
宿の竈と違い,森の焚き火は火力が安定しない。
風が通れば炎が揺れ,薪の燃え方ひとつで鉄板の熱も変わる。理人は焼ける音と肉の表面を見ながら,火の強い場所を避けて位置を少しずらした。
それでも一部分だけ熱くなりすぎたので,《熱交換》を使い,鉄板の熱い部分から端のまだ温度が低い部分へ,ほんの少しだけ熱を移す。
一気に温度が変わるほどではない。
だが,焦げそうな場所を少し落ち着かせるくらいなら,今の理人にもできるようになっていた。
焼き色を確かめ,裏返す。
形は崩れない。
「うまそう」
ぽんたの尻尾がゆっくり揺れた。
「まだです」
「知ってる」
「返事が雑になってきましたね」
「腹減った」
もう片面も焼けてきたところで,理人は周囲を見回した。
本当なら蓋をして中まで火を通したい。
持ってきた小鍋でも代用はできるが,その前に一つ思いついた。
「ぽんた」
「何」
「蓋になれます?」
ぽんたが固まった。
「……蓋?」
「これくらいの大きさです」
「できるけど」
「お願いできます?」
「え」
「何です?」
「俺,料理しながら飯食えない?」
「焼き上がってから戻れば食べられます」
「……」
「嫌なら小鍋を使いますけど」
「やる」
「ありがとうございます」
ぼふっと煙が上がり,ぽんたの姿が大きな丸い蓋へ変わった。
形そのものは悪くない。
理人は念のため端を持ち,ハンバーグの上へかぶせる。
数秒もしないうちに,蓋が震えた。
「熱い!」
くぐもった声が響く。
「大丈夫ですか!?」
「熱い!」
「戻ってください!」
理人がすぐに手を離すと,蓋が跳ねるように転がり,ぼふっと元のぽんたへ戻った。
ぽんたは慌てて鉄板から離れ,地面の上で体をぶるぶると振る。
「熱いって言っただろ!」
「すみません。痛いところあります?」
「熱かっただけ! 何でいきなりあんなのに乗せるんだよ!」
「蓋だから大丈夫かと思って」
「俺,鍋になったときだって火にかけられたことないぞ!」
「鍋なのに?」
「鍋だけど!」
理人は言葉を止めた。
ぽんたの体を見ても,外から分かる火傷のようなものはない。だが,変化した形そのものが金属に似ていても,本物の鉄と同じ耐熱性まで持っているわけではないらしい。
「……なるほど」
「何だよ」
「形を真似できても,熱に強くなるわけではないんですね」
「実験扱いするな!」
「大事なことなので」
「俺の尻が熱かったんだぞ!」
「蓋のどこが尻なんです?」
「知らん!」
横でガルドが腹を抱えて笑い始めた。
「笑うな!」
「悪い」
「全然悪そうじゃない!」
「すみません」
理人も口元を押さえたが,今度は隠しきれなかった。
「お前も笑うな!」
「いや,すみません」
「笑ってる!」
「でも,本当に無理はしないでください。次から熱いものには頼みません」
理人がそう言うと,ぽんたはまだ不満そうに鼻を鳴らしたものの,それ以上は怒鳴らなかった。
結局,蓋にはガルドが持ってきていた小鍋を使った。
◇
焼き上がったハンバーグへ刃を入れる。
「お」
ぽんたが身を乗り出した。
断面には,前のものよりはっきりと肉の粒が残っていた。脂と肉汁がその隙間からにじみ,細かくしたときとは見た目からして違う。
「前より肉だ」
「見ただけで分かります?」
「匂いでも分かる」
「なるほど」
三人分に分け,理人は自分の分を手に取った。
「いただきます」
一口かじる。
前回より噛みごたえが強い。
柔らかさでは前の方が上だろう。けれど,粗く残った肉を噛むたびに旨味が出て,脂もよく合っている。
「……うまい」
「本当?」
ぽんたがすぐ自分の分へかじりついた。
一瞬,動きが止まる。
次の瞬間,尻尾が大きく左右へ振れた。
「こっち!」
「好きです?」
「こっちの方が好き!」
「やっぱり」
「肉!」
「肉ですね」
「噛める!」
「そこを狙いました」
「うまい!」
今日はずいぶん素直だった。
「普通じゃないんです?」
「うまい!」
「そうですか」
理人は笑いながら,自分ももう一口食べた。
ガルドも隣で頷いている。
「俺もこっちの方が好きだな」
「粗挽きの方ですか?」
「ああ。食った感じがする」
「なるほど」
理人は手元の断面を見る。
自分は柔らかいものも好きだ。ぽんたは,明らかに今日の方が好きらしい。ガルドも同じだという。
細かく挽いて柔らかくするものと,粗くして肉の食感を残すもの。
どちらか一つに決める必要はないらしい。
「好みで変えていいんだな」
「何が?」
ガルドが尋ねる。
「ハンバーグです」
「また難しい話か?」
「いえ。細かくして柔らかくするのもいいし,粗くして肉っぽくするのもいい。食べる人に合わせればいいんだなと思って」
「どっちが正解?」
ぽんたが聞く。
「どっちもでしょうね」
「ずるくない?」
「好みです」
「俺はこっち」
「覚えておきます」
「また作れ」
「材料があれば」
「獲ってくる」
「危なくない範囲でお願いします」
「分かってる」
返事は早かった。
理人は少し意外に思ったが,考えてみれば,ぽんたは無鉄砲な性格ではない。
危ない相手なら逃げるし,勝てそうにない相手へわざわざ向かっていくこともしない。
そのあたりは,自分と似ている。
「……似てますね」
思わず口に出る。
「何が」
「自分とぽんたです」
「どこが!」
「危ないことをしないところ」
「当たり前だろ!」
「ですよね」
「死んだら飯食えない!」
理人は動きを止めた。
「……それ,自分も似たようなこと言いました」
「じゃあ俺の方が正しい」
「何でです?」
「俺の方が先に生まれてるかもしれない」
「年齢分かるんですか?」
「知らん」
「駄目じゃないですか」
また三人で笑った。
◇
食べ終えると,ぽんたは木の根元へ転がるように寝そべった。
「食った」
「見れば分かります」
「眠い」
「寝たらいいんじゃないですか」
「お前ら帰る?」
「そろそろ帰ります」
「……じゃあ寝る」
ぽんたは目を閉じた。
「不用心ですね」
「ガルドいる」
「信用されてますよ」
「俺か?」
ガルドが少し意外そうな顔をする。
「人間の中では強い」
「褒めてるのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
返事はもうなかった。
ぽんたは体を丸め,太い尻尾を腹のあたりへ巻きつけている。
理人は少しの間,その姿を見ていた。
近くで見ると,やはり毛が柔らかそうだ。
「……」
視線を外す。
「触らないのか?」
横からガルドが小声で聞いた。
「何をです?」
「ぽんた」
「何でです?」
「ずっと見てるから」
「見てません」
「見てたぞ」
「寝てるなと思って」
「毛,触りたそうな顔だった」
「そんな顔してません」
「触るか?」
「しません」
「何で」
「寝てるので」
「起きてたら?」
理人は少し考えた。
「本人に聞きます」
「真面目だな」
「勝手に触るのは違うでしょう」
「まあ,確かに」
理人が立ち上がろうとした,そのときだった。
「聞こえてるぞ」
目を閉じたまま,ぽんたが言った。
理人もガルドも動きを止める。
「……狸って耳いいんですか」
「話逸らすな!」
ぽんたが勢いよく起き上がった。
「触りたいのか!」
「……まあ」
「まあ!?」
「少し」
「少し?」
ぽんたが疑うように目を細める。
理人は一瞬迷った。
「……かなり」
「正直!」
言ってから,少しだけ後悔した。
ぽんたがじっとこちらを見る。
「嫌ならいいです」
「……一回」
「いいんですか?」
「一回だけ」
「じゃあ」
理人はしゃがみ,ゆっくり手を伸ばした。
ぽんたが逃げないのを確認してから,頭へ触れる。
「……」
柔らかい。
想像していたより,かなり。
指先が毛へ沈むような感触がある。
「……これは」
「何だよ」
「いいですね」
「何が!」
「毛です」
「感想それか!」
理人はそのまま,耳の後ろへ指を動かした。
「おい!」
「一回って,何秒までです?」
「細かい!」
「じゃあ終わります」
理人は素直に手を離した。
「……」
ぽんたが何となく不満そうに見える。
「何です?」
「別に」
「そうですか」
「……もう一回なら」
理人は少しだけ目を見開いた。
「いいんですか?」
「今日だけ!」
「ありがとうございます」
今度は頭から背中へ,ゆっくり撫でる。
やはり柔らかい。
「……かなりいい」
「お前,料理より嬉しそうじゃないか?」
ガルドが言った。
「……それはないです」
ぽんたが理人を見上げる。
「ハンバーグと俺,どっち」
理人の手が止まった。
「比較対象おかしくないです?」
「どっち」
「……ハンバーグ」
「お前!」
「食べ物と生き物は別でしょう」
「即答するな!」
「聞いたのぽんたでしょう」
「そうだけど!」
理人は笑った。
ぽんたも怒っているような顔をしながら,どこか楽しそうだった。
◇
帰り道。
森の出口までもう少しというところで,先を歩いていたガルドが突然足を止めた。
「リヒト」
「はい」
声が低い。
理人もすぐに歩みを止めた。
「どうしました?」
「……静かすぎる」
言われて,理人は周囲を見回した。
すぐには何がおかしいのか分からなかった。
だが,意識して耳を澄ませると気づく。
先ほどまでは木々の上から時折聞こえていた鳥の声が,いつの間にか消えている。足元の草むらから続いていた虫の音も薄くなり,風が葉を揺らす音ばかりが妙にはっきり聞こえた。
森そのものが静かになっている。
「何かいます?」
「分からん」
ガルドは弓へ手をかけ,森の奥を見た。
先ほどまでの軽い表情はない。
「戻るぞ」
「はい」
理人は即答した。
原因を確かめようとは思わない。
分からないものがいて,森に慣れたガルドが警戒している。それだけで,離れる理由としては十分だった。
二人は足早に出口へ向かう。
そのときだった。
「……」
舌の奥に,かすかな違和感が触れた。
理人は思わず足を緩める。
味だ。
「ガルドさん」
「何だ」
「……苦いです」
ガルドの顔が変わった。
「角猪のときと同じか?」
「違います」
「どう違う?」
理人は眉を寄せた。
うまく言葉にできない。
角猪のときに感じたものは,もっと尖ったような苦さだった。
今のものは違う。
舌の奥へ沈み込んでくるような,重い苦味。
「……重い感じがします」
「重い?」
「はい。前とは違います。それに,角猪のときより強い」
ガルドが森の奥へ鋭く視線を走らせた。
「どっちだ」
「分かりません」
「距離は?」
「それも分かりません。ただ,何か嫌なものがいる感じがします」
どこにいるのかも,何なのかも分からない。
ただ,感じる。
それだけだった。
「戻るぞ」
ガルドの判断は早かった。
「はい」
二人は走り出しこそしなかったものの,さらに歩調を速めた。
森を抜けるまで,ガルドは何度も後ろを確認していた。理人も舌の奥に残る感覚へ意識を向けたが,そこから新しいことは何も分からない。
苦くて,重い。
そして,角猪のときよりずっと嫌な感じがする。
ようやく森を抜け,町へ続く道へ出たところで,理人は一度だけ立ち止まりかけた。
頭に浮かんだのは,木の根元で寝転がっていたぽんたの姿だった。
まだ,森にいる。
「リヒト?」
ガルドの声に,理人は前を向く。
「……何でもありません。戻りましょう」
今から二人だけで森へ戻る理由にはならない。
それは分かっている。
だから理人はガルドについて町へ向かった。
それでも,舌の奥に残る重い苦味と一緒に,森に残したぽんたのことが,いつまでも頭から離れなかった。
本日の更新は,第11話までとなります。
初めて投稿する作品をここまで読んでくださり,本当にありがとうございます。
まだ始まったばかりですが,理人とぽんたたちの続きを楽しんでいただけたら嬉しいです。
明日以降も少しずつ更新していきますので,よろしくお願いします。




