第12話 森が静かすぎる
町へ戻るまで,ガルドはほとんど喋らなかった。
理人も,いつものように道端の草や頭上を飛ぶ鳥について尋ねる気にはならなかった。歩いている間も,どうしても気になるのは背後にある森と,その奥に残してきたぽんたのことだった。
森から十分に離れたところで,理人は舌の奥へ意識を向ける。
もう,あの苦味は感じない。
森を出てから急に消えたわけではなく,離れるにつれて少しずつ薄くなり,いつの間にか分からなくなっていた。
「ガルドさん」
「何だ」
「さっきの感覚なんですけど,森から離れたら消えました」
ガルドが歩調を変えないまま,少しだけ顔を向けた。
「方向は分かるか?」
「分かりません」
「距離は?」
「それも分からないです」
「角猪のときと同じか?」
理人は少し考えた。似ているのは,不快な味がしたという一点くらいだ。角猪の肉に触れたときとは,苦味の質が違うように思える。
「違う感じがします。角猪のときより,重いというか……嫌な感じでした」
「強さは分かるのか?」
「そこまでは。感覚だけなら角猪のときより嫌でしたけど,だから強いとは言い切れません」
「曖昧だな」
「自分でもそう思います」
味がした。それが森から離れるにつれて薄れた。
今の理人に言えるのは,そこまでだった。何がいるのかも,どこにいるのかも,どれほど離れているのかも分からない。ただ,何もないと決めつけるには嫌な感覚だった。
「今まで,肉に触ったとき以外で似たことは?」
「ないですね」
「そうか」
ガルドはそれ以上追及せず,前へ向き直った。
「町に戻ったら,猟師組合に話しておく」
「そういう組合があるんですね」
「ある。森で妙なことがあったら,猟師同士で知らせる」
「冒険者の方は?」
「そっちはミレナに任せる」
「分かりました」
理人も頷いた。
自分で確かめに行こう,とは思わない。
魔獣についても森についても,今の理人よりガルドたちの方がはるかに詳しい。自分に分かることを伝え,その先は知識のある人間に任せるべきだ。
それでも,一つだけ気になることが残った。
「……ぽんた」
思わず名前が漏れる。
「気になるか」
「そりゃ気になりますよ。あそこにいますから」
「そうだな」
「危ないですかね」
「分からん」
ガルドの答えは短かったが,迷いはなかった。
「ただ,森の浅いところまで急に静かになるのは,あまりいいことじゃない」
「どういう可能性があります?」
「でかい魔獣が浅いところまで来たかもしれんし,何かの群れが移動してきたのかもしれん。森の奥で何かあって,小さいやつがこっちへ押し出されてる可能性もある」
「どれも嫌ですね」
「まあな」
「ほかには?」
ガルドは少し考えてから,肩をすくめた。
「たまたま」
「……それもあるんですか」
「森だからな。一日二日で騒ぐほどじゃないこともある」
「心配して損した気分になりますね」
「それなら一番いい」
「確かに」
何も起きていないのなら,それに越したことはない。
理人は一度だけ森の方を振り返り,それから町へ向き直った。
◇
「森が静か?」
宿へ戻って事情を話すと,マルタは眉を寄せた。
「はい。自分だけじゃなくて,ガルドさんも気づいてました」
「なら今日はもう森へ行くんじゃないよ」
「行きません」
理人が即答すると,マルタは少し拍子抜けしたように口を閉じた。
「……何です?」
「止める準備してたんだけどね」
「一人では行きませんよ」
「ぽんたがいるんだろ?」
「います」
「心配じゃないのかい?」
「心配です」
それならなおさら,とマルタが言いかける前に,理人は続けた。
「だからこそ,一人では行かないです。森に詳しくない自分が勝手に入って,何かあったら助けるどころか迷惑になりますから」
マルタがしばらく理人の顔を見つめる。
「本当に二十五歳?」
「何で疑われるんです?」
「若い男ってのは,こういうとき急に馬鹿になるもんだよ」
「偏見では」
「経験だよ」
「それは反論しづらいですね」
マルタは鼻で笑うと,厨房を顎で示した。
「なら働きな」
「はい」
厨房へ入れば,いつもの作業台に,いつもの鍋と皿が並んでいる。
数日前までなら,町へ戻れば森のことは一度切り離せていた。危険な森と,安全な町。それだけの違いだった。
けれど今は,森の中に顔の浮かぶ相手がいる。
そう思うだけで,窓の向こうにある森が少し近くなったように感じられた。
「リヒト」
「はい」
「皿」
「……あ」
手が止まっていたらしい。
マルタが呆れたように積み上がった皿を指す。
「心配するのはいいけど,手は動かしな」
「すみません」
「今ここで考え続けても,森の様子は変わらないよ」
「分かってます」
「なら働く」
「はい」
正しい。
今できることがないのなら,できることをするしかない。
理人は袖をまくり直し,皿を洗い始めた。それでも窓の外へ視線が向く回数だけは,普段より少し多かった。
◇
昼を少し過ぎた頃,ミレナが宿へ入ってきた。
「リヒト!」
「います」
「いるね」
「呼んだ意味あります?」
「確認」
いつもの調子で答えながら,ミレナは空いている椅子へ腰を下ろした。
「ガルドから聞いたよ。森のこと」
「冒険者の方でも確認してるんですか?」
「一応ね。今のところ人に被害は出てないけど,午後から見回りを増やすって」
理人は水を注いだコップを差し出した。
「ほかに何か分かりました?」
「昨日くらいから,森鳥を見かける数が減ったって話がある。それと,小型の魔獣が普段より町側に出てきてるらしい」
ミレナが水を飲む間,理人は昨日の森を思い出した。
いつもなら木々の向こうから聞こえていた鳥の声が,途中から急に少なくなった。今日ガルドと戻るときにも,森の奥へ入っていく鳥より,町側へ飛んでいくものの方が目についた気がする。
「奥から押し出されてる可能性は?」
「ある。でも,まだそれだけじゃ分からないね」
「原因も?」
「まだ。だから何組かで浅いところから中ほどまで見てくる」
「ガルドさんも行きます?」
「行くって言ってた」
「……」
理人は少し考えた。
聞くだけならいい。
「自分も――」
「駄目」
「まだ全部言ってません」
「言わなくても分かる」
「ぽんたがいる猟師小屋跡までです」
「駄目」
「ガルドさんと一緒でも?」
ミレナの返事が止まった。
理人は急かさず,そのまま待つ。
「……そこまでなら,ガルドがいいと言えば」
「条件は?」
「勝手に動かない。異変があったらすぐ戻る。ぽんたが見つからなくても,森の奥へ追わない」
「はい」
「あと,何か出ても戦おうとしない」
「それは言われなくても」
「リヒトの場合,本当にそうだから困るんだよね」
「自分で勝てると思ってませんから」
「そこまで即答されると,ちょっと複雑」
「事実です」
理人が肩をすくめると,ミレナも少し笑った。
「それと,また変な味がしたらすぐ言うこと」
「分かりました」
「ガルドに聞いてみる。駄目って言われたら?」
「行きません」
「本当に?」
「自分一人で行って,何ができます?」
「ぽんたを探すとか」
「森で自分が?」
「まあ……」
「見つける前に迷う可能性の方が高いです」
「自覚あるね」
「あります。ぽんたは森で生きてるんですから,自分よりあっちの方がずっと詳しいでしょう。下手に奥まで行ったら,助けるより邪魔になると思います」
心配なのと,無謀に動くことは別だ。
今の理人に必要なのは,一人でぽんたを探し回ることではなく,森を知る人間と一緒に安全に確認できる範囲を決めることだった。
ミレナが少しだけ目を細める。
「ぽんた,変な人間見つけたね」
「自分が見つけた側だと思ってます」
「どっちでも同じでしょ」
◇
結局,その日の午後,理人は再び森の入口に立っていた。
今回はガルドとミレナも一緒で,ほかの冒険者や猟師たちはそれぞれ別の場所から森へ入ることになっている。
「目的は?」
森へ入る前に,ガルドが確認した。
「猟師小屋跡まで行って,ぽんたの無事を確認する」
「その後は?」
「いたら,町側へ移動するよう勧めます」
「いなければ?」
「戻る」
「奥にぽんたらしい痕跡があったら?」
「戻ります」
「よし」
「試験ですか」
「お前,ぽんたの足跡を見つけたら追いそうだからな」
「追いませんよ」
「本当?」
ミレナまで疑ってくる。
理人は二人を交互に見た。
「相手は森で暮らしてる魔獣ですよ。自分より森に詳しいですし,自分が奥まで入っても,ぽんたを助けるより邪魔になる可能性の方が高いです」
ガルドが小さく頷いた。
「分かってるならいい」
「生徒にも似たようなことは言ってましたし」
「何て?」
「分からない問題を,分からないまま勘で解き続けるなって」
「今それ?」
「似たようなものです」
「森と数学を一緒にするな」
ガルドが笑う。
「マルタさんにも,料理と数学を一緒にするなって言われました」
「懲りないね」
「自分の考え方なので」
軽く言葉を交わしてから,三人は森へ入った。
◇
少し進んだだけで,昨日以上に静かなことが理人にも分かった。
鳥の声がほとんど聞こえず,虫の音はあるものの,森全体から生き物の気配だけが薄くなっているように感じる。
「……本当に静かですね」
「昨日よりな」
ガルドは周囲を見回しながら,足を止めずに答えた。
「気をつけろ」
「はい」
理人も舌の奥へ意識を向けてみる。
今のところ,何も感じない。
それだけで安全だと思うつもりはなかった。昨日の感覚が何を示しているのかすら,まだ分かっていないのだ。
三人は普段よりゆっくり森を進んだ。
「これ」
少し先でミレナがしゃがみ込む。
柔らかな地面には,小さな足跡がいくつも残っていた。一つ二つではなく,同じ方向へ重なるように続いている。
「何の足跡です?」
「森兎。小型の魔獣だよ」
ガルドも横から地面を覗き込んだ。
「町側へ向かってるな」
「数も多いですね」
「ああ」
「逃げてるんでしょうか」
「可能性はある」
ガルドはそれ以上断定せず,立ち上がった。
理人も森の奥へ目を向ける。
木々の密度も,差し込む光も昨日までと大きく変わらない。それなのに,声を出すものが少ないだけで,見慣れ始めていた森がまるで別の場所のように見えた。
◇
やがて猟師小屋跡へ着くと,理人は周囲を見回した。
「ぽんた」
呼んでみる。
返事はない。
「ぽんた」
もう一度呼んでも,草むらも木の陰も動かなかった。
「ハンバーグって言えば?」
ミレナが小声で言う。
「何です?」
「それで出てきたことあるんでしょ?」
「毎回そういう扱いにするのもどうかと思いますけど」
「でも出てくるかもしれない」
理人は少し迷ったあと,森へ向かって声を上げた。
「ぽんた。ハンバーグあります」
直後,少し離れた草むらが大きく揺れた。
「……出た」
ミレナが呟く。
草の隙間から茶色い頭が覗き,理人を見つけたぽんたが勢いよく飛び出してきた。
「持ってきた?」
「今日はないです」
「お前!」
足元まで来たぽんたが毛を膨らませる。
「嘘ついた!」
「出てこないので」
「詐欺!」
「詐欺って知ってるんですか」
「人間が言ってた!」
「言葉の学び方が偏ってますね」
ぽんたがまだ何か言いたそうにしていたが,理人はその場にしゃがんだ。
「それより,ぽんたの様子を見に来たんです」
「俺?」
「はい。森がおかしいので」
その一言で,ぽんたの耳が動いた。
「……気づいた?」
「やっぱり,ぽんたも?」
「昨日くらいから,奥が変」
ガルドが一歩前へ出る。
「どう変なんだ?」
「匂い」
「どんな匂いだ」
「知らん。いつもと違う」
「ほかには?」
「でかい足跡見た」
ガルドの表情が少し変わった。
「どこで?」
「あっち」
ぽんたが顔を森の奥へ向ける。
「普段お前が行く場所か?」
「もっと奥」
「そこまで見に行ったのか?」
「ちょっとだけ」
「危なくなかったですか」
理人が思わず口を挟むと,ぽんたがこちらを振り返った。
「俺の森だぞ」
「森全部がぽんたのものではないでしょう」
「そういう意味じゃない!」
「それは分かってます。危ないものには会わなかったんですか?」
「いたかもしれないから逃げた」
「ならよかったです」
ぽんたが妙な顔をした。
「怒らないのか?」
「何をです?」
「見に行ったこと」
「もう行ったことを怒っても仕方ないでしょう」
ぽんたはこの森で,理人と出会うよりずっと前から生きてきた。危険の避け方も,自分で食べ物を得る方法も知っている。
理人が一方的に叱るような相手ではない。
「ただ,次から危なそうだと思ったら,無理に見に行かない方がいいです」
「何で」
「死んだらハンバーグ食べられませんよ」
「それは困る」
「でしょう」
「そこなんだ」
ミレナが小さく呟いた。
ガルドは二人のやり取りには構わず,ぽんたへ問いかける。
「その足跡,指は何本だった?」
「三本」
「爪は?」
「長かった」
「大きさは?」
ぽんたが前足で地面を示し,さらに自分で何歩か歩いて歩幅も見せる。
それを見たガルドの表情が,わずかに険しくなった。
「何か分かりました?」
「まだだ。似た跡を残すやつはいくつかいる」
「角猪より強い可能性は?」
「ある」
それで十分だった。
正体は分からないが,ぽんたは無事だった。森に異変があることも,ぽんた自身の話から確認できた。
「帰りましょう」
理人が言うと,ミレナが少し意外そうに見る。
「早いね」
「目的は達成しましたから」
「もっと見ていきたいとかは?」
「ないです。ここから奥は目的外です」
理人はぽんたへ向き直った。
「ぽんたも,少なくとも今日は町側へ来ませんか?」
「嫌」
「即答ですね」
「人間多い」
「それはそうですね」
「犬もいる」
「犬苦手なんですか?」
「苦手じゃない!」
返事が少し早い。
「じゃあ問題ないですね」
「うるさいから嫌なんだ!」
「なるほど」
「絶対信じてないだろ!」
「そこは今どうでもいいです」
「よくない!」
理人は一度息をつき,話を戻した。
「町の中が嫌なら,せめて森のもっと町側へ移るのはどうです?」
「何で」
「森の奥に何かいる可能性があります。浅いところなら絶対安全,とも言えなくなってきました」
「俺なら逃げられる」
「起きていれば,そうかもしれません」
「ならいいだろ」
「寝ている間は?」
「……」
ぽんたの耳がぴくりと動いた。
「危ないものが近づいたら,絶対に気づけます?」
「分からん」
「一人なら,誰かが見張ってくれるわけでもないですよね」
「それは……そうだけど」
「原因が分かるまででいいんです。せめて町側まで一緒に来ませんか」
ぽんたはすぐには答えず,森の奥へ目を向けた。
自分でも昨日から異変を感じているのだろう。しばらくしてから,尻尾が小さく動く。
「……途中までなら」
「分かりました」
それ以上は押さない。
今はまず,危険かもしれない森の奥から離れればいい。
◇
「帰るぞ」
ガルドの声で,三人と一匹は猟師小屋跡を離れた。
ぽんたは少し迷ったあと,理人の横について歩き始める。
「近いですね」
「嫌なら離れる」
「嫌とは言ってません」
「……そうか」
ぽんたはそのまま離れなかった。
帰り道は,来たときよりわずかに早い。
森の異変が解決したわけではない。それでも,ぽんたが目の届くところにいるだけで,理人は少しだけ気が楽になっていた。
◇
森の出口までまだ少し距離があるところで,ガルドが突然足を止めた。
片手を上げる。
理人とミレナもすぐに止まり,ぽんたも地面へ伏せるように身を低くした。
遠くで,太い枝が折れるような音が響いた。
バキ,という乾いた音が一度きりで途切れる。
「何かいる」
ミレナが声を落とし,剣の柄へ手を添えた。
ガルドは弓を手に取りながら,理人を見る。
理人も舌の奥へ意識を集中させた。
「……今は,何も感じません」
「分かった」
ぽんたの背中の毛が逆立っている。
「知ってる音ですか?」
理人が小声で聞く。
「知らん」
少し間を置いて,また枝の折れる音がした。
今度は,先ほどより近い。
「移動する」
ガルドが低い声で言った。
「まだ走るな。足元に気をつけろ」
三人と一匹は音を立てすぎないようにしながら,森の出口へ向かって歩き始める。
その途中,理人の舌の奥に,わずかな違和感が戻ってきた。
最初は気のせいかと思うほど薄かったが,数歩進むうちに昨日と同じ重い苦味へ変わっていく。
「……来ました」
理人が声を抑える。
「味?」
「はい」
ミレナが周囲を見回した。
「方向は?」
「分かりません」
意識を集中させても,苦いということ以外に手掛かりはない。森のどちら側にいるのかも,どれだけ離れているのかも分からなかった。
「昨日と同じか?」
ガルドが聞く。
「かなり近い感じです。少し強くなってる気はしますけど……距離が縮まってるかどうかまでは分かりません」
「それでいい」
ガルドは迷わなかった。
「戻るぞ」
歩調が上がる。
理人も足元を見ながらついていく。後ろを振り返ることはしなかった。
「ぽんた」
「いる」
すぐ横から返事がある。
それを聞いた直後,森の奥で再び枝が折れた。
今度は明らかに近い。
「走れ!」
ガルドの声と同時に,三人と一匹が駆け出した。
理人も前回の角猪以来,本気で足を動かす。木の根を避け,低い枝をくぐり,転ばないよう前だけを見る。
「リヒト,前だけ見ろ!」
「はい!」
ミレナの声へ返しながら走るうち,舌の奥の苦味がじわりと濃くなった。
「さっきより強いです!」
「分かった!」
ミレナが一度だけ後方へ視線を向ける。
「見えない!」
「そのまま走れ!」
何かが追ってきているのか,偶然同じ方向へ動いているだけなのか。それすら分からない。
分からないなら,確かめるために止まる理由もなかった。
横を,ぽんたが軽々と走っていく。
「お前遅い!」
「知ってます!」
「もっと速く走れ!」
「走ってます!」
ぽんたが少し前へ出てから,また理人の横へ戻ってくる。
「乗る?」
「何にですか!?」
「箱!」
「箱が走れないでしょう!」
「じゃあ走れ!」
「だから走ってます!」
息が苦しく,笑っている余裕などない。
それでも,ぽんたの声がすぐ近くから聞こえてくるだけで,理人は少し安心した。
◇
木々の向こうに光が見えた。
「出るぞ!」
ガルドの声に続いて,三人と一匹が森を抜ける。
すぐには止まらない。
草原へ出てからも町側へしばらく走り,森から十分に距離を取ったところで,ようやくガルドが足を止めた。
「ここまでだ」
ガルドは弓を森へ向けたまま,木々の間を睨んでいる。ミレナも剣から手を離さない。
理人は膝へ手をつき,乱れた息を整えた。
「リヒト」
「はい」
「味は?」
呼吸を落ち着かせながら確かめる。
苦味はまだ残っているが,森の中にいたときより薄い。
「弱くなってます」
「何か出てくる感じは?」
「そこまでは分かりません」
「そうだったな」
四人とも森を見る。
一分ほど経っても,木々の間から何かが姿を現すことはなかった。
「追ってはこなかったみたいだね」
ミレナがようやく剣の柄から手を離す。
「縄張りだったのかな」
「かもしれんし,最初から俺たちを追ってなかったのかもしれん」
ガルドも弓を少し下げた。
「結局,何だったんでしょう」
「分からん」
「またそれですね」
「見てもないものを決めつける方が危ない」
「ですよね」
理人も息を吐く。
それから足元を見て,茶色い姿がいることを確認した。
「ぽんた」
「何」
「……よかった」
自然に言葉が出た。
ぽんたが少しだけ動きを止める。
「何が」
「一緒に出てこられたので」
「当たり前だろ」
「そうですね」
「俺の方がお前より速い」
「それも分かりました」
ぽんたは理人から顔を逸らす。
「だから,俺の心配より自分の心配しろ」
理人は少し考えてから答えた。
「両方します」
「……勝手にしろ」
そう言ったぽんたの尻尾が,一度だけ小さく揺れた。
◇
「で」
ミレナが町を指した。
「ぽんた,どうする?」
「森戻る」
「今ですか!?」
さすがに理人も声を上げた。
「何だよ」
「さっき何かいましたよね」
「でも俺の寝床ある」
「命より寝床ですか?」
「荷物もある」
「何が?」
「干し肉」
「それは……大事ですね」
「だろ!」
「そこ納得するんだ」
ミレナが呆れた顔をする。
「あと木の実」
「それも大事ですね」
「巣に隠してるものもある」
「大事です」
「お前,分かるな」
「食料は大事ですから」
「何でそこで意気投合してるの」
理人は咳払いして,話を戻した。
「でも,今戻るのはなしです」
「何で」
「原因が分かってないからです。食料は,ガルドさんたちが安全を確認したあとで取りに行けばいいでしょう」
「でも……」
ぽんたが森を見る。
理人も,蓄えていた食料を置いてくる不安そのものは理解できる。明日からの食事を自分で確保してきたぽんたにとって,人間が思う以上に大事なものなのかもしれない。
だからこそ,代わりを用意する。
「今日は宿へ来ませんか」
「宿?」
「夕飯くらいなら,マルタさんに頼めると思います」
ぽんたの耳が動いた。
「ハンバーグ?」
「それは材料次第です」
「肉は?」
「あります」
「……」
ぽんたは町と森を交互に見た。
すぐに飛びつくかと思ったが,意外にも少し迷っている。
「人間多い」
「多いですね」
「犬もいる」
「いるかもしれません」
「……」
「森が安全だと分かるまでです。ずっと町にいろとは言いません」
理人がそう言うと,ぽんたはもう一度森を見た。
さっきまで自分がいた場所だ。
それでも,戻ろうとはしなかった。
「……飯あるんだな」
「あります」
「お前もいる?」
「宿で働いてますから」
「なら行く」
「分かりました」
ガルドが横で笑う。
「結局飯じゃないか」
「違う!」
「本人は違うと言ってます」
「リヒトも否定しろ!」
「飯が大事なのは自分も同意するので」
「味方じゃない!」
理人は少し笑った。
ぽんた自身も森がおかしいと分かっている。そのうえで,知らない町へ行く不安と比べ,今夜だけは理人たちについていく方を選んだ。
そこに食事が一押ししただけだ。
「宿に犬がいるかは確認しないとですね」
「犬!?」
「そこはやっぱり気になるんですね」
「苦手じゃない!」
「分かりました」
「絶対信じてない!」
「信じてますよ」
「目が違う!」
いつもの調子で怒るぽんたを見ながら,理人はもう一度だけ森へ目を向けた。
苦味は,もうほとんど感じない。
◇
宿へ着くと,ぽんたは裏口の前で足を止めた。
「ここ?」
「はい」
「人間多い」
「今は裏なので,それほどでもないですよ」
「匂い多い」
「食堂ですから」
「肉」
「あります」
「入る」
「そこは早いですね」
理人が扉を開ける。
「ただいま戻りました」
「おかえり。どうだった?」
厨房の奥から返ってきたマルタの声に,理人は一瞬だけ言い方を考えた。
「少し問題がありまして」
「何があったんだい」
理人の足元から,ぽんたがそっと顔を出す。
マルタとぽんたの視線が合った。
「……これが?」
「はい。ぽんたです」
「名前,それにしたんだね」
「はい」
ぽんたが少し胸を張る。
「ぽんただ」
マルタは腰へ手を当て,上から下までぽんたを眺めた。
「聞いてたより丸いねえ」
「丸くない!」
「丸いよ」
「毛だ!」
「毛を入れても丸い」
「この人嫌い!」
「早いですね」
理人が少し笑うと,ぽんたが睨んでくる。
マルタは気にした様子もなく,裏口を大きく開けた。
「まあ,入りな」
「いいのか?」
「森がおかしいんだろ?」
「うん」
「だったら原因が分かるまで泊まっていけばいい」
今度は理人がマルタを見る。
「いいんですか?」
「外に放り出して何かあったら,あんたがずっと気にするだろ」
「それは……まあ」
「ただし」
マルタがぽんたへ目を向ける。
「宿代と飯代くらいは働きな」
「何すればいい」
ぽんたが思ったより素直に聞き返した。
マルタは一秒も迷わなかった。
「鍋」
「俺は鍋じゃねえ!」
ぽんたの毛が一気に膨らむ。
「なれるんだろ?」
「なれるけど!」
「なら働けるね」
「ずっと鍋やるのか!?」
「まずは,だよ」
ぽんたが助けを求めるように理人を見る。
「リヒト」
「はい」
「この人怖い」
「慣れます」
「助けろ!」
「自分も皿洗いからでした」
「同じ扱い!?」
「働かざる者,ってやつだね」
「狸だぞ!」
「関係ないよ」
マルタは即答すると,明日の仕込みをしている台を顎で示した。
「明日の朝,厨房に来な」
「何する」
「まず鍋」
「やっぱり鍋じゃねえか!」
ぽんたの声が宿の厨房へ響き,マルタが笑う。
理人も,その横で少しだけ笑った。
森の異変は何一つ解決していない。奥に何がいるのかも,あの重い苦味が何を意味するのかも,まだ分からないままだ。
それでも,今夜だけはぽんたが森で一人ではない。
理人に分かるのは,それで十分だった。
明日の朝には,この厨房にぽんたがいる。
今はそれを,少しだけ楽しみにしていた。




