第13話 狸が宿に住み始めた
ぽんたが宿に住み始めた。
正確には,森の様子が落ち着くまで,一時的に泊まることになっただけだ。少なくとも理人は,そう理解していた。
「ここ,俺の部屋?」
宿の二階へ上がって早々,ぽんたは理人の部屋の中央に座り込み,当然のようにそう聞いた。
「違います。ここは自分の部屋です」
「じゃあ俺は?」
「まだ決まってません。今来たばかりですから」
「何で」
納得していないらしい。ぽんたは部屋の中をぐるりと見回した。
寝台と机,椅子,壁際の小さな棚があるだけの簡素な部屋で,理人一人で暮らすなら不自由はないが,二人で使うことまでは考えられていない。
もっとも,ぽんたにそんな事情は関係ないらしい。少し考えたあと,何でもないことのように床へ伏せた。
「ここでいい」
「いや,だから」
「床,空いてるだろ」
「空いてますけど」
「俺,そんな場所取らない」
そう言って,ぽんたは尻尾を腹の横へ巻きつける。
確かに場所は取らない。中型犬ほどの体も,こうして丸くなれば部屋の隅に十分収まる。
問題はそこではないのだが,理人がそう言おうとしたところで,別のことが気になった。
丸くなった背中の毛が,やけに柔らかそうに見える。
かなり。
「……何」
視線に気づいたぽんたが顔を上げた。
「いや」
「今見てただろ」
「少し」
「触りたい?」
理人は一瞬黙った。
こういうところだけ妙に察しがいい。
「いいんですか」
「一回だけ」
「昨日も同じこと言ってませんでした?」
「昨日は昨日。今日は今日」
何が違うのかは分からないが,許可が出たなら遠慮する理由もない。理人はしゃがみ,ぽんたの頭へそっと手を置いた。
指先が厚い毛へ沈む。
「……」
「何だよ」
「やっぱり,かなりいいですね」
「何が」
「毛です」
「またそれか!」
ぽんたは文句を言ったが,逃げる様子はなかった。理人が耳の後ろを軽く撫でると,その耳がぴくりと動く。
「もう一回分くらい触ってない?」
「一回の時間は決めてません」
「それ,ずるいやつ!」
理人は少し笑って手を離した。
ぽんたは不満そうにこちらを見たものの,すぐに尻尾を解いて立ち上がる。
「では,下に行きましょう」
「何で」
「夕飯です」
「行く」
返事だけは早かった。
「そこは迷わないんですね」
◇
階段を半分ほど下りたところで,ぽんたが急に足を止めた。
下からは客たちの話し声や笑い声,食器が触れ合う音が聞こえてくる。夕食時にはまだ少し早いが,すでに何人かが食堂に集まっているらしい。
「人,多い」
「今は五人くらいですよ」
「多い」
「宿なので」
ぽんたは階下を窺うように首を伸ばしたあと,そっと理人の後ろへ回った。隠れているつもりなのだろうが,太い尻尾が理人の脚の横から完全にはみ出している。
「怖いんですか?」
「怖くない。警戒してる」
「じゃあ先に歩きます?」
「嫌」
「それを怖いって言うんじゃ」
「警戒!」
「はいはい」
口から自然に出た。
ぽんたが理人を見上げる。
「何だその返事」
「……何が?」
「今,急に雑だった」
言われてから,理人も気づいた。確かに今の返事は敬語ではなかった。
これまでも驚いたときや咄嗟の場面で言葉が崩れることはあったが,今のはそれとも少し違う。ただ普通に,そう返していた。
「嫌だった?」
「何が」
「話し方」
「別に」
ぽんたは尻尾を一度揺らした。
「そっちの方が普通じゃない?」
「そう?」
「うん。今までの方が変」
それなら,まあいいか。
理人自身,ぽんたに対していつまでも丁寧すぎる話し方を続けるのも,少し妙な気がし始めていた。年上なのか年下なのかすら分からないが,そもそもぽんた自身が自分の年齢を知らない。
「じゃあ,行くぞ」
「……」
「何」
「急に変えすぎ」
「どっちなんだよ」
「知らん」
ぽんたはそう言うと,試すように理人より先へ一段だけ下りた。
だが,食堂から誰かの大きな笑い声が響いた途端,すぐに後ろへ戻ってくる。
「やっぱり前行って」
「警戒なんだろ?」
「そう」
「はいはい」
「それ腹立つ」
理人は少し笑いながら,一階へ降りた。
◇
食堂へ入ると,最初にぽんたへ気づいたのはバルドだった。
「お。それか」
「それって言うな!」
理人の足元から顔を出したぽんたが,すぐに言い返す。
バルドは目を丸くした。
「本当に喋るんだな」
「喋るわ!」
「鍋にもなる?」
「……なる」
「便利だな」
「みんなそれ言う!」
声を聞きつけた客たちからも,ぽんたへ珍しそうな視線が集まった。
変化狸という種族そのものは,この辺りではまったく知られていないわけではないらしい。ただ,人里へ自分から入ってきて,人間と一緒に宿へ泊まる個体となると話は別なのだろう。
「あれ,魔獣か?」
「変化狸じゃないか」
「喋るんだな」
あちこちからそんな声が聞こえ,ぽんたの耳がせわしなく動く。
そこへ誰かが,「ずいぶん丸いな」と言った。
「丸くない!」
それにだけは即座に反応した。
全身の毛がぶわりと少し膨らみ,結果として先ほどより明らかに丸くなる。
理人は何も言わなかった。今それを指摘すれば,面倒なことになるのは分かる。
「リヒト」
「何」
「部屋戻ろう」
「飯は?」
ぽんたがぴたりと止まった。
「……食べてから」
「だと思った」
理人は食堂の端にあるテーブルを選んだ。ぽんたは椅子には座らず,理人の隣の床へ腰を下ろす。
そこなら背後に壁があり,食堂全体も見渡せる。森で暮らしてきたぽんたなりに,落ち着ける場所を選んだのだろう。
しばらくすると,厨房から煮込みの匂いと一緒にマルタがやってきた。
理人の前にはいつもの煮込みとパンが置かれ,ぽんたの前には,小さめの木皿に角猪の肉が多めに入った煮込みが置かれる。
「ほら。あんたの分」
ぽんたが皿へ鼻を近づけた。
「俺の?」
「あんた以外に狸がいるかい」
「いいの?」
「働くならね」
皿へ伸びかけたぽんたの鼻先が止まった。
「……聞いてない」
「昨日言っただろ。飯代と宿代くらい働きなって」
「明日からじゃないの?」
「じゃあ今日の夕飯は?」
「……」
「ただで食べる?」
ぽんたは困ったように理人を見上げた。
「助けて」
「自分も飯と寝床のために働いてる」
「仲間なのに!」
理人は少しだけ目を瞬いた。
「仲間?」
「違うのか?」
ぽんたは本当に不思議そうだった。
おそらく,そこに大した意味はない。森へ一緒に行き,料理を作り,道具の形を試した。今も同じ宿にいる。
ぽんたの中では,それで十分なのかもしれない。
「……まあ,今はそうかもな」
「今はって何だよ」
「細かい」
「お前が言うな!」
横で聞いていたマルタが笑った。
「仲いいねえ」
「よくない!」
「悪くはないだろ」
「……まあ」
「ほら」
「うるさい!」
ぽんたはそう言って,ようやく煮込みへ口をつけた。
最初は周囲を気にしながら食べていたが,一口,二口と進むうちに耳の動きが止まり,注意は完全に皿へ移った。
「うまい」
三口目には,ぽんたがそう言った。
「煮込み好きなんだな」
「肉ある」
「そこか」
「汁もうまい」
「それは分かる」
理人もパンをちぎり,煮込みの汁へ浸した。
この宿へ来た初日に食べた味だ。あのときは,異世界にも普通においしい料理があることに少し驚いた。
今ではもう,わずかに懐かしさすら感じる。
まだ一週間も経っていないのだが。
「これ,リヒトが作った?」
「違う。マルタさん」
「すごいな」
「本人に言えば?」
「聞こえてるよ!」
厨房から即座に声が飛んできた。
ぽんたの耳がぴんと立つ。
「何で聞こえるんだ!」
「店やってりゃ,これくらい聞こえるんだよ!」
「人間,耳いいな」
「たぶんマルタさんだけだと思う」
「リヒト!」
「すみません」
反射的に謝ると,隣でぽんたが小さく笑った。
◇
夕食を終えると,約束どおりぽんたにも仕事が与えられた。
「じゃあ,まず鍋になって」
「やっぱり!」
マルタがあまりにも真顔で言うので,ぽんたは本気で嫌そうな顔をした。
「冗談だよ」
「冗談!?」
「火にかけたら逃げるって聞いてるからね」
「言ったのか!」
ぽんたが理人を振り返る。
「重要な情報だったから」
「恥ずかしい情報だろ!」
「熱いものは熱いんだから仕方ないだろ」
「お前が蓋にしたんじゃねえか!」
「蓋になれるって言ったから」
「鉄板の上とは聞いてない!」
そのやり取りを聞いて,マルタは腹を抱えて笑った。厨房の奥にいたバルドまで,仕事の手を止めてこちらを見ている。
「で,本当に頼みたいのはこっち」
ひとしきり笑ってから,マルタが大きな木製の盆を指した。
「こういうのを運ぶの,手伝えるかい?」
「どうやって」
「平らな台みたいになれるだろ? その上に軽いものを載せればいい」
「俺の上に?」
「嫌なら別の仕事でもいいよ」
ぽんたは少し考えた。
火ではない。痛そうでもない。
そして何より,働けば飯が出る。
「働いたら飯?」
「明日からの分ね」
「やる」
決断は早かった。
「肉が絡むと本当に早いな」
「お前もだろ!」
「否定はしない」
「ほら!」
ぼふっ,と小さな煙が上がった。
そこに現れたのは,四本の短い脚がついた低い台だった。上面は平らで,見たところ小さな荷台に近い。
「どう」
台からぽんたの声がする。
理人は少し屈んで形を見る。
「いいんじゃないか。前に箱になったときより安定してる」
「だろ」
「褒めろ」
「今褒めた」
「もっと」
「かなり便利」
「よし」
それで満足らしい。
マルタが笑いながら,パンの入った軽い籠を台の上へ載せる。
「あそこのテーブルまで頼むよ」
「どこ」
「窓際」
ぽんた台が,短い脚を動かして歩き始めた。
思ったより普通に進む。ただ,人の姿のときよりはずいぶん遅い。
「……遅いな」
理人が言うと,台が止まった。
「聞こえてるぞ」
「別に悪いとは言ってない」
「速くする」
「いや,パン落ちるからそのままで」
「じゃあ言うな!」
食堂に笑いが起こる。
ぽんたはぶつぶつ言いながら,窓際の客のところまで進んだ。
「パンだ」
「うわっ,喋った!」
「悪いか!」
「ぽんた,揺らすな」
「お前のせいだ!」
「パン落ちるぞ」
「……」
ぴたりと止まる。
その様子にまた笑いが起こり,ぽんたは帰ってくるなり,ぼふっと元の姿へ戻った。
「もうやらん!」
「そうかい」
マルタはあっさり答え,懐から銅貨を一枚取り出した。
「これ,今日働いた分」
ぽんたの動きが止まる。
「……何」
「お金」
「それは知ってる」
「町で食べ物が買えるよ」
「肉?」
「買えるね」
「やる」
「さっきやらないって言っただろ」
「明日はやる」
「早いなあ」
マルタは楽しそうだった。
理人も思わず笑う。
「ぽんた」
「何」
「町に向いてるんじゃないか?」
「何で」
「働く理由が分かりやすい」
「肉は大事だろ」
「そこは同意する」
◇
結局そのあとも,ぽんたは何度か仕事をした。
小さな箱になって布を運び,低い台になって空いた軽い食器を厨房の近くまで運ぶ。形を変えるたびに客が珍しそうに見るため,そのたび毛を膨らませたり文句を言ったりしていたが,仕事そのものはきちんとこなしていた。
一度だけ,マルタが水差しを載せようとすると,ぽんたは即座に断った。
「それ重い」
「これでも?」
「無理」
自分のできることとできないことは,それなりに分かっているらしい。
仕事が一段落したところで,理人は床へ伏せて休んでいるぽんたに聞いた。
「無理して大きくなれないの?」
「なれるけど,薄くなる」
「薄く?」
「体の量,だいたい同じだから」
理人は少し考えた。
「じゃあ,大きく広がるほど厚みが減る?」
「そう」
「大きな盆にはなれても,重いものは載せにくいわけか」
「うん。小さい方が楽」
「なるほど」
形そのものは変えられても,元の身体量まで好きに増減できるわけではないらしい。大きく広げればその分だけ薄くなり,小さな形の方が安定する。
「じゃあ,大きな鍋にはなれても」
「薄い」
「穴開きそうだな」
「なるかも」
「火にかける以前の問題か」
「火にかけるな!」
反応が早い。
理人は少し笑った。
こうした何気ないやり取りの中で,ぽんたの変化について分かることが少しずつ増えていく。
昨日までなら,それは料理に使える道具を作るための情報だった。
だが,今日,宿の中を動き回るぽんたを見ていると,どうやらそれだけでもないらしい。
「使い道多いねえ」
空いた皿を片づけながら,マルタが言った。
「あんた,思ったより働けるじゃないか」
「思ったよりって何だ」
「褒めてるんだよ」
ぽんたの耳がぴんと立つ。
「……そう?」
「よく働いたよ」
今度は尻尾が一度だけ揺れた。
本人は気づいていないようだったので,理人も何も言わなかった。
◇
夜になると,一つ問題が残った。
「で」
二階の廊下で,ぽんたが理人を見上げる。
「どこで寝る」
「一階の物置なら空いてるって」
「嫌」
「何で」
「一人」
「森ではずっと一人だっただろ」
「町は違う」
「何が?」
「音が多い」
ぽんたは廊下の先を見た。
階下からはまだ何人かの客の話し声が聞こえ,外では荷車が石畳を通る音がする。少し離れたところでは,どこかの店が戸を閉めたらしく,乾いた音が響いた。
森の夜とはまったく違う。
「落ち着かない?」
「……警戒する」
「怖いんじゃなくて?」
「警戒」
「分かった分かった」
「また雑!」
理人は部屋の扉を開けた。
ぽんたが中を覗き込み,すぐに言う。
「ここがいい」
「やっぱり?」
「床でいい」
「毛,結構落ちそうだけど」
「落ちない!」
「それは無理だろ」
「お前の髪も落ちる!」
「それはそう」
妙に納得してしまった。
あらためて部屋を見る。寝台の脇にも,机の下にも,ぽんたが丸まって寝る程度の場所ならある。
「まあ,今日だけなら」
「明日は?」
「今日だけ」
「明後日は?」
「まず一日」
「けち」
「何か問題あったら困るだろ」
「何の」
「夜中に鍋になるとか」
「ならんわ!」
「分からないだろ。寝ぼけて」
「お前,俺を何だと思ってる」
「ぽんた」
「それはそう!」
理人は笑った。
ぽんたも,少しだけ口元を緩めた。
◇
灯りを消し,理人は寝台へ入り,ぽんたは床で丸くなった。
昼間とは違う静けさが部屋を満たしていく。
とはいえ,森の静けさとは違う。壁の向こうから時折人の足音が聞こえ,階下では戸を閉める音がする。遠くの通りからも,まだかすかに人の声が届いていた。
人が暮らす場所の夜だった。
「リヒト」
「何」
「起きてる?」
「今,灯り消したばかりだろ」
「そうだけど」
「どうした」
少し間があった。
「森」
「うん」
「明日どうなる」
理人は暗い天井を見上げた。
「分からない」
「……」
「ガルドたちが調べるって言ってたし,今考えても仕方ない」
「うん」
「危なければ,しばらくここにいればいいだろ」
「働く?」
「たぶん」
「……」
「飯代くらいはな」
「人間,厳しい」
「野生よりましじゃないか?」
「そうかも」
ぽんたの声が少し小さくなった。
それから,しばらくして。
「リヒト」
「何」
「俺,邪魔?」
理人は少しだけ目を開けた。
どうしてそんなことを聞くのか,何となく分かる気がした。
森では一匹で暮らしていた。群れの話になると,ぽんたはいつも少しだけ口数が減る。
ただ,今ここで勝手に理由を決めつける必要もない。
「部屋は少し狭くなる」
「……」
「でも,邪魔ではない」
「本当?」
「本当」
理人はそう答え,少し考えてから付け足した。
「むしろ冬なら暖かそうだし」
「毛目当てか!」
「便利だろ」
「俺を毛布みたいに言うな!」
「声大きい」
「お前が言ったんだろ!」
「下に聞こえるぞ」
「……」
ぽんたが黙った。
数秒して,小さな声がする。
「……触る?」
「今?」
「暖かいって言っただろ」
理人は少し笑った。
「今日は寝る」
「何で!」
「明日も仕事」
「今,絶対触りたかっただろ!」
「まあ」
「じゃあ触れよ!」
「明日」
「けち!」
「おやすみ,ぽんた」
「……」
少し間があってから,
「おやすみ」
と,小さな声が返ってきた。
◇
翌朝。
理人は,顔に何かが乗っている感覚で目を覚ました。
温かくて,少し重い。
そして,毛。
「……」
目を開けても,視界は茶色で埋まっていた。
「ぽんた」
返事はない。
「おい」
「ん……」
何かが少し動き,ようやく視界が開ける。
ぽんたはいつの間にか床から寝台へ上がり,理人の腹の横で丸くなっていた。そして太い尻尾だけが,なぜか理人の顔の上に乗っている。
「……何で」
「ぐう」
「寝てるのか」
少しだけ,尻尾へ触れる。
やはり柔らかい。
「……これは,かなりいいな」
「何が?」
「……」
手が止まった。
ぽんたの目が開いている。
「起きてた?」
「今起きた」
「そう」
「触ってた?」
「尻尾が顔に乗ってたから」
「それは聞いてない」
「……少し」
「かなり?」
「少し」
「嘘」
「朝から細かいな」
ぽんたが身を起こした。
「お前が言うな!」
理人は笑いながら上半身を起こす。
昨日までは,一人で使っていた部屋だった。
今朝は少し狭い。
けれど,それほど悪くない。
少しくらい賑やかな方が,今はちょうどよかった。
◇
朝食を食べ始めて間もなく,宿の入口が勢いよく開いた。
「マルタ!」
ガルドだった。
声が普段より低い。
後ろにはミレナもいる。
二人の顔を見た時点で,理人は手にしていた匙を置いた。先ほどまで肉を食べていたぽんたも,耳を立てて入口を見る。
「森の件ですか?」
「ああ」
ガルドが頷いた。
「足跡を確認した」
ぽんたが食べるのを止める。
「何の?」
答えたのはミレナだった。
「火爪熊」
その名前を聞いた瞬間,ぽんたの毛がわずかに逆立った。
理人はその変化を見逃さなかった。
「知ってるのか」
「……知ってる」
「強い?」
ぽんたが理人を見る。
「強い」
短い返事に,今までの軽さはなかった。
ガルドが横から続ける。
「あれは角猪とは比べるな。別物だ」
理人は,昨日の森で感じたものを思い出した。
舌の奥に残った,重く嫌な苦味。
あれが火爪熊のものだったのかは分からない。だが,強い何かが近くにいたという感覚とは繋がる。
「本来は,もっと奥にいる魔獣ですか?」
「そうだ」
ミレナが頷く。
「浅い場所まで出てくることは,滅多にない」
「一頭?」
「見つけた足跡は一頭分」
「大きさは?」
ガルドがわずかに間を置いた。
「でかい」
「普通より?」
「かなりな」
理人の舌の奥に,昨日の苦味が蘇ったような気がした。
「……あれか」
「味?」
ミレナが聞く。
「たぶん」
「昨日感じたやつ?」
「そうかもしれません」
断言はできない。
理人に分かるのは,あくまで強い何かの気配らしいものだけだ。
理人はぽんたを見る。
「寝床,近い?」
「……近い」
ぽんたの返事は短かった。
「今日は戻るな」
理人はすぐに言った。
「でも」
「干し肉も木の実も,今日はいい」
「……」
「取りに戻って火爪熊に会う方が困る。今は戻らない方がいい」
「でも俺の」
「なくなったら,また集めればいいだろ」
「……」
ぽんたは少し考えた。
いつもなら,もう一言くらいは言い返すところだ。
だが今日は,耳を伏せるようにして小さく頷いた。
「分かった」
理人は少しだけ息を抜いた。
「ガルドさん,どうする予定ですか?」
「今日は森へ入る人間を減らす。猟師と冒険者で,まず居場所を確認する」
「討伐?」
「まだ決めん」
ガルドは首を振った。
「奥へ戻せるなら,それが一番だ。下手に刺激して町側へ走らせる方がまずい」
「なるほど」
理人は頷く。
自分が何かをする話ではない。
今は,森のことはガルドたちに任せる。それでいい。
「ただ」
ガルドが続けた。
「一つ気になる」
「何です?」
「足跡を見る限り,あれはかなり大きい」
「さっきも言ってましたね」
「ああ」
ガルドの表情は変わらない。
ただ,次の言葉は慎重だった。
「火爪熊は,強い個体ほど森の奥にいる」
「……」
「なのに,あれだけでかいやつが浅いところまで来てる」
理人がその意味を考えていると,ミレナが先に口を開いた。
「火爪熊が,何かから逃げてきた可能性もある?」
食堂の空気が静まった。
さっきまで聞こえていた皿の音さえ,急に遠くなったように感じる。
「まだ分からん」
ガルドはそう答えた。
「だから調べる」
理人は隣にいるぽんたの頭へ手を置いた。
意識してやったわけではなかった。
ぽんたがこちらを見る。
「何」
「いや」
理人は一度,手を離そうとした。
だが,ぽんたは何も言わなかった。
だから理人も,そのままにした。
森の異変は,まだ始まったばかりだった。




