第14話 森の外まで
火爪熊。
名前だけなら,理人にとっては角猪と大差がない。どちらもこの世界へ来るまで聞いたことのなかった魔獣で,どれほど危険なのかも,自分の中に比較する基準がない。
それでも,ガルドが角猪とは比べるなと言い,ミレナまでいつもの軽さを消している。その二人の反応を見れば,わざわざ実物を見て確かめる必要はなかった。
「じゃあ,しばらく森には入れませんね」
理人がそう言うと,テーブルの下で丸くなっていたぽんたが顔を上げた。
「俺も?」
「ぽんたは特に」
「なんでだよ。俺の方がお前より森に慣れてるぞ」
「昨日,一緒に逃げただろ」
口にしてから,理人は少しだけ引っかかった。
以前なら「逃げたでしょう」と言っていたはずだ。それが,気づけば普通に言葉が崩れている。
ぽんたは気にした様子もなく,むしろその方が当然だという顔で鼻を鳴らした。
「逃げたんじゃねえ。危ないから離れただけだ」
「それを逃げたって言うんじゃないのか?」
「違う」
「何が?」
「気持ちが」
そこまで言い切られると,理人にも反論のしようがない。
向かいでは,ガルドが朝食のパンをちぎりながら笑っていたが,その表情はすぐに引き締まった。
「まあ,狸の言い分はともかく,森へ戻るのはなしだ。少なくとも今日明日はな」
「俺の肉がある」
ぽんたの耳が伏せられる。
「干したやつ。木の実もある。あと,でかい骨」
「骨は何に使うんだ?」
「噛む」
「……それは置いてきてもいいだろ」
「よくねえよ」
どうやら本人にとっては重要らしい。
とはいえ,食料と骨のために火爪熊のいる可能性がある森へ戻るという選択肢はない。理人が首を横に振ると,ぽんたは不満そうに尻尾を床へ打ちつけた。
その様子を見ていたマルタが,大きな鍋から煮込みをよそいながら口を挟む。
「肉なら働けば食べられるだろ。昨日もちゃんと働いたんだから」
「今日も?」
「飯を食べるならね」
ぽんたは一度だけ考え,すぐに頷いた。
「じゃあ働く」
判断が早い。
理人は,食事と安全が両方手に入るのだから合理的ではある,と思い直した。
もっとも,ぽんた本人がそこまで考えているかは怪しい。
◇
火爪熊が見つかったからといって,町中が騒ぎになったわけではなかった。
アルカは森の近くにある町で,魔獣が出ること自体は珍しくないらしい。門が閉ざされることもなければ,人々が家の中へ籠もることもない。
ただ,いつも通りでもなかった。
宿の前を通る冒険者の数が朝から多く,森側へ向かう者は普段よりしっかりと武装している。逆に,薪や薬草を取りに森へ入る予定だった町の人間は仕事を取りやめ,市場では森側の道を使う商人たちが情報を交換していた。
危険だから生活を止めるのではなく,危険の分だけやり方を変える。
この町では,それが普通なのだろう。
「リヒト,それをこっちへ」
マルタの声に呼ばれ,理人は考えるのをやめて桶を運んだ。
厨房でも,いつもとは少し違う仕事が増えていた。
森へ確認に向かう猟師や冒険者へ持たせるため,パンと干し肉,水をいくつかに分けている。宿の仕事というより,普段から付き合いのある者への差し入れらしい。
「水,もう少し冷たくできます」
「魔力は?」
「これくらいなら平気です」
「なら頼むよ。暑くはないけど,歩けば喉は渇くからね」
理人は水を入れた革袋へ手を当て,もう片方の手を大きな桶の水へ沈めた。
《熱交換》。
名前を付けてから何度か使っているが,やっていること自体は最初と変わらない。革袋の中の水から少しずつ熱を取り,桶の水へ移す。
しばらくすると,手の中の革袋がひんやりしてきた。
冷蔵庫のようにはいかない。それでも,ぬるい水よりは飲みやすいだろう。
「便利だな,それ」
声の方を見ると,ぽんたが四本の脚を突き出した低い台のような姿になり,その上へパンの籠を載せていた。
「ぽんたも十分便利だろ」
「だろ?」
即答だった。
昨日までは褒めると一度否定するか,何でもないふりをしていた気がする。宿で仕事を任されてから,ほんの少しだけ自信がついたのかもしれない。
もっとも,得意げになったせいか,台の上から尻尾のような突起が生えている。
「それ,必要か?」
「いる」
「台に尻尾はいらないだろ」
「俺だって分かるようにいる」
「見れば分かると思うけどな……」
返事の代わりに,台の尻尾が一度だけ左右へ振れた。
どうやら機嫌はいいらしい。
昼前になると,ガルドとミレナはいったん宿へ戻ってきた。
二人とも朝より泥が増えていたが,怪我はない。ガルドが空いている席へ腰を下ろすと,マルタが何も聞かずに水を出した。
「どうだった?」
理人が尋ねると,ガルドは水を半分ほど飲んでから答えた。
「足跡は見つかった。昨日の話どおり,火爪熊で間違いない」
ぽんたが台から元の姿へ戻り,理人の足元まで来る。
「まだいた?」
「少なくとも今朝まではな。ただ,妙なんだ」
ガルドは指先についた泥を布で拭きながら,テーブルの上へ簡単な線を描いた。
一本が森の奥から浅い方へ伸び,途中で大きく曲がっている。
「普通なら餌場か水場へ向かう。あるいは縄張りを歩き回る。だが,こいつはほとんど寄り道をしてない」
「まっすぐ来てるんですか?」
「まっすぐ,とも違う」
横からミレナが椅子を引いた。
「走ったり止まったりしてるみたい。枝を折った場所も何か所かあったし,斜面を滑った跡もあった。少なくとも,のんびり歩いてきた感じじゃない」
理人は,昨日の帰り道で聞いた枝の折れる音を思い出した。
自分たちを追っていたのかもしれないと思ったが,そもそも火爪熊は自分たちに気づいていたのだろうか。
「怪我は?」
「分からん。血は見つからなかった」
ガルドはそう答えたあと,少し考えて続けた。
「ただ,右の後ろ脚だけ,跡が深い場所がある」
「怪我してるってこと?」
ぽんたが聞く。
「その可能性もある。ただの歩き方の癖かもしれん。まだ決めつけるな」
「つまり,火爪熊が浅いところへ来た理由は,まだ分からない?」
「ああ」
理人の問いに,ガルドは短く頷いた。
そこで話を終わらせるあたりが,いかにもガルドらしい。
分からないものを無理に説明しない。その姿勢は,理人にはよく理解できた。
「何かから逃げた可能性は?」
昨日ミレナが口にした話を確認すると,彼女は少しだけ眉を寄せた。
「あるとは思う。でも,大きな火爪熊が逃げる相手ってなると,私はあんまり考えたくないかな」
「考えたくないものを考えないといけないのが嫌ですね」
「リヒトって,そういうところだけ教師っぽいよね」
「どういう意味ですか」
「分からないけど」
ミレナが笑ったところで,ガルドがテーブルを軽く叩いた。
「今は奥を調べるより,火爪熊の位置を把握する方が先だ。町へ来なければ,無理に狩る必要もない」
「討伐しないんですか?」
「近づかなければな。森はあいつらの場所でもある」
その答えに,理人は少しだけ意外さを感じた。
危険な魔獣がいるなら倒す,という単純な話ではないらしい。
考えてみれば当然だった。森にいるすべての危険な魔獣を倒して回るなど,不可能だろう。
町へ来るなら止める。来ないなら近づかない。
理人には,その方針の方がずっと納得できた。
「じゃあ,今日は?」
「俺たちはもう一度足跡を追う。ただし,深くは入らん」
ガルドが立ち上がる。
「お前はここにいろ」
「そのつもりです」
即答すると,ミレナが少し笑った。
「そこは『手伝います』って言うところじゃないの?」
「戦えない人間がついていって,何を手伝うんですか」
「うん。リヒトならそう言うと思った」
戦えるならともかく,今の理人にできることは少ない。
《熱交換》があるとはいえ,肉を冷やしたり,鉄板の熱を少し逃がしたりする能力だ。火爪熊を相手に何ができるかなど分からないし,試して確認しようとも思わない。
死なずに済む場所にいるなら,そこにいるべきだ。
◇
昼を過ぎる頃には,宿の食堂はいつもより空いていた。
森仕事を休んだ者がいる一方で,猟師や冒険者の多くは外へ出ている。客が少ない分,ぽんたは朝よりのびのびと床を歩き回っていた。
「暇だ」
「働けば?」
「何すればいい」
理人が厨房を見ると,マルタは大きな鍋を混ぜているところだった。
「マルタさん,ぽんた暇らしいです」
「じゃあ,そこのパンを棚まで運んどくれ」
「また台?」
「嫌なら箱でもいいよ」
「箱にする」
ぽんたの輪郭がぐにゃりと歪み,少しずんぐりした箱へ変わる。
昨日より変化が滑らかだ。
理人はパンの入った籠をその中へ置き,両脇を持ち上げようとして止まった。
「これ,俺が運ぶなら,ぽんたが箱になる意味あるのか?」
「ある」
「どこに?」
「働いてる」
「……そうか」
本人が納得しているならいいのだろう。
理人が箱ごと運んで棚へ置くと,元に戻ったぽんたが満足そうに胸を張った。
「今日の飯,増える?」
「それはマルタさんに聞け」
「肉」
「指定するな」
何気ない会話をしていると,本当に昨日まで森で会っていた狸なのか分からなくなる。
いつまで宿にいることになるのかは,まだ決まっていない。火爪熊が森の奥へ戻れば,ぽんたも元の寝床へ戻ると言うかもしれない。
それはそれで当然だ。
理人が決めることではない。
ただ,床を歩くぽんたの尻尾を目で追いながら,少し静かになるだろうな,とは思った。
「何見てる」
「別に」
「尻尾見てただろ」
「見てない」
「見てた」
「仕事しろ」
「今終わった!」
ぽんたが足へしがみついてきたところで,宿の扉が勢いよく開いた。
二人ともそちらを見る。
入ってきたのは,見覚えのない若い男だった。
服の裾は泥だらけで,額から汗を流している。その後ろからもう一人,肩を貸されるようにして男が入ってきた。
「マルタさん!」
厨房からマルタが顔を出す。
「どうしたんだい?」
「北の道で魔獣にやられた!」
食堂の空気が変わった。
理人が近づくと,支えられている男の上着が肩の辺りから裂けているのが見えた。血は出ているが,自分で歩けてはいる。
「火爪熊かい?」
「分からない。見てないんだ。荷車が急に止まって,森の方から何か出てきて……馬代わりの走蜥蜴が暴れて,こいつが荷台から落ちた」
「襲われたんじゃないのか?」
「爪みたいなのが荷車に残ってた。でも,俺たちを追っては来なかった」
マルタはすぐに椅子を空け,奥から布と水を持ってくるようバルドへ声をかけた。
理人は邪魔にならない位置まで下がる。
傷の手当ては,自分の仕事ではない。
代わりに,男が話した内容を頭の中で整理する。
北の道。
森から出た何か。
荷車には爪痕。
人間を追わなかった。
「どこです?」
思わず尋ねると,無傷の方の男が振り返った。
「町から?」
「はい」
「そんなに遠くない。歩いて半刻もかからない辺りだ」
近い。
森の中で火爪熊が動いているのと,町へつながる道に魔獣が出るのでは意味が違う。
「荷車は?」
「置いてきた。走蜥蜴も逃げた」
「爪痕は大きかった?」
「こんなもんじゃない」
男は両手を広げた。
正確な大きさは分からないが,小さくはない。
足元で,ぽんたが理人のズボンを前脚で掴んだ。
「火爪熊?」
「分からない」
「でも,でかい爪」
「火爪熊だけが爪を持ってるわけじゃないだろ」
「そうだけど」
ぽんたの耳が少し後ろへ倒れていた。
不安なのだろう。
理人自身も似たようなものだったが,分からないことを推測だけで決めても意味はない。
そこへ,外から鐘が鳴った。
一度。
少し間を置いて,もう一度。
食堂の中にいた者たちが,一斉に顔を上げる。
「何の鐘です?」
理人が聞くと,バルドが窓の外を見た。
「門だ」
「閉めるんですか?」
「いや。あれは森側の道で何かあったときの知らせだ」
マルタが,怪我人へ布を押し当てたまま舌打ちする。
「よりによって,ガルドたちが出てるときに」
理人は窓の外へ視線を向けた。
宿から門は見えない。ただ,通りを歩いていた人々が足を止め,同じ方向を見ている。
まだ悲鳴はない。
走って逃げてくる者もいない。
けれど,町の空気が明らかに変わっていた。
そのときだった。
舌の奥へ,何かが触れた。
苦い。
角猪のときとは違う,舌へ残るような重さを伴った苦味。
昨日,森の中で感じたものとよく似ている。
理人は無意識に口元へ手を当てた。
「リヒト?」
ぽんたが見上げている。
「……苦い」
それだけで,ぽんたの毛がわずかに膨らんだ。
「いるのか?」
「分からない」
「近い?」
「それも分からない」
理人は首を振った。
何度使っても,この感覚は答えをくれない。ただ,そこに何かがあるらしいと知らせるだけだ。
それで十分なときもある。
十分すぎるときもある。
外から,三度目の鐘が鳴った。
今度は先ほどよりも強く,長かった。
バルドが低い声で言う。
「近いな」
理人はぽんたを見る。
ぽんたも理人を見ていた。
森の中にいるなら,近づかなければいい。
今朝,そう考えたばかりだった。
けれど,どうやら森の方から,こちらへ近づいてきているらしい。




