第15話 逃げるための一歩
三度目の鐘が鳴り終わるより早く,通りの空気が動いた。
「森側の門から離れろ!」
外で誰かが叫び,立ち止まっていた人々が一斉に歩き出す。まだ走る者は少ないが,店先の商品を片づける者や,子どもの手を引いて家へ入る者の動きには迷いがなかった。
アルカでは,こういうときに何をすべきかがある程度決まっているらしい。
理人だけが知らない。
「リヒト,ぼさっとしてるんじゃないよ」
マルタの声で我に返る。
「何をすればいいですか」
「まずその二人を奥へ。バルド!」
「ああ」
肩を負傷した男を,バルドと連れの男が宿の奥へ運んでいく。理人も反対側から身体を支えたが,傷口を見てもできることはない。
高校教師に応急処置の知識がまったくないわけではない。しかし,それは現代日本の環境が前提だ。異世界の傷薬も治療法も知らない状況で,知ったつもりで手を出す方が危険だった。
「俺は?」
足元でぽんたが聞く。
「ここにいろ」
「リヒトは?」
「俺も――」
残る。
そう答えようとしたところで,外から声が飛んだ。
「水を門へ! 樽ごと持ってこい!」
宿の入口から顔を出すと,数人の男が大きな水桶を運びながら北側へ走っている。火事への備えなのか,負傷者用なのかは分からない。
「バルド!」
理人が振り向くより先に,マルタが主人を呼んだ。
「水場の樽,出せるかい?」
「二つある。片方は半分だ」
「持ってくよ」
マルタが即答する。
町で何をすればいいのか分からない理人にも,水を運ぶくらいならできる。
「手伝います」
「なら小さい方だ。大きいのは無理するんじゃないよ」
「分かりました」
理人が宿の裏手へ向かおうとすると,ぽんたがついてくる。
「ぽんたはここ」
「なんで」
「危ないかもしれないから」
「お前も行くじゃねえか」
「町の中だし,水を運ぶだけだ」
「俺も運べる」
ぽんたが胸を張る。
否定しようとして,理人は少し考えた。
変身して重い樽を持てるわけではない。しかし,小さな荷物なら人間より低い位置で安定して運べる。
「……無理そうならすぐ戻るぞ」
「分かってる」
「勝手に前へ行くなよ」
「分かってるって」
返事が妙に早い。
たぶん,半分くらいしか分かっていない。
◇
北門へ近づくほど,人の流れが逆向きになった。
門へ向かうのは,武器を持った者と水や道具を運ぶ者ばかりで,それ以外は町の中心へ戻されている。
理人はバルドと二人で小ぶりな水樽を運び,ぽんたはその横を走っていた。
門まで行くつもりはなかった。
途中の集積場所へ水を置けば戻る。それがマルタとの約束でもある。
「ここでいい!」
革鎧を着た男に指示され,樽を路肩へ下ろす。
その瞬間,森側から低い音が響いた。
獣の声というより,喉の奥で空気を震わせたような音だった。
ぞわりと舌の奥が苦くなる。
「……いる」
思わず口にすると,ぽんたが理人の脚へ寄った。
「火爪熊?」
「分からない」
「またそれか」
「分からないものは分からない」
ただ,昨日感じたものに近い。
しかも今は,昨日よりも濃かった。
門の外で誰かが叫ぶ。
続いて,木が何かにぶつかる重い音。
「下がれ!」
今度の声は近かった。
門のそばにいた者たちが武器を構える。理人は反射的に一歩後ろへ下がった。
帰るべきだ。
そう判断したところで,門の外から一台の荷車が傾きながら飛び込んできた。
片方の車輪が壊れている。
引き手の走蜥蜴はいない。
荷車だけが石畳を削り,最後は横倒しになって止まった。
その向こうから,大きな影が現れた。
「……熊」
理人の口から声が漏れる。
形は確かに熊に近い。
ただし,日本で見た映像の熊より明らかに大きかった。
四本脚で立っていても,人の胸ほどの高さがある。黒褐色の毛はところどころ泥で固まり,右後ろ脚には何かに擦ったような跡があった。
そして,前脚。
長い爪の周りで,空気が揺れている。
炎が燃えているわけではない。それでも,近くの石畳からかすかに湯気が上がっていた。
「火爪熊だ!」
誰かが叫んだ。
理人は一歩,さらに後ろへ下がる。
火爪熊はこちらを見ていなかった。
荒い息を吐き,何度も後ろを振り返っている。
やはり,何かから逃げているのではないか。
そんな考えが浮かんだ直後,門番の一人が槍を構えた。
「来るぞ!」
火爪熊が頭を上げる。
舌の奥の苦味が,一気に濃くなった。
「待って!」
理人が叫ぶ。
何を待てと言ったのか,自分でも分からない。
ただ,角猪が突っ込んできたときと同じだった。
何かが起きる直前に,味が強くなる。
「下がって!」
今度は意味を持って叫んだ。
直後,火爪熊が前脚を振った。
爪の周囲から赤い光が走り,門の横に積まれていた木箱が一瞬で裂けた。
破片が散る。
「うわっ!」
槍を持っていた男が身体を引いた。あと一歩前にいれば,木箱と同じだったかもしれない。
理人の喉が乾く。
当たれば死ぬ。
確認する必要もない。
「リヒト」
ぽんたが低い声で呼んだ。
「戻るぞ」
「分かってる」
門の反対側へ下がる。
だが,道の中央には倒れた荷車があり,人の動きが詰まっていた。
火爪熊も混乱しているのか,門の内側へ一歩入り,低く唸る。
人間を狙っているようには見えない。
ただ,進む先に人がいる。
それだけで十分危険だった。
「道を空けろ! 刺激するな!」
聞き覚えのある声が響いた。
「ガルド!」
門の外からガルドとミレナが走り込んでくる。二人とも朝よりさらに泥まみれだった。
ガルドは火爪熊を見て,すぐに弓へ矢をつがえた。
「右脚を痛めてる! 追い込むな!」
「町の中へ入るよ!」
ミレナが剣を抜く。
「分かってる。左へ逃がす!」
門を正面に見て左側には,町外れへ続く広めの道がある。
そこへ誘導するつもりらしい。
理人は下がりながら周囲を見る。
人間,倒れた荷車,水樽,石畳,逃げ道は。一気に情報が目から入ってくる。
自分にできることはない。
そう思った。
次の瞬間,火爪熊がミレナへ向きを変えた。
苦味が増す。
「ミレナ!」
「分かってる!」
ミレナが横へ跳ぶ。
爪が石畳を抉り,赤い火花のようなものが散った。
そこへガルドの矢が飛ぶ。
火爪熊の肩へ当たったが,浅い。矢は毛皮を裂いただけで弾かれた。
「硬いな……!」
ガルドが舌打ちする。
火爪熊がもう一度ミレナへ向かう。
あと少し左へ行けば,町外れへの道だ。
だが,その間にミレナがいる。ミレナが危ない。
何か,ほんの少しでいい。
足が止まれば。
理人の視線が,石畳へ落ちた。
さっき運んできた水樽から水がこぼれ,路面が濡れている。
倒れた荷車の近くまで,細く流れていた。
その横には,まだ半分以上水の残った樽がある。
「……できるか?」
口に出してから,自分で答える。
分からない。
なら,できる範囲だけやる。
「ぽんた,下がってろ」
「何するんだ」
「分からない。試す」
「それ一番怖いやつだろ!」
その通りだと思う。
それでも,走り出すわけではない。
理人は火爪熊から距離を取ったまま,路肩の水樽へ膝をついた。
片手を樽の水へ入れる。
もう片方を,石畳を流れる薄い水へ触れさせた。
冷やす。
全部ではない。
火爪熊が踏み込みそうな場所だけ。
石の上へ広がった薄い水から熱を取り,樽の中の水へ移す。
樽の水がわずかにぬるくなる。
一方で,石畳の表面が冷えていく。
遅い。
「もう少し……」
頭の奥が少し重くなる。
まだ。
水の端が白く濁った。
完全な氷ではない。それでも,薄い膜のようなものが石の表面へ張っていく。
「リヒト,何やってる!」
ガルドの声。
「足元!」
「何?」
「そこの水,滑ります!」
説明としては最低だった。
それでも,ガルドは一瞬だけ地面を見て理解したらしい。
「ミレナ! 右へ!」
「はい!」
ミレナが進路を変えた。
火爪熊が追う。
一歩,二歩……。三歩目の前脚が,理人の冷やした場所へ乗った。
ずるりと,巨体が傾く。
「今!」
ガルドが矢を放った。
今度は目ではなく,火爪熊の鼻先を掠めるように飛ぶ。
火爪熊が反射的に顔をそむけた。
その横から,ミレナが剣の腹で地面を叩く。
「こっち!」
怒らせるのではなく,注意だけを引く。
空いた左の道へ,火爪熊の身体が向いた。
「行け!」
ガルドの声に押されるように,火爪熊が走り出す。
右後ろ脚をわずかに引きずりながら,町外れへ続く道を駆け抜けていった。
誰も追わない。
ガルドも,ミレナも。
理人はその場に座り込んだまま,遠ざかる背中を見る。
火爪熊は一度も振り返らなかった。
◇
「……追わないんですね」
理人が言うと,ガルドは弓を下ろした。
「追う理由がない」
「でも,また来るかもしれない」
「だから様子を見る。今あれを追って森へ入ったら,余計なものまで踏むかもしれん」
やはり,この人はそういう判断をする。
理人は少し安心した。
「リヒト」
ミレナが近づいてくる。
「はい」
「何したの?」
「水を冷やしました」
「見れば分かる」
「じゃあ,それです」
「何で凍ってるの?」
「熱を別の水に移しました」
ミレナが理人の隣にある樽へ手を突っ込んだ。
「あ,こっちは温かい」
「だから《熱交換》です」
「……それ,料理用じゃなかったの?」
「別に料理専用ではないです」
「今,かなり便利だったよ?」
「自分でもそう思いました」
ただし,便利だったからといって勘違いしてはいけない。
火爪熊を倒したわけではない。
転ばせた,とすら言い切れない。
少し滑らせただけだ。
それも,水がこぼれていて,大きな樽がすぐ横にあり,火爪熊がちょうどそこを踏んだからできた。
同じことをもう一度やれと言われても,できる保証はない。
「リヒト!」
ぽんたが走ってきた。
「下がってろって言っただろ」
「下がってた! 途中まで!」
「途中までって何だよ」
「お前がしゃがんだから,死んだかと思った!」
「しゃがんだだけで死んだことにするな」
ぽんたが理人の膝へ前脚をかける。
「頭痛い?」
「少し重い」
「魔力?」
「たぶん」
「じゃあ使いすぎだろ」
ぽんたが真顔になった。
森で,自分が変身を繰り返して疲れたときのことを覚えているのだろう。
「もう使わない」
「ほんとか?」
「今はな」
「今は,って言うな」
「必要なら使う」
「使う前に逃げろ!」
理人は一瞬黙った。
「それはそうだな」
「だろ!」
なぜかぽんたが得意げになる。
けれど,間違ってはいない。
今のも,逃げられるなら何もしない方がよかった。
逃げ道に火爪熊がいた。
ミレナが狙われた。
だから使った。
その順番だけは,今後も間違えないようにしたかった。
◇
怪我人は出たが,死者はいなかった。
最初に宿へ運ばれた男も,荷車から落ちた際に肩を切っただけで,命に関わる傷ではなかったらしい。
町へ入ってきた火爪熊も,人を追って襲ったわけではない。
そこだけ見れば,運がよかった。
ただし,問題は何も解決していなかった。
夕方,宿の食堂にはガルド,ミレナ,バルド,マルタ,理人,そしてぽんたが集まっていた。
「足跡を追った感じだと,あいつはやっぱり森の奥からまっすぐ出てきてる」
ガルドが卓上へ簡単な線を描く。
「今日,町へ入ってきたのも,人を狙ったというより進んだ先に門があっただけだろう」
「じゃあ,町を襲うつもりじゃなかった?」
ぽんたが聞く。
「たぶんな」
「じゃあ戻れる?」
「どこに」
「森」
「駄目」
理人とガルドの声が重なった。
ぽんたが不満そうに二人を見る。
「なんでだよ」
「火爪熊が町まで出てきたんだぞ」
「もういない」
「一匹だけとは限らない」
理人が答えると,ぽんたの耳が少し下がった。
それに,もっと大きな問題がある。
「火爪熊が何かから逃げてきたなら,原因はまだ森の奥ですよね」
「ああ」
ガルドが頷く。
「そこが一番嫌なところだ」
ミレナは椅子の背へ身体を預け,息を吐いた。
「火爪熊より強い魔獣がいる,とは限らないけどね。山火事とか,魔力の異常とか,大きな群れが動いたとか。他にも理由はある」
「どれならましですか?」
「……選びたくないかな」
「ですよね」
理人は卓上へ視線を落とす。
森の静けさ。
小型魔獣の移動。
浅い場所まで来た火爪熊。
そして,町まで出てきた。
一つずつなら偶然でも説明できるかもしれない。
だが,重なりすぎている。
「ぽんた」
「何だ」
「しばらく宿にいた方がいい」
「……どれくらい?」
「分からない」
「またそれか」
「分からないから仕方ないだろ」
ぽんたは黙り,少し考えてからマルタを見る。
「飯は?」
「働けば出すよ」
「肉は?」
「働き次第」
「じゃあいる」
またしても判断が早かった。
マルタが笑う。
「決まりだね」
理人は思わずぽんたを見る。
「そんな簡単に決めていいのか?」
「何が」
「森に戻らなくて」
ぽんたの尻尾が一度だけ床を払った。
「今戻って死ぬよりいいだろ」
「……それはそうだな」
「リヒトが言ったんだろ。危ないなら逃げろって」
正確には,自分が言った言葉ではなかった気もする。
ただ,考え方は同じだった。
危険なら逃げる。
生きていれば,あとで戻れる。
理人は頷く。
「じゃあ,しばらくよろしく」
「おう」
ぽんたが当然のように返した。
その直後,マルタが厨房から声を飛ばす。
「ぽんた! 泊まるなら皿運び!」
「今決まったばっかだぞ!」
「飯も今日から食べるだろ!」
「分かったよ!」
ぽんたが立ち上がって厨房へ走っていく。
その背中を見送りながら,理人は少し笑った。
森では,何かが起きている。
それが何なのかは,まだ分からない。
火爪熊より危険なのかもしれないし,まったく別の原因かもしれない。
今の自分にできることも,多くはない。
それでも,一つだけ変わったことがある。
森で一匹で暮らしていた狸が,少なくとも当分はこの宿にいる。
「リヒト!」
厨房からぽんたの声がした。
「何?」
「皿多い!」
「働け」
「手伝え!」
「それ俺の仕事じゃない」
「教師だろ!」
「教師は皿運びの職業じゃない」
「じゃあ何の役に立つんだよ!」
「今それ聞く?」
マルタの笑い声が厨房から響いた。
理人も席を立つ。
森のことは気になる。
けれど,分からないことを今ここで考え続けても,答えは出ない。
ならばまず,目の前の皿を運ぶ方がいい。
火爪熊を滑らせた日も,結局最後に待っていたのは,いつもの宿の仕事だった。




