第16話 森の水が苦い
翌朝,理人が最初に確認したのは,昨日火爪熊を滑らせた方法をもう一度使えるかどうかだった。
もちろん,火爪熊相手ではない。
宿の裏庭である。
「朝から何してんだ?」
ぽんたが欠伸をしながら,勝手口から顔を出した。昨日から宿へ残ることが決まり,すでに自分の家のような顔をしている。
「昨日の確認」
「熊呼ぶの?」
「呼ばない」
「じゃあ何すんだよ」
「水を凍らせられるか試す」
理人が答えると,ぽんたは一瞬黙り,それから少し距離を取った。
「俺,離れてる」
「正しい判断だな」
「昨日頭痛いって言ってただろ」
「だから安全な範囲でやる」
裏庭には,小さな木桶を二つ用意してある。
片方には井戸水を半分ほど,もう片方にはその倍ほどの水を入れた。昨日は石畳に広がった薄い水と,樽に入った大量の水との間で熱を移した。条件がかなり違うので,まずは単純なところから確かめたかった。
理人は両方の桶へ片手ずつ入れる。
「右から左へ……」
「右ってどっち」
「俺の右」
「分かんねえ」
「じゃあ小さい方から大きい方へ」
「最初からそう言えよ」
ぽんたの指摘はもっともだった。
理人は小さい桶の水から熱を取り,大きい桶へ移す意識を持つ。
最初は何も起きない。
数秒して,小さい方の水が少し冷たくなった。
同時に,大きい方はほんのわずかにぬるくなる。
「前より分かりやすいな」
「何が?」
「移ってる」
「熱が?」
「たぶん」
自分で言いながら,理人は手を止めた。
たぶん,である。
温度計があるわけでもない。感覚だけで「何度下がった」と言えるほど便利ではなかった。
ただ,両方の水を交互に触れば差は分かる。
「もっとやる?」
「少しだけ」
再び集中する。
小さい桶の水がさらに冷える。
しかし,昨日のように表面が白くなるところまではいかない。
代わりに,頭の奥へごく薄い重さが出てきた。
理人はすぐに手を離した。
「終わり」
「早くね?」
「これくらいでいい」
「凍ってないぞ」
「凍らせることが目的じゃない」
「水を凍らせるって言ったじゃん」
「できるかどうかを試しただけ」
ぽんたが不満そうにこちらを見る。
どうやら,氷ができるところを期待していたらしい。
「昨日はできたんだろ?」
「昨日は地面に薄く広がってた水だからな。量が少なかった」
「じゃあ薄くすれば?」
「それも試す」
石皿へ少量の水を広げ,今度はそこから桶へ熱を移す。
こちらは変化が早かった。
水の縁から白く濁り,やがて指で触れれば崩れる程度の薄い氷膜ができる。
「おお」
ぽんたが近づいた。
「できた」
「できたな」
「食える?」
「水だから食えるけど」
「じゃあくれ」
「何で」
「冷たい水,食ったことない」
そう言われてみれば,氷そのものは珍しいのかもしれない。
理人が薄い氷を指で割ると,ぽんたは小さな欠片を口へ入れた。
「……冷たい」
「そうだな」
「味しない」
「水だからな」
「これ,何がいいんだ?」
「暑いときに便利」
「今寒いぞ」
「そうだね」
ぽんたは口の中の氷を噛み砕き,納得したのかしていないのか分からない顔で飲み込んだ。
理人は石皿を見る。
昨日,火爪熊を滑らせられたのは,能力が急に強くなったからではない。
薄く広がった水。
十分な受け皿になる水樽。
火爪熊がそこを踏む位置関係。
条件が偶然揃っていた。
今の《熱交換》で,同じことを地面一帯へ広げるのは無理だろう。
それでいい。
戦うための能力ではないし,そうするつもりもない。
「リヒト」
「ん?」
「石も冷やせる?」
ぽんたが,足元の石を前脚で叩いた。
「たぶん」
「たぶんばっかだな」
「試してないものはそう言うしかないだろ」
今度は小さな石を水桶へ入れ,石から水へ熱を移してみる。
水だけの場合より時間がかかったが,しばらくすると石は明らかに冷たくなった。
理人は少し考え,次に木片でも試した。
こちらも冷える。
ただ,感覚としては石よりさらに遅い。
「物によって違うな」
「何が?」
「熱の移りやすさ」
「石と木で?」
「たぶん」
「また言った」
「だから,分からないものは分からないんだって」
理人は笑いながら立ち上がった。
高校数学の教師ではあるが,熱伝導の専門家ではない。学校で習った知識や,日常生活で知っている感覚はあっても,この世界の物質が日本とまったく同じ性質を持つ保証もない。
必要になったら,その都度確かめればいい。
「朝飯!」
勝手口からマルタの声が飛んできた。
「はい!」
「肉!」
「ぽんたは返事より先に食べ物言うのやめろ」
「朝飯に肉ある?」
「知らないよ」
二人で宿へ戻る。
氷の実験より,今は朝食の方が優先だった。
◇
その日のアルカは,昨日より少し静かだった。
北側の道は完全に閉鎖されたわけではないものの,森沿いを通る商人には迂回が勧められ,薪や薬草を取りに入る者も減っている。
一方で,昨日町へ入り込んだ火爪熊そのものは,朝の調査では見つからなかったらしい。
森へ戻ったのか。
別の方向へ逃げたのか。
それすらまだ分からない。
昼前になると,ガルドとミレナが宿へ戻ってきた。
二人とも怪我はしていなかったが,ガルドの靴には昨日より濃い泥がついている。
「今日は奥まで行ったんですか?」
理人が水を出しながら聞くと,ガルドは首を横に振った。
「いや。昨日の熊が通った辺りまでだ。そこから先はまだ入ってない」
「何か分かりました?」
「分かったというより,分からなくなったな」
ガルドは水を飲み,テーブルへ指で線を引いた。
「火爪熊の跡だけなら,強い何かに追われてきたと思えば筋は通る」
「違ったんですか?」
「他の跡も同じ向きなんだよ」
ミレナが横から答える。
理人は彼女を見る。
「他の?」
「森鹿,小型の角兎,あと名前分からないと思うけど,穴掘って暮らす小さいやつ。どれも奥から浅い方へ移動してる」
「食われる側ばかりですね」
「それだけじゃない」
ガルドが続けた。
「小型の肉食魔獣の跡もある。普段なら縄張りが重ならんやつまで,同じ方へ出てきてる」
理人は少し黙った。
強い魔獣が一匹いる。
だから弱い魔獣が逃げる。
そこまでは分かりやすい。
しかし,捕食する側とされる側がまとめて同じ方向へ動くとなると,話が違う。
「一匹に追われてる動きじゃない?」
「たぶんな」
ガルドも断定はしない。
ミレナが頬杖をつきながら言う。
「それに鳥も変なんだよね。森の奥側から群れで飛んできてるのが何度か見られてる」
「火爪熊より強い何かがいたとしても,鳥まで一緒に逃げるとは限らないか」
「そういうこと」
理人は腕を組む。
「じゃあ,何か一匹じゃなくて……場所そのもの?」
口にしてから,自分で少し違和感を覚えた。
場所そのものが危険。
具体的には何だ。
火事なら煙が見えるだろう。
洪水なら痕跡がある。
地崩れなら音や地形の変化が確認できるはずだ。
「森の奥で何か起きてる,とは思う」
ガルドが言う。
「ただ,今のところ火も煙もない。大きな崩れも見つかってない」
「魔力?」
ぽんたが言った。
いつの間にか理人の椅子の横へ座っている。
「魔力って,そんなことあるの?」
ミレナが聞き返した。
「知らん」
「知らないのか」
「俺,森にいただけだぞ」
ぽんたは胸を張って言ったが,自慢するところではない気がする。
「でも,奥の方,最近変だった」
ぽんたが続けた。
理人は顔を向ける。
「変って?」
「匂いじゃない。音でもない」
「じゃあ何だ?」
「分かんねえ」
ぽんたが少し苛立ったように耳を動かした。
「なんか,落ち着かない感じ」
理人はガルドを見る。
「ぽんたが前に言ってた『奥が変』って,これですかね」
「かもしれん」
「でも分からない」
ぽんたが先回りして言う。
「分かってる」
理人は笑った。
自分も同じだ。
舌で苦味を感じても,その正体までは分からない。
感じることと,理解することは別だった。
◇
「そうだ」
ガルドが腰の袋を探り,小さな革袋を一つ取り出した。
「これ,見てくれ」
「何です?」
「水だ」
「見れば分かります」
「森の水」
理人の手が止まった。
「どこの?」
「昨日の火爪熊の跡から,もう少し奥へ行った沢だ。普段から猟師が飲むところだから,変な水じゃない」
「今までと見た目は?」
「変わらん」
ガルドが革袋を開き,木の杯へ少しだけ注ぐ。
透明だった。
濁りもない。
匂いを嗅いでも,普通の水としか思えない。
「飲むの?」
ミレナが理人を見る。
「何で俺に聞くんです」
「味で何か分かるかもしれないんでしょ?」
「魔力が味っぽく感じるだけで,毒見はできないですよ」
「じゃあ飲まない方がいいね」
「そうですね」
そこで会話を聞いていたマルタが,厨房から顔を出した。
「当たり前だよ。何でも口に入れるんじゃない」
「まだ入れてません」
「入れそうな顔してた」
「どんな顔ですか」
「教師のくせに変なところで子どもみたいな顔」
理人は反論しようとしたが,やめた。
少しは試したいと思っていたので,完全には否定できない。
「触るだけなら?」
ガルドが聞く。
「やってみます」
理人は木杯へ指先を浸した。
何もない。
少し冷たい。
それだけだった。
いや。
舌の奥に,ごく薄い何かが残る。
理人は眉を寄せる。
「どうした?」
「……少し」
「苦い?」
ぽんたが聞いた。
「たぶん」
「またたぶん」
「黙ってて」
理人は目を閉じる。
火爪熊を前にしたときのような重い苦味ではない。
角猪とも違う。
もっと薄い。
気にしなければ見逃す程度だ。
それでも,確かに何かある気がする。
「比較したい」
「何と?」
「井戸水」
マルタに頼み,宿の井戸水を別の杯へ入れてもらう。
そちらへ指を浸す。
何も感じない。
もう一度,森の水へ。
やはり,薄い。
ほんのわずかな苦味。
「違います」
理人が言った。
ガルドの表情が変わる。
「森の方だけ?」
「はい。ただ……これが何なのかは分かりません」
「魔獣の魔力か?」
「分からないです」
「強さは?」
「それも」
答えられないことばかりだった。
それでも,一つだけ事実らしいものが増えた。
理人は杯の水を見る。
「昨日まで,魔獣が近くにいるときに感じるものだと思ってました」
「違う?」
「少なくとも,この水には何か感じます」
「沢の近くに魔獣がいたとか?」
ミレナの疑問は当然だった。
「あり得ます」
「じゃあまだ分かんないね」
「はい」
理人は頷く。
ただ,試す方法はある。
「別の場所の水も持ってきてもらえますか」
「森の?」
「できれば場所を変えて何か所か。ただし,そのために危険なところへ行く必要はないです」
「そこは心配するな」
ガルドが苦笑した。
「俺も水汲むために死ぬ気はない」
「ならお願いします」
「葉っぱとか土は?」
ぽんたが聞く。
理人は少し考える。
「試してみてもいいかもな」
「食う?」
「食わない」
「何で水は飲もうとした」
「飲んでない」
「飲もうとはしただろ」
「してない」
「顔してた」
「マルタさんと同じこと言うな」
ぽんたが得意げに尻尾を振った。
理人はもう一度,森の水を見る。
もし。
もし,別の場所の水にも同じ違和感があり,奥へ行くほど強くなるのなら。
そこにいる魔獣ではなく,森そのものに何かが起きている可能性が出てくる。
もちろん,まだ仮説でしかない。
今は水一杯だけだ。
「ガルドさん」
「何だ」
「次に森へ行くとき,無理のない範囲で水を何か所かお願いします」
「ああ」
「あと,場所は覚えておいてください」
「それくらいは分かってる」
ガルドが笑う。
「教師は細かいな」
「比較できないと意味がないので」
「はいはい」
理人は森の水へ視線を戻した。
魔獣が苦い。
それなら,まだ分かる。
魔力を持つ生き物なのだから。
けれど。
水まで苦いのは,どういうことなのだろう。
森の奥に何がいるのか。
昨日までは,そう考えていた。
今は少し違う。
理人が知りたくなったのは,
森の奥で,何が起きているのかだった。




